「喜多野くん、次の移動教室、一緒に行きませんか」
「ん、行こっか」

 それを言うだけで、アオの心臓はどきどきと強く打った。
 教科書や筆箱など一通りを持って、他の生徒とは微妙にタイミングをズラしつつ、教室を出る。単に普通に話しているだけでは、すぐに他の生徒に話しかけられてしまう可能性が高い。早々にアオは本題に切り込んだ。

「今日、でなくてもいいのですが。近いうちに、私にご飯を奢らせてはくれませんか」
「あぁ、いいって言ったのに」
「あと……話もしたくて」

 口にすると、少し視界が暗くなるような錯覚があった。隣にいる喜多野のことも、よく見えなくなってしまう。

「答え?」
「……はい」

 喜多野の歩調が遅くなる。初めて外で会った時、喜多野が当たり前のように自分に歩調を合わせてくれたことを、ふと思い出した。椿と出かける時には、先導するか、あるいは椿の妨げにならない距離を保つため、喜多野の距離感は新鮮だった。
 何もかも悟っているような深いため息が聞こえて、心臓が絞られるように痛む。
 喜多野はそっと、本来曲がる必要のない廊下で曲がった。
 アオは咄嗟に腕時計を見てしまうが、迷った末に、喜多野のあとをついていった。あまり使う人のいない男子トイレの、入り口手前の壁に寄りかかっている。人の行き来がある廊下からは、陰になって見えない場所だ。アオも姿を見られないように、喜多野のそばに立った。

「これ言うの、ズルとは分かってるんだけど」

 壁に背をつけたまま、しゃがみ込んでいく姿を、アオは見ることしかできない。喜多野のノートや教科書は雑に床に放り出された。ひとり言のような呟きが耳に届く。

「告白しなきゃ、良かったな」

 まだ正式に答える前にも関わらず、何故か、アオの告白への答えは、喜多野には明らかであるらしい。
 そして実際それは正しかった。
 答えを変える気は一切ない。だが、アオはうつむいてしまう。

「私、そんなに分かりやすかったですか」
「アオさんから声かけてきた割に、遊びに行きたいって顔でもなかったから。けど、前々から何となく、そうなるだろうなとも思ってた」
「前々から……」

 一体いつからと問いかけたかったが、今は問いかけをできる雰囲気にない。
 喜多野の顔が上がる。見下ろすことに罪悪感を感じて後ずさるも、壁が背に当たった。

「友達として仲良くしておけば良かった。あと一年で卒業だし、「椿さん」とのことで悩んでるって言ってたから、最後と思って言っちゃったけど。馬鹿だったなぁ、俺」
「すみません、愚かなこととは分かっているのですが……駄目、なんですか。友達でいるのは」

 アオは失恋を、物語の中でしか知らない。辛いらしいとは知っているが、その想像はふわふわと宙を浮いている。恋すらも、きっと本当にはよく分かっていないのだから、その先など夢のまた夢だ。

「それは……アオさん次第かな」
「私?」
「俺はいいよ。何と言うか……言ってしまえば、駄目元だったから。何なら、すぐに断られなくて、ちょっと焦ったくらい。本気じゃなかったって訳ではないけど、少し諦めもあった。今はすげぇ落ち込んでるけど、正直、たぶんすぐ立ち直れると思う。ごめんね」

 駄目元であった理由が気にかかるが、ひとまず首を振った。

「私がどうこう言えることではありません」
「もう一回言うけど、本気じゃなかった訳じゃないから。一年の時から、今までずっと、好きだった」
「……ありがとうございます。それは、本当に、嬉しかったです……」
「うん。という訳で、俺は大丈夫なんだけど」

 喜多野は言いにくそうに、顔をしかめた。

「けど、アオさんは……。友達じゃなくて恋人になりたい、ってのは、結局、俺たちくらいの歳だと、アオさんをやらしー目で見てるってことになるんだけど。そう言ってきた奴と、友達に戻れる?」

 授業始まりのチャイムが鳴って、アオの肩はびくりと跳ね上がった。
 授業に遅れるなど、初めてだ。従者の評判は、主人の評判にもつながってしまう。
 だが、喜多野は立ち上がろうとはしていない。アオも、ここに置いていくことはできない。加えて、今は授業に行っても、とても集中できそうにない。
 告白された時よりも、鼓動が激しい。

「わ、私は……」

 知識として頭に入ってはいて、喜多野と過ごす間にも考えはしたが、はっきりと本人の口から言われると、頭がくらくらとした。
 持っていた教科書を、胸に抱き寄せる。
 だが、突然足に何か触れる感触があって、全てばさばさと足元に落としてしまった。
 下を見ると、喜多野の腕がのばされて、ふくらはぎに触れている。指だけではあったが、細かな棘でも生えているかのように、触れられている部分から感触が伝わってきていた。

「大丈夫ですか喜多野くん! 当たっていませんか」
「ち、ちょっと当たったけど、角じゃないから大丈夫」
「すみませ……」

 声は尻すぼみに小さくなってしまう。
 散らばった教科書を拾い集めて、喜多野はアオに手渡した。
 それからおもむろに立ち上がると、アオに体を寄せた。既にアオの背は壁についている。横に避けて逃げようとしたが、足で封じられた。
 今度は喜多野を見上げなければならない。
 いつもより近い位置から声が降る。

