帰り着いた時には暗くなり、家からは人が行動している気配のようなものが失せていた。
 普段の習慣からすれば、夕食が終わり、風呂にもそれぞれ入って、各自が自室に引き上げている時間である。松田も自分の家に帰宅しているはずだ。
 椿は音を立てないように玄関扉を開けた。センサーが反応して、電気がつく。
 やはり、中は静かだった。
 アオは恐らく、起きてはいる。
 出迎えがないのは、単に椿の帰りに気がついていないだけだろう。出迎えなどしなくていいと言っているので、特に問題ではない。
 靴を脱ぎ、廊下に上がり、立ち止まる。
 まっすぐに行けば、アオの部屋もある、晴田見家の区画。左に折れると、かつて父と母も住んでいた、真井家の区画に繋がっている。両親は出ていき、ほとんどその家族ごとの区分けは意味をなさなくなっているが、今でも意識の上ではそういう陣地分けがされている。両親がいなくなってから来たアオもその意識を感じ取ったのか、いつの間にか用事がなければ、真井家の区画には来なくなった。
 それぞれの区画には、台所や風呂場など、生活に必要な設備がある。
 ところで椿は土産に、アイスを買ってきていた。
 アイスは冷凍庫に入れなければならない。子どもでも知っている。
 ただ、入れるべき冷凍庫などというものはない。容量がいっぱいである、などという場合を除けば、どこに入れてもほとんど同じだ。あえて晴田見家の台所まで足を伸ばさずとも、真井家にある冷凍庫で事足りる。
 だから、今日はもう晴田見家の方へ行く必要はない。
 そう思いながらも、椿は廊下をまっすぐに進んだ。
 帰宅の途中、「だけど」と何度も考えて、その度に、その先を思いつかずに、取り消した。そして何度目かの「だけど」かは分からないが、ふと、思いついた。
 だけど、アイスを勝手に冷凍庫に入れて、明日の朝、料理を作る時に、アオや松田を困惑させると悪い。先に報告しておかなければならない。
 アオの部屋の前に立って、改めて言い訳を確認してから、椿は中に声をかけた。

「アオ、まだ起きてるか」

 すぐに中で、ばたばたと人の動く音が聞こえた。
 そしてふすまが勢いよく開かれた。

「お帰りに気づかず失礼しました、椿さん」

 生真面目な顔を見て、笑ってしまう。

「いいよ。気づかれないように帰ったから」
「何故……。下僕として気づくことができるかの試験ですか?」
「そこは、寝てるのを起こさないように、とかだろ」
「私が椿さんのお帰りを待たずに寝ているとは、椿さんも思っていないでしょう」

 確かに、どうせ起きていると確信していた。

「そちらは、お土産ですか?」

 アオの視線は、椿の手にある紙袋に向けられた。中身は箱の中に入っていて見えないが、軽く持ち上げる。

「アイス」
「良いですね!」
「冷凍庫に入れておこうと思ったんだが、勝手に入れておくと邪魔かと。あぁ、数が半端だけど、俺の分とか言わずに、好きに食っていいから」
「かしこまりました。入れておきます」

 当たり前のように紙袋を取られた。

「あ、私も昼間、お爺様にケーキのおつかいを頼まれて、一緒に椿様の分も買ったんでした。いつ頃お帰りか分かりませんでしたし、気温もやや心配だったので、一緒に売られていた焼き菓子ですが。明日のおやつにでも、お出ししますね」

 反射的に言ってしまう。

「いや、今食べる」

 紙袋を持って台所に向かいかけていたアオは、椿を振り向いた。

「む。今日は頭をお使いで?」

 顔を見るだけのつもりだったが、声を聞いていたら、もう少し話したくなった。居間で食べれば、食べている間、アオは椿とともにいようとするはずだ。
 それこそが、自分が厭っているアオの忠誠心の利用だ。美鶴のひんやりとした視線を思い出しながらも、椿はアオにうなずいて見せた。

