電車の窓から海が見えた。アオは思わず、のび上がって周辺の様子をうかがってしまう。
 浜辺や周辺の道は、水着を着た人や大きなイルカ型の浮き袋を持った人で、ごった返している。夏休みに入ったためか、小中学生や、アオと同じくらいの歳のグループも、中には見えた。
 同じ車両にも、海遊びの荷物を持った、家族連れがいる。
 海水浴場の最寄り駅に着くと、家族連れ以外も、何人かが電車を降りていった。
 その姿を見送って、アオと椿は引き続き電車に揺られる。

「アオ、あとどれくらい?」

 眠っていると思っていた椿がふと、はっきりとした声で言った。目をつむっていただけらしい。

「二十分程です」
「案外にすいてるな。小さくても水族館もあるみたいだし、もっと人が行くかと思ってた」
「ここからたくさん乗ってくるかもしれませんよ」
「ゼロとは言わんが、ないだろ」
「ふふ、そうですね。まあ、そろそろお昼時ですし、ちょうど電車に人が少ない時間帯なのではないでしょうか。車で行く方も多いでしょうし。外はともかく、施設の中は混んでいるかと思います。あまり期待はなさらない方が良いかと」
「そうか。いや、多少なら混んでいてもいいんだが。むしろ賑わいがないと、遊びに来てるって特別感がない。普通に経営も心配になるし」
「言われてみると。けれど、多少なら、ですね」
「多少なら、だ」

 少しして終点に電車が停まる。施設の名を冠する駅とあって、駅には道案内やポスターなどが貼られていた。「黄浦アクアパーク」という文字列が、あちこちに見える。
 黄浦アクアパークは、サイクリングロードやアスレチックパーク、いこいの広場などを敷地内に抱える、半島に造られた広大な公園である。椿の言った小規模な水族館の他に、フードコートや野外劇場などもある。
 時々、演奏会やトークショーなども開かれているようだが、基本的に椿は外で体を動かして遊ぶことに楽しみを覚えないため、アオも行こうと思ったことはなかった。
 ただ、調べてみると、公園の敷地の外にも「キラうらロード」という、買い物や食事を楽しめる通りがあった。工芸品のような、椿が興味を持ちそうな物を売る店もある。もし公園が駄目でも、そちらに行く予定である。
 ひとまず公園に入場して、入り口にあったガイドマップをアオは手に取った。当然下調べはしてあるが、調べている途中で椿に「行った時の楽しみに取っておけ」と言われたので、いつもよりは予備知識がない。

「どこか気になる場所はありますか?」
「アオは?」
「私は……大きな施設は西側に集まっているようですが、今の時間帯は特に混んでいるでしょうし、体力のある内に、東側を回る方が良いように思います。森の中に池もあるようですし、視覚的にも涼しいかと」

 ガイドマップを差し出すより前に、椿はアオの手元をのぞきこんできた。

「……東側もこれ、全部回らなくてもいいか? 俺の体力だと行き倒れそうだ」
「私もこの暑さですと、全部はさすがに厳しいです。戻る道があるようですから、途中で曲がりましょう。森の手前にある案内所にも寄りましょうか」

 言い合いながら、道を歩いていく。ずっと空調のきいた電車内にいたため、外はずいぶんと暑く感じたが、日傘をさして歩いていると、だんだんと体が慣れてきた。道路からの照り返しが少なく、木々のおかげで日陰も多いため、街中に比べると、風が涼しいようにも感じられる。ところどころに設置された、森に住む鳥や、生えている植物などの説明書きを見ていると、意外に時間が過ぎる。
 アオ自身は悪くないと感じているが、それよりも気になるのは、椿の感想だ。
 様子をうかがう限りでは、楽しんでいるようには見える。

「アオ、これ、ジャスミンだと」

 椿の見ている先には、細長い花びらを持つ白い花がある。

「お茶とかの。かわいらしい花ですね」
「詩に出てきたことはあったが、わざわざ花の形がどうとか調べようとまでは思わなかったから、初めて見た。しかも茉莉花ってジャスミンのことだったんだな」
「あぁ、なるほど。そういう楽しみ方が」
「うん。俺自身、ここで見るまで、俺はジャスミンの花を知らない、ということを知らなかったが。まさに無知の知だ。匂いも中々、図鑑で調べるだけでは分からなかっただろうし」
「匂い。そう言えば、ジャスミンの匂いってバス用品なんかでたまに見かけますが、私も本物の匂いは嗅いだことがないような気がします」

 植物になど興味がないかと思っていたが、椿は文学作品をよく読んでいるので、連想するものが多いらしい。嬉しい誤算だった。
 思えば、普段はあまり意識していないものの、名前がまさに植物の名である。