「まあ、でも、さ。つまりこういうこと。無理じゃない? これと友達に戻るの」

 知らないうちに自身を覆っていた膜を、急に取り外されたようだった。指先が冷えて、危機感で勝手に身が縮まる。その唐突さに、言葉で思考をまとめる余裕はない。
 だが、だからこそかえって、アオの口からは本心がまろび出た。

「どうしても、と言うのなら、いいです」

 喜多野は風圧でよろめくようにアオから離れて、再び反対側の壁に背をつけた。

「……いやいやいや、いやいや。いいですって。自分の言ってる意味分かってる?」
「わか、わかって、は、います」
「俺には分かってないんだけど。しかも、友達に戻りたいのに? いいの? 頭大丈夫? 本当にごめん。無理させすぎた」

 理屈では、自分がめちゃくちゃなことを言っていることは、分かっていた。だが、根のところではよく分かっていない。
 母は、そういう関係にあっても、友達だと言っていた。

「たいせつな人を、その程度でつなぎ止められるのなら、いいような気がして」
「なんっ……じゃあ何で俺の告白は、断るんだ。その程度、なのに」
「椿さんによばれたとき、すぐにむかえるように、です」

 本当は食事の時に話す予定であったが、混乱のせいで、考えていることがぼろぼろと口から出てしまう。

「きたのくんも、恋人というかんけいになったら、一緒にいる時かんを必要とされると思うのですが、わたしにはそのじかんが苦痛で……。とはいえ、せんじつのように予定のとちゅうで帰るのも、いいと言われても、どうしても申し訳なくかんじてしまうのです。こいびとというかんけいを選んだのであれば、あるていどはそれにふさわしいふるまいをするべきだと、私は思うので。異せいとの付き合いにはせつどを保つとか、いっしょにいるあいだは、ゆう先するとか……」
「友達はいいの……って、恋人に比べれば自由度は高いかもだけど、でもさぁ」

 基本的に優しい喜多野からは初めて聞く声色だ。心底呆れ果てている。

「アオさんの友達にそんなのがいたら、たぶん「椿さん」は怒るよ」

 思い切り、顔を上げてしまった。罰の悪さも感じたが、それよりも不安が勝つ。

「おこるんですか?」
「会ったことないけど、椿さんがアオさんの言うような人なら、絶対に怒る。賭けてもいい」
「ぜったい」
「聞いてみなよ、自分で」

 そう言われて報告する場面を想像しようとしたが、頭が動かない。真っ白なままだ。
 途方に暮れて立ち尽くす。
 喜多野の眉が下がった。

「……とにかく、それは止めて。俺も、友達としてまた、仲良くしたいとは思ってる。気持ちの切り替えがいるから、すぐに元通りは難しいけど、アオさんがいいって言うのなら、今まで通り付き合うようにする。どうせ同じクラスで、隣の席なんだしさ」

 気持ちに応えられなかったのは自分だと言うのに、逆にフォローさせているのが、申し訳ない。

「とりあえず、そろそろ授業……は俺はサボって、保健室行くけど。一緒に来る? 俺としては、具合悪そうだったから付き添いで、っていう言い訳に使わせてくれると嬉しいかな」

 返事をしようとしたものの、言葉というものが出てこない。久しぶりの感覚だ。昔の家にいた時にはしばしばあった。とにかく何度もうなずくと、喜多野は自身の教科書を拾い上げて、行くようにとアオをうながした。隣り合って歩く。
 授業中の廊下は、電気がついているのに、少し薄暗く見えた。

「すみません、迷惑かけて」

 少しして、やっと言葉が出てくるようになった。

「いや……こちらこそ、ごめんね……ほんっとうにごめん」
「大丈夫です。パニックになりやすいたちなんです。あがり症気味と言うか」
「それ、余計に、だから」

 教室の横を歩く前には緊張した。曇りガラスになっていて、廊下は見えないはずだが、距離を取ってしまう。声も足音も抑えた。
 保健室が見えてくる。
 ふと、喜多野は言った。

「アオさん。椿さんって、彼女いるの?」
「え? えぇと、恐らくいないかと。許嫁はいますが」
「許嫁がいる人っているんだ。……従者がいるんだからいるか。じゃあ、その人が彼女みたいな感じ?」
「うーん。いわゆる彼女とは違うと思います。ほとんど形骸化しているようですし」
「そっかぁ」
「どうしてですか?」
「何となく。あ、そうだ。飯の奢りは、さすがにもういいから」
「……ありがとうございました」

 肩を縮めながら頭を下げる。喜多野は優しく笑った。

「けど、せっかくなら俺、その時間で椿さんと、遊びに行ってみてほしいな。たぶんだけど、楽しいと思う」

 その言葉を聞いた瞬間、喜多野には悪いと感じながらも、アオは胸に、小さな灯りがともるのを感じた。
 共に出かけることは珍しくないが、遊びに行くことはない。
 そして最近、時々椿はアオに黙って用事を引き受けては、アオを伴わずに済ませてしまうことがあるが、遊びの誘いであれば断られないはずだ。休暇を奪うことへの心苦しさはあるが、来年以降、今よりさらに共にいる時間が少なくなることを思えば、アオでも一度くらいはわがままを通そうという気になれる。

「ありがとうございます」

 自分でも呆れてしまうくらいに、声は明るくなっていた。