「気の合わねえ奴との会話ってのは、頭を使うもんだろう」
「ふふ。椿さんが良しとするのなら、今お出しします」

 やや早足気味に遠ざかる背を、椿は追いかけようとする。だがふとアオは立ち止まった。

「椿さん、私の部屋か、ご自身のお部屋でお待ちください」
「え、いや、それは悪い……」
「私の部屋、ちょうど今日掃除をしたので。お構いなく」

 軽く頭を下げて、アオは台所に入っていった。
 自分の部屋に戻れば、皿を回収するまで待つにしても、アオは部屋の前で留まるだろう。
 アオの部屋には、幼い頃は幾度となく入ったが、中学に上がった頃から、ほとんど入らなくなった。
 悩んだ末に、椿は後退して、アオの部屋のふすまを開けた。



 アオの部屋となった和室は元々、客間として使われていたが、アオが来てからは、すっかり様相が変わった。
 特に目立つのは本棚だ。背は低いが、畳の上に、ぎっしりと本が入った本棚が二つ並んでいる。昔入れられていたのは漫画のみだったが、今はそれ以外も入れられているようだ。書斎は書斎で別にあるので、ここにあるのは手元に置いておきたいものなのだろう。本棚の上には、鏡やバッグが置かれている。
 そして家具は、軒並み現代風だ。部屋の真ん中にはローテーブル、壁際にはパソコンなどが置かれたデスクと棚。寝具も敷布団ではなく、低いベッドのようだ。
 それぞれの家具の足元を見ると、畳を傷つけないように、四苦八苦している様子が見て取れた。
 掃除をしたという言葉の通り、整然としている。
 唯一、ベッド周りだけ乱れているのは、ついさっきまでそこにいたということだろう。
 若干おののきつつ、ふすまのすぐそばに、椿は腰を下ろした。
 少しして足音が戻ってくる。

「あ、失礼しました。座布団すぐお持ちします」

 ローテーブルの上にお盆が置かれた。湯気のたつマグカップ二つと、焼き菓子、そして椿の買ってきたアイスが載っている。
 アオはタンスから新たな座布団を持ってきて、椿に渡す。そして自分は、椿の斜向かい、ローテーブルのそばにあった座布団に正座した。

「すみません、椿さん。私もご一緒してよろしいですか?」

 アイスのことだろう。許可を取っているが既に持ってきているし、顔はにこにこと笑っている。

「ほぼ事後報告だろ。いいけど」
「ありがとうございます」
「いつも正座なのか?」
「……いえ」
「崩せ」

 アオはやや遠慮がちに、両膝を立てて座り直した。
 アイスを手に取り「いただきます」と、丁寧に手を合わせる。

「今日は椿さん、ピアノのコンサートにお呼ばれでしたよね? 演奏はいかがでしたか?」
「良かったんじゃないか。クラシックと聞いていたから、大人しい雰囲気なのかと考えていたが、案外にエネルギッシュだった。会場の雰囲気だけだが、ジャズっぽさがあったな」
「……私でも眠らなくてすみそうな?」
「自分で言うなよ」
「椿さんが仰らなかったので」

 アオはおもむろに立って、ハンガーを取ってきた。

「気づかず失礼しました。上着、おかけください。あとで戻しておきます」
「あー……長居しねえから」
「ずいぶんとお疲れでしょう。まだ外での顔をされています。それに、感想がこう、私宛ではありません」

 椿の脳裏に、恋をした詩人によって書かれた、浮かれ調子の詩がいくつもよぎる。

「私の部屋で構わなければ、ごゆっくりおくつろぎください」

 無言で上着を手渡すと、アオの顔には満足気な笑みが浮かんだ。
 見ていると、こり固まっていた心が、ふわふわと綿菓子のようにとけていくのを感じる。

「あんまり俺を甘やかすな……」
「甘やかしますよー。椿さんが来てくれて、嬉しいので」
「駄目になる……」
「椿さんは何をしても駄目にならないので、大丈夫です」

 相手が下僕を自称する人でなければ、この場でプロポーズまでしていた。
 自分の手を封じるため、椿はマグカップに手をのばす。ホットミルクだ。いっそ濃い緑茶でも飲みたいところだが、眠れなくならないようにという配慮だろう。
 さすがにプロポーズは気色が悪いと反省しつつ、しかし決意はゆらぐ。
 一生一緒にいてほしいと椿が言えば、迷わず「はい」と答える人間だ。おいそれと、恋人になってほしいなどとは言えない。だが、やはり、手放したくはない。