「椿という木は、冬に花が咲くのでしたよね」

 予定通りに途中の曲がり道で折れて、入り口方面に戻る道すがら、アオがそう尋ねると、椿は「おお」と妙な反応をした。

「とうとう呼び捨てになったかと思った」
「しません」
「頑固。まあそうだ、椿の花は基本的に冬。うちの庭にもあるぞ」
「えっ、どこにですか」
「爺さんの部屋から見える辺りに、一本ある。うちの二階からも一応見えるが……そうか。アオの行動範囲にある窓からは、あの辺は見えねえのか。そもそも、言われて気がついたんだけど、アオに庭を案内した奴っていない? 婆さん死んでからは庭師入れるのも年一になったし、今は俺も含め庭に興味ある奴っていねえし」
「そう……ですね。庭師の応対は松田さんがしていますし、私もあまり用はなかったので、ほとんど足を踏み入れたことはないです。お爺様の部屋の方となると、なおさら」
「じゃあ、今度巡るか。俺も何が植えてあって、どういう造りで、とかは覚えてねえけど」
「ありがとうございます。……すみません、不躾な質問かもしれないのですが、あの庭はお婆様のご趣味だったのですか?」

 椿の祖母である希彩が亡くなってから庭師の来る回数を減らし、現在、晴田見家にいる人は庭に興味がないとなれば、管理していたのは希彩だったということになる。
 椿はうなった。

「趣味……趣味だったんかねえ。厳しい人だったし、俺も小さい頃だから、そこは分かんねえ。婆さんの管轄ではあった」

 厳しいという言葉は、希彩について尋ねた時、皆が言う評価である。松田すら、希彩の前では気が抜けなかったと言っていた。

「けれど、椿という名前は、お婆様がつけたと以前聞きました」
「それが?」
「孫につけるくらいなら、椿も、その木を植えた庭も、愛していたのではないでしょうか」

 名前に愛情がこもっているとは限らないことは、身をもって知っている。ただ、晴田見家も真井家も、椿には大きな愛情を持っているように見える。

「俺の名前は、春さんからもらったと、一応聞いてる。親友だったから」
「あぁ、木に春で。では私の妄想でしたね」
「いや、言っといてなんだが、そうとも言い切れないと思う。……もし趣味だったとしたら、庭の手入れ、もう少ししてやんなきゃ悪い気もしてくるな。今更か?」
「今更ではないでしょうが、庭は中々、知識がいりそうです」
「下手に変えても怒られそうだ。たまに眺めるくらいにしとこ」

 ふと椿は言った。

「アオは、ちょっと婆さんに似てるかもしれない」
「え?」
「何となくな。……あ、あそこにあるの、桔梗じゃないか」

 他愛のない話をしながらも、所々に設置された説明文をきちんと読んでいったため、入り口に戻る頃には、アオの想定よりも時間が経っていた。
 西側に行く前に、近くの広場にあったベンチに腰かけて、休憩を取る。木陰になっているおかげでかなり涼しい。視界に見える噴水も、気分を落ち着かせた。噴水は囲いの中に水を貯めるタイプでなく、足元から噴き出してくるタイプで、自由に水遊びができるようだ。時々、子供のはしゃぐ声が、空まで届きそうなくらいに高く響いている。

「あと、西側ざっと見て、フードコートで食事して帰るか。アスレチックとか体験なんちゃらとか、アオがしたいのある?」

 渡していたガイドマップを返された。

「私は大丈夫です。レストランやカフェなら、公園の外に色々とあるようですよ。ゆっくりしたいのであれば、そちらの方が良いように思います」
「アオはどっち希望?」
「椿さんが希望される方です」
「アオの希望を参考にしたい」
「……しいて言うなら、外です」
「じゃあ外を第一候補で。フードコートも、覗くだけ覗こう。……もう少し休憩したら」

 アオはうなずきながら、ちらっと椿のかたわらにあるバッグに目を向けてしまった。

「お疲れなら、荷物お持ちしますよ」

 大抵はほとんどの荷物をアオが持つのだが、今日は椿の分は、全て椿が持っている。バッグの中身を用意したのも椿自身だ。
 アオの申し出に椿はため息をついた。

「今日は遊びだろ。仕事をしようとするな。財布くらいならまだしも、水筒二本は持たせないぞ」

 不服ではあるが、やたらと食い下がるのも良い下僕とは言えない。

「じゃあ、塩飴をどうぞ」

 アオは自分のバッグから、塩飴を取り出した。

「塩……塩は思いつかなかった」
「経口補水液も制汗剤も防虫剤もかゆみ止めも日焼け止めも手ぬぐいも扇子もあります」
「分かった分かった! 塩飴もらう。制汗剤と扇子借りる」
「扇ぎます」
「貸して」
「はい。袋もあるので、ゴミは私に」
「用意のいいことで……。ありがとう、本当に」
「光栄です」
「つーかアオ、自分の水筒と経口補水液で、既に二本持ってるじゃねえか。俺が持ってやりたいくらいだわ、そのバッグ」
「だめです」
「……まあ、疲れてかえって迷惑かけそうだから、止めておくけど」

