コンサート会場で、父親の取引先とその娘におべっかを言われながら、アオの顔を見たい、と強く思っていた。

「よく考えてみたら、アオさんを伴わないあなたに会う価値って、全くないかもしれないわ」

 食事を取って人心地つき、今すぐこの場から立ち去りたいという感覚はなくなっていたものの、遠慮のない言葉をかけられてまた、ちらっと同じことを思った。
 尊敬に満ちていて、それでいて親しみに溢れた、明るい瞳。幼い頃から変わらない眼差し。暗い想念などまるでないかのように振る舞う健気さ。
 アオの顔を見たい。
 目の前にいる人間は、悪い人間ではないものの、アオとは対極にある顔をしている。
 会う価値がない、と言われても、特に心動かされることはなかったが、一応言い返す。

「全くってことはないだろ」
「そう? だって真井くん、思いつく? あなたに会うことで、私にもたらされる利益。婚約解消の時期はほぼ決まっていて、話すべきことはない。あなた個人には大した興味はない。ただし、アオさんのことはだーいすき。そういう私は、真井椿単体と食事をするこの時間に、どう価値を見出だせばいいのかしら」
「あーうるせえ。何が望みかはっきり言え」
「アオさんを私にちょうだい」
「やらねえし、許可する立場でもねえし。アオに直接聞け」
「じゃあ勧誘するから、今度の食事会の時には必ず連れてきて」
「……嫌だ」
「あれもやーだこれもやーだ。そんなことで、アオさんを手放すなんて、できるのかしら」

 やたら大袈裟にため息をついて、美鶴は肩をすくめた。この料亭にも、着ている着物にも、その顔にも全く似合わない、洋画のような仕草だ。
 腹立たしいものの、今日のコンサートに椿を招待した父親の取引先と、その娘から逃げるためのだしに使ってしまったため、上手には出られない。

「でも、本当に、そろそろこりたんじゃないの」

 なおかつ、美鶴の言うことはことごとく図星なので、余計に言い返す言葉が見つからない。

「……こりてない。今日はちょっと体調が悪かった」

 アオが喜多野昌也と出かける日と重なったので、気が散っただけだ。

「どう見てもやせ我慢」
「やせ我慢も続ければ本当になる」
「今どきそういうの、流行らないんじゃなくて」
「流行りでやってねえよ」

 鼻で笑われた。

「確かに、あなたの危惧は分かるけれど」

 美鶴との付き合いは、アオよりも長い。形骸化しているとは言え、許嫁であるため、定期的に会ってもいる。意図的であったり偶然であったりときっかけは様々だが、お互いに大概のことは明かしてしまっていた。
 椿は美鶴が長年、実家の病院に勤めている医師の一人に片思いをしていることを知っているし、当然美鶴には、椿が抱えるアオへの気持ちも悩みも知られている。
 下僕と自称するようになったのは途中からだが、ほとんど晴田見家に現れた時から、アオは椿のために働きたがっていた。そういう相手に思いの丈を伝えた後、果たしてどうなるか。良いイメージが浮かばない。椿さんの頼みなら、と何もかもを快諾されて、恋人らしい行為が、業務として行動に追加されるだけ、という気がひしひしとする。

「でもあなた、アオさんに下心で接して、姑息な手段で欲を満たしている時、あるでしょう。頭撫でたり、わざと冷たく接したり。告白して思いのままにするのは駄目だとか言いながら、あれは許すの?」
「そっ……れは……」
「セクハラではなくて? あなたの立場だとパワハラの方が適当かしら」
「……はい」

 口では従者なんてしなくていいと言っているものの、事実上、椿とアオは、主従の関係になってしまっている。そして、それを自覚しつつ椿は、アオに甘えていることがある。単にアオが気づかない、あるいは許してくれているから問題になっていないだけで、後ろめたい記憶は数え切れないほど存在している。

「そういう中途半端なことをするくらいなら、さっさと告白するべきだと思うけれど」
「……だから、それも含めて、止めるって」
「できるの?」
「できる」
「やせ我慢」
「さっきの繰り返しじゃねえか」
「繰り返せば繰り返すほど、己と向き合うことになる。自分が何から逃げているか、意識せざるを得なくなる。いい加減、自分をごまかせなくなっているでしょう」
「催眠術か何かかよ」