「何をしても、と言うが。実際、もし俺がアオにも許せないようなことをして、駄目になったら、アオはどうするつもりなんだ?」

 そう問いかけると、アオはホットミルクを飲みながら眉を上げた。

「反社会的な物品の運搬……みたいなことですか?」
「何だその例」
「今日、友人に言われまして。椿さんがするのではなく、もし私が悪い人の下僕になっていたら、そういう命令にも従っていそう、という話でしたが」
「アオ、汚れ仕事のイメージばっかり持たれてるのは何でなんだ?」
「下僕という単語のイメージから、ではないでしょうか」

 それだけではないように思うが、今はひとまず、これよりは掘り下げないことにする。

「とにかく、アオにも駄目だと思えるようなことを俺がしたら、だ。いくら何でもそれは、と思うような。セクハラとか、パワハラとか、親のすねかじりとか、詩の引用ばっかするとか」
「最後は何か違うのでは?」
「大して面白くもねぇボケにツッコミさせるとか」
「そこまで卑下せずとも……」
「今も俺、大概面倒臭い奴になってる自覚があるぞ」
「おいたわしいですねぇ。そんなにお疲れでしたか」

 冗談らしい調子ではあったが、向けられる笑みは、徹頭徹尾優しいままだ。

「これも、友人と話したのですが、椿さんと会ったばかりの私であったなら、全て肯定していたと思います。ですが、今は。場合にもよりますが、これ以上は、と感じたら、きちんと手前でお咎めいたします」
「……本当か?」
「証明はできませんが……。そうですね」

 考え込むように、目が伏せられた。

「お恥ずかしい話なのですが、実は私、きっと皆さんに思われているより、ずっと欲張りで。本当は下僕から忠臣になりたいのですが、我が強すぎて、今のところ忠臣などとは、とても名乗れないような人間なのです」

 忠臣になる野望については初めて聞いたと苦笑いしつつ、黙って言葉を待つ。
 少し後ろめたそうに、小声になりながらアオは言う。

「椿さんの役に立ち、恩を返すだけでは、満足できないのです。おそばにいて、私こそが役に立ちたいし、直接、喜ぶ顔を見たいと本当は思っています。……ですが、仮に悪いことをしたら。椿さんは、ご両親やお爺様、松田さん、それに私を悲しませてしまったと、自分を責めるでしょう。そうなったら、私がどう励ましても、平気だと言っても、味方だと言っても、喜んでいただけなくなってしまいます。それが何より一番嫌なので。そうならないように、と思えば、椿さんの命令に背くことも、できるはずです」

 聞いているうち、言葉を失った。
 「何をしても駄目にならない」という言葉は、何をしてもアオは許すという意味ではなく、心底、椿の善意を信じているらしい。
 椿は、誰かを悲しませたら、自分を責めるような人間だと、本気で思っているらしい。
 それは事実だ。椿はアオが悲しむようなことはできない。アオを悲しませたら自分を責める。ただし、その理由は、幼い頃にアオの懸命さを目の当たりにして、自分に向けられた尊敬を裏切りたくないと、強く思ったからである。
 平たく言えば、アオにかっこつけるために、良い人間でいる。
 だからアオに励まされ、味方だと言われたら、まんまと喜ぶ可能性が高い。
 ただ、アオの思う椿は、もう少し高尚らしい。
 その差異は後ろめたくはあったが、絶対の信頼は、悪くはないものだった。
 そして、アオがきちんと自身を、悲しませた時に椿が罪悪感を感じる対象に含んでいることにも、やや照れた。もちろん含んでいるのだが、つまりアオには、自身は椿に大切されているという自覚がある。