 少しして、横からはらはらと風が吹いてきた。
 扇子がアオに向けられている。
 椿の方を向いても、何かを拒むような横顔しか見られない。
 アオの心臓は居心地悪く縮こまる。扇子を返してほしくなったが、取り上げるのも失礼だ。そして、今日は遊びだという椿の言葉も、頭の中で繰り返される。
 仕事をするなと言われたが、アオにとっての仕事は、元はと言えば恩返しである。休日でも遊びの最中にあっても、アオのすることは変わらない。そのはずなのだが、椿の認識とは食い違っている。
 そして、アオがするべきだと感じることと、椿に求められている振る舞いは、異なる。
 どちらを優先するべきかは明白である。

「ありがとうございます……」
「うん」

 疲れているせいか、椿の笑みは妙に素直で、いつもごまかそうとしているアオに対する優しさが、露骨に出てしまっている。
 その扱いにアオは、けして嫌とは思わない。
 ただ、ひたすらに恩が積み重なってしまい、返し切れないと、途方に暮れてしまうだけだ。

「椿さん、ありがとうございます」
「聞こえてるよ。どういたしまして」

 大したことはしていない、とでも言いたげな顔をしているが、アオの心にあるのはこの一瞬だけではない。
 母に家から閉め出されて、冷たいベンチに座っていた夜は、椿に与えられた日々に埋もれて、とうの昔に見えなくなっている。その上に、例えば扇子の風のような優しさが、ひとひらの花びらのように重なる。ひとひら重なる度に、その下に積もっている恩の山を思って、感謝の念を感じてしまう。そして「分かったから」と呆れられるのである。
 また、口をついて出そうな感謝の言葉を、口の中で抑えて、ぼんやりと輝く噴水を眺めた。
 いつまでも、こんな日々が続けばいいと、心から思う。
 だが、それは不可能だと、進路について考えているうちに諦めがついた。変わらない関係はない。
 だからアオはこのところ、せめて、この日々の一部だけでも持ち続けられたらいいと、願うようになった。
 下僕としてのアオが力足らずで、不要どころか椿の邪魔になっても、まるで無価値になる訳ではない。夜中、疲れて帰った椿を出迎えるくらいのささやかなことでも、椿はアオに感謝をしてくれる。大きな花束を贈ることができなくても、一輪の花の、そのひとひらだけでも、喜んでくれる。
 椿がそういう人だと知ってはいたが、最近やっと、その事実を飲み込むことができるようになった。
 返しきれなくても、嘆くようなことではない。
 悔しくはあるが、その分頑張ろうと思える。
 さみしくもあるが、椿には関係のないことだ。
 自分の我がままさえ抑えることができれば、誰もが幸福なままでいられる。

「よし。そろそろ行くか」
「はい」

 椿に続いて、アオも立ち上がった。
 公園の西側は、東側よりもエンタテインメント要素の強いエリアになっている。様々なアトラクションが組み合わされたアスレチックや、レンタサイクルと海の見えるサイクリングロード、トランポリンやすべり台が置かれた広い芝生。小さな水族館とフードコートの入った建物も存在している。東側に比べると、人の数も断然多い。
 混雑を予想しながらも、アオと椿はまず、建物に足を踏み入れた。
 エントランスには案の定、多くの人がいる。ただ、エントランス自体が広く作られており、なおかつガラス張りになっている壁がいくつかあったため、思っていたよりも開放感があった。
 フードコートは二階だった。

「お、海が見える」

 階段を上りきると、椿が言った。椿の視線の先に目を向けると、窓の奥に、濃い青色をした海が見えた。その手前を自転車が走っていく。

「……そう言えば、海に行くという話をしていたのに、まだ海には行っていませんね」
「この公園からだと海には下りられないらしいぞ」
「あ、そうだったんですか」
「リーフレットに書いてあった。……帰る時、行きに見たあの浜辺で降りるか。人多くても、ちょっと近づくくらいなら平気だろ」
「そこまで体力がもちますか? 疲れたらすぐ言ってくださいね」
「アオもな」

 昼過ぎのためかフードコートは多少はすいていた。ただ客層はやはり家族連れで、騒がしい雰囲気があった。ざっと見回ってはみたものの、これと言って食べたいものが見つからなかったこともあり、やはり公園の外にある店も見に行ってみようということになる。
 水族館を見て回り、急に椿が「せっかくならアスレチックもやるか」と言い出したため、軽く遊んで休憩してから、アオと椿は公園を出た。