 美鶴の見た目の印象もあって、魔術でもかけられているように思えてくる。
 仮にアオが喜多野と結婚でもしたならば、疲れた時、あの顔を見て癒やされたいと思うことすらも、罪になりかねない。当然、理由なく触れたりするのもご法度だ。だから今はアオを伴わず、一人でも動けるように努めているのだが、正直なところを言えば、美鶴の言う通りである。
 夢を覚ますように、素っ気なく美鶴は言った。

「とは言え、私もこのやり取り、もう飽きたから。別の話をしましょうか」
「別ねぇ」
「例えば、仮に自分が誰かに告白するとしたら、どんなシチュエーションにする?」

 く、と思わずうめいてしまう。

「それ別の話になってるか?」
「相手がアオさんとは言っていません。あくまで仮定の話」

 ごまかしにもなっていない。アオについての話の続きとして、椿は答えた。

「……するとしても、今じゃない」

 日々、姑息な真似をしているのは認めるが、だからと言って、今のアオに告白することを是とは言えない。
 無闇にロマンチックな言い方にはなってしまうが、従者だからではなく、好きだから、という理由で恋人になってほしい。

「ここまで何もなく来たから、自然に気づくのを待つ、ともいかないが……。意識させた後、考えさせる時間は必要だろう。恋愛に対してアオがどう思っているかも分からないし、俺も、様子見はしたい」
「様子見はした方がいいでしょうね。無意識なんでしょうけど、あの方、恋することを避けている節もあるし」
「……避けてるか?」

 小鉢に箸をのばしながら、椿は首をかしげた。あの年になるまで、浮いた話が一切なかったのは事実だが、避けているように見えたことはない。単に興味がないか、恋愛感情を持てるような相手がいなかっただけだと、ぼんやり思っていた。

「本人のいない場所だから、詳しくは言わないけれど、そうね。恋愛に関して、何か嫌な思い出があるのかしら、と思ったことがあるわ」

 言動はちゃらんぽらんだが、美鶴は人間の機微には敏い。ずっと女子校に通っていることもあり、椿は特に女性の扱いに関しては、美鶴を信頼している。
 椿の知る範囲で思いつくのは、アオの実の両親のことである。大人の言葉や、アオ自身が漏らした言葉から断片的に知っているだけだが、親としても、夫婦としても、理想的とは到底言えない人間だったようだ。
 両親のことでなかったとしても、直接聞くのは躊躇われる。

「まあその……喜多野昌也さん、という方に強引にアタックされて、考えが変わった、という可能性もあるわね。さすがに会っていないから分からないけれど。その人のおかげで、初めて自分の恋心に気づいた……とか」

 催眠術に続き、今度はまるで呪いの言葉のようだった。

「はー! ばっかみたい」

 個室から外に漏れ出てしまいそうなくらい、美鶴は大声を出して呆れた。

「そんな顔するくらいなら、あなたもさっさとアタックしなさい。体から始まる関係とか、よくネットの広告で見るけど。いっそそれもありじゃない? ちょうど一つ屋根の下なんだし」
「お嬢様が何てことを」
「要は、現在の関係性を破壊しろ、ということ。どんな創造活動も、まずは破壊活動から、と言うでしょう」
「創造活動、だろ」
「恋も芸術も同じ同じ」

 急に雑だ。こうなると美鶴は、極端なことしか言わなくなり、相談相手としては最悪になる。
 もうそろそろ潮時だろうと、取っておいた小鉢を食べつつ、椿はふと気になって問いかけた。

「てめえ、何でそんな俺とアオをくっつけたがるんだ」

 許嫁なのに、という話はさておき、美鶴はあまり人の世話を焼くというタイプではない。
 美鶴は口元を拭って言った。

「だって、あなたたち、私の……推しカプ? だもの」

 優雅な微笑みに合わない俗極まる言動に、椿はげんなりと顔をしかめた。

「俺も詳しくはないが、確かそれ、あんま知り合いに言うもんじゃねえぞ」
「そうなの? だから学校のみんな、こそこそとして、私に教えてくれないのかしら」
「たぶん玩具にされてんだよ、お前。芸能人の熱愛で騒ぐのと同じだ」
「あらら、そういうこと。私、誰と熱愛していることになっているのかしら。教えてくれたらサービスするのに」
「……火遊びは程々にしとけよ」

 呆れながら、椿はスマートフォンを手に取る。無意識にアオからの連絡はないかと確認し、自分の思考に気がついて、舌打ちした。