「回答は、こんなところでよろしかったでしょうか。お世辞よりも、本心をお求めのように見えたので、できるだけ本当の気持ちをお伝えしたつもりなのですが、気を悪くされてはいませんか」
「もういい。充分以上の回答だった」
「良かったです。未熟なところは、これから直していきますから、もう少し待っていただけるとありがたいです」
「いいよもう。忠臣でも何でも名乗れ」
「それはちょっと、まだ」

 部屋の本棚にある、戦国武将に関する本を、軒並み引き抜いてから帰りたい。
 アイスの容器の底を、スプーンでこする音が聞こえてくる。「美味しかったか」と尋ねると、満面の笑みで答えられた。時々、一つ年上どころか、幼女に見える。
 さすがに、そろそろ出なければならないと思いつつ、立ち上がる気になれない。

「……ところで、友達と何の話してんの?」
「大枠では進路についてでした」
「あぁ? ……あぁ」

 どうして進路についての話が、アオの言ったような話に繋がったのか、分からずに首をかしげたが、椿はすぐに大体のことを悟った。仔細はさておき、自分の進路を考えるにあたって、何くれとなく椿のことを持ち出すアオの姿は、容易に想像がつく。
 椿の場合は、晴田見グループに入って、いつか父親の跡を継いでいくという道が、ほぼ既定路線のように扱われている。椿自身、そう順調にいかないだろうとは思いつつ、その扱われ方に異を唱えたことはない。
 だが、アオの場合は、何もない。祖父は養子であるからと言って、学費を出し惜しみしたり、晴田見グループに入れと強要するような人間ではなく、椿も、何か口出しして、アオの意志を変えることがないようにしている。
 中学の時は同じ高校に行く、の一点張りだったが、今度は比べ物にならない選択肢が広がっている。就職や進学以外にも、考えるべきことは多い。悩んで、色々と模索しているのだろう。
 しいて言えば椿は、できれば椿以外にも目を向けていてほしいとは、思う。
 腹立たしくはあったが、喜多野昌也が現れた時、やっとアオの世界が家の外に広がったように感じられて、確かに安堵もしたのだ。
 進路についても、喜多野昌也とのその後も、話を聞きたいという思いに駆られる。
 ただ、聞けば、何か言いたくなることは必定だ。
 やはりこの辺りが潮時だろうと、椿は腰を上げた。

「まあ、そろそろ行くわ。アオのおかげで、疲れ、取れた。ありがとう付き合ってくれて」
「あ」

 何か言いたげな声に目を向ける。アオはごまかすように微笑んだ。

「何だよ。……気になる」

 少し唇が引かれる。引き下がる時を間違えないようにと思いつつ待っていると、震えていた雫が落ちるように、声が聞こえた。

「椿さん。私にご用があったら、いつでもお呼びくださいね」

 何ら特別ではない、よく聞く言葉のはずだった。
 だが、一つ一つの音に、アオの気持ちがとけているようだった。

「私は、必要とされたらすぐにお応えできるように、自分を磨いておきますから」

 椿が何か言うよりも早く、アオは会釈した。

「それだけです。おやすみなさい」
「……おやすみ」

 ふすまを閉じて、椿は自室に向かいながら、息をつく。
 そして静かに心を決めた。
 関係性が主従でも家族であっても、共にいられるなら、良いはずだった。
 主人と呼ばれているうちに、思っていたよりも、アオに依存している自分がいた。
 椿を第一に考えるというアオの姿勢は、これからもきっと変わらないだろう。好意を伝えれば、自分自身を顧みずに、椿を受け入れてしまう危惧はある。
 だが、案外に大丈夫かもしれないとも思う。
 忠誠以外に関しては、アオは変わりつつあるように思えた。それも椿が焦ってしまう程に。
 喜多野昌也の存在や、進路を考えているアオの邪魔にならないかなど、問題はあるが、問題があるならば一つ一つ潰していけばいい話だ。それよりも、機を逃す方が大きな損失である。
 単純に振られる可能性だけは避けようがないが、と少し不安になりながらも、椿は手立てを考え始めた。