 駅の反対側すぐに、「キラうらロードへようこそ」という垂れ幕のかかった商店街はあった。新しい設備が多い公園とは対照的に、一昔前の雰囲気を持つ建物が多いが、店構えは清潔だ。ちらほらと、二十代から三十代くらいの人が買い物を楽しんでいるのが見受けられる。こちらはこちらで、知る人ぞ知る観光地になっているらしい。
 また、案内看板によれば、商店街からは少し外れるものの、海の見える場所もあるらしかった。

「椿さん。お爺様と松田さんご夫妻に、お土産を買っていきませんか?」
「あぁ、菓子でも買っていくか」

 食事処とお土産を探しつつ、商店街を一通り見ていく。店の外に、手作りらしい小さな置き物を並べて売っていたり、風鈴を飾っていたりと、見ているだけで楽しい。
 基本的に詩や絵画など、芸術方面に関心が高い椿が、好きそうな雰囲気だ。
 見かけたものや土産候補について、だらだらと話しながら歩いていると、椿が言った。

「そう言えば、服」

 続きを待ったが、先がなかったので、アオは首を傾げた。

「……服が何ですか、椿さん?」
「……が、増えたな。何となくこう、色のついた奴が。アクセサリーとかも」

 何故か、後悔しているような顔をしている。原因が分からないので、一旦置いておく。

「私の服ですか? そうですね。喜多野くんと出かけるに当たって、さすがに茶色と黒のみの服装や、ワイシャツは適していないかなと思いまして。増えたのは結局、喜多野くんが買い物に付き合ってくれたおかげですが」

 今日着ている服も、仕事着では場から浮いてしまうだろうと、動きやすさを意識してシンプルにしているが、地味にはならないように気をつけた。

「ああ、喜多野か……」

 商店街を見回すと、店先に服を並べている店も複数ある。椿もそれが目に入って、会話の俎上に載せたのだろう。

「けれど、服選びは難しいですね、やっぱり。椿さんの服を選ぶのは、それなりにやりがいもありますが……。自分の服は、黒子でも良いだろうと、今でも考えてしまいます。不審になるので止めておりますが」
「自分を棚に上げるようだが、それは最早、興味がないという範疇でもないだろう」

 そう言われても、今から服やアクセサリーに関心を持つのは難しい。
 それよりも、何となくずっと椿が後ろめたそうな顔をしている方が気にかかるので、話を変えることにした。

「あ、椿さん、松田さんご夫妻に海鮮茶漬けのセットはいかがでしょうか。美味しそうです」
「良いと思う。……夕食、魚系にするか」

 虎太郎へのお土産も購入した後、途中で目星をつけていたビストロに入った。地元食材を使った料理が売りのようだ。店の壁に飾られている絵画も、地元出身の絵描きによるものらしい。アオはシーフードドリア、椿はアクアパッツァを頼み、会話もそこそこに食事に移った。
 元も美味しいのだろうが、今はそれ以上に、空腹がよく効いていた。
 半分くらいまで夢中で食べて、ふと可笑しさがこみ上げてくる。

「何だか今日は、遊んだ、という感じがします。いつものようなお出かけももちろん楽しいのですが、たまにはいいですね。たくさん体を動かすのも。今夜はよく眠れそうです」

 普段、椿と全く遊ばないという訳ではない。ただ、基本的には椿の外出に、アオが付き添うという形を取ることが多い。そして椿が出かける先は、書店や講演会、博物館など、大きく体を動かす必要のない場所ばかりだ。アオから提案をして、しかも体を動かす場所に行くというのは、二重に珍しいことだった。
 疲れてはいるが、体の隅々まで充実感で満ちている。

「俺も、楽しかったが。……中学まで一応、週一で空手に行っていた俺よりも、特に何もしていないアオの方が体力があるのは何でなんだ? 素質か?」
「さあ……。思い当たることがあるとしたら、身元調査をする時の尾行や張り込みですかね」
「それだ」
「あと、当たり前ですが、体力は何もしなければ落ちていく一方です。体重は増えますが」
「またここ来るか。結局、アスレチックもやってみたら面白かったし」
「そうですね。もう少し、涼しい時に」

 わずかに沈黙が降りた。

「今年でなくても、来年でなくても、いつか」

 来年は椿が受験生になる。忙しくなるだろう。
 その先は、分からない。
 椿が幸福であればいいと飲み込んだはずなのに、その不確かさに、アオは少し苦しくなった。

「――アオ」
「はい、椿さん」

 椿の顔には微笑みが浮かんだ。

「あとで話したいことがある」

 きっと椿も似たようなことを考えただろう。大好きなはずの微笑みに、初めて恐れを感じる。
 聞きたくないとは、アオは言えない。

「……はい。あと、というのは、いつのことですか」
「いい時があればいいんだが」

 それで終わりとでも言うように、椿はフォークを口に運んだ。
 空中に放り出されたような気分でそれを眺めた後、アオも食事を再開した。