それは最低な出会い。

「好きになってしまったんだ」

 その言葉と共にひとつの紙片を手渡された。
 ふと、顔を上げれば、自分よりも五センチ少々高い位置で切れ長の目がふと和らぐ。

「……え、」

 交わった集団と集団が、そのままエックス状から、ブイの形を経て、離れてゆくのに、ふたつの影だけ、ぽつり、残された。
 赤い空の端で待機する群青色が、その質量をぐんと増す。

 視線と視線が交わう中、受けた側の目の色が、混乱で揺れるのに、射抜く側の切れ長の端がついと人の良さそうな形に細められた。

「――君のお姉さんを、ね」

 はっと、眼底に深い濃いグレイを飼った猛禽の双眸の中で、そのひとみがきゅっと縮まる。
「頼んだよ」、そう音を残し、青い影は、――――折原伊風は、瑞樹の元から遠ざかっていった。





 自室の布団の上、壁に背を預けて腰を降ろす。立てた膝、大腿と腹の間に挟んだクッションがふんわり心地よく、いつもの癖で膝頭に顔を埋めた。視線の先で、携帯電話の端末と、それから今日手渡された白い紙片がかさり、音を立てる。
 二つ折にされたそれには、折原伊風の字と、筆記体に近いような、流麗なブロック体でIDと書かれたアルファベットが並んでいる。その下に、11桁の数字。

「はぁ……」

 吐息と共に、こつん、膝頭に形の良い額を重ねる。
 首に掛けた水色のタオルにぽたり、黒糸から雫が落ちた。

 ――――バーコードリーダーの時代に。
 わざわざ、紙での交換、という古典的な方法を取る折原伊風に、意外さを拭えない。
 しかし、そのことが彼の真摯さを感じさせる要因となっていた。
 その場で突発的に思いついたことではない、ということを。
 試合会場に、都合良く厚手の小さな紙片があるとは思えない。
 自宅で、ハサミを使って形よく紙を裁断する姿が、不意に浮かんた。
 つまり、折原の気持ちは、本物であるということ。

「――――……」

 ぐいぐい、とまるで痛む箇所をなだめるように、その額を容赦なくその膝へと押し当てる。
 と、今度は、急に思いついたように、はた、とその顔を上げ、右手に挟んだ紙片をまじまじと眺めた。黒いボールペンが描くその字列は、瑞樹が知る彼の風評とは裏腹に、そこはかとない知性を感じさせるものだ。

「おり、はら、……いふう」

 ご丁寧に、ルビまで振ったその文字を、読み上げながら、つつ、と指先でなぞる。
 はた、と我に返り、きゅっとその身を縮めた。紅潮した顔を隠すように埋めたその膝で隠しきれなかった両耳が、鮮やかに色づく。
 ふと、高鳴る鼓動のその横で、きゅっと臓腑が縮む思いがした。
 脳内のシナプスが、悪魔の囁きを全身へと伝播する。
 ひゅっ、喉の奥が、小さく息を呑むのがわかった。
 遅れて、ドキンドキン、左胸が仰々しい音を立てる。

「――――俺、気持ちわる……」

 唇に乗せた言葉を免罪符代わりに、その言葉とは裏腹にその指がタタタタと文字盤を滑る。最初はひらがな、それから漢字へ。そしてカタカナ、アルファベット、――――。
 30センチ先の四角い紙片が教える文字通りに動く親指を、まるで他人事のような無機質な目が、つらつら追う毎に、ぽうと白く浮かび上がる液晶の中、彼と自分との関係がどんどん出来上がっていく。
 逸る心拍の音に急かされるように、悪事を一刻も早く完遂させるが如く、その親指が、類を見ない速さをもって作業を進めていくのを、瑞樹は、表情一つ変えずに見つめていた。

 バレたら、最後だ。
 もう、二度と彼を追うことは許されない。

 瑞樹より一つ年上、三年生の彼を高校バスケット競技のシーンで見るのも、あと五ヶ月弱のこと。
 その間にバレたら、――――ウィンターカップの地で自分は、そして彼は、どのような目をして互いを見ることになるのだろう。
 しかし、それさえ過ぎてしまえば、――もう、彼と会うこともないだろうことは確かだった。
 瑞樹は、自分自身が大学以降、第一線でバスケをすることはないだろうと、何故かそう思っていた。
 現状、都内ベスト4、今冬で悲願達成し、全国区の仲間入りを果たすことが出来たところで、それは類まれな運と巡り合わせの成す業だということは、瑞樹自身、一番強くわかっていた。仲間に恵まれたからこそ、そのスターティングメンバーとして、自分はコートの上に立っていられるのだ、と。
 そこまで思考を滑らせ、ひとり自嘲気味に息を漏らす。
 先ほどまでとは違った苦味が、つんと胸の奥深くを焼いた。

 ――――とにかく。
 方向違いの感傷に焦げる心を一度追いやるように首を緩く振る。
 一方の彼は、神奈川の強豪港北第三高校のスターティングメンバーの座を実力で勝ち取った男だ。
 彼の入学経緯までは知らなかったが、スポーツマンモス校との名高い港北第三高校のスターティングメンバーだ。スポーツ推薦を得て、満を持して華々しく入学を決めたことだろう。そんな彼にはきっと、大学に進学するにせよ、実業団の門を叩くにせよ、日本バスケ界第一線での居場所はいくつもあるように思えた。
 彼は、花だ。
 自分は、草だ。
 踏まれて、踏まれて、綺麗だなんて目を向けられることもなく、でもひたすらに上を目指して、伸びてきた、草だ。

 高校卒業してからの自分の居場所と、彼の居場所が交わうことは、おそらく、ない。
 それだけが、瑞樹を、彼自身ですら瞠目するような暴挙へと駆り立てた。

(件名、白峰です、――――……)

 ポツポツ、瑞樹の形の良い指が、画面上の四角を丁寧に押す音が響く。
 自分のラインIDが、趣味もへったくれもないような簡素なものだったことが功を奏した。 そしてニックネームは苗字だ。
 極力、性別を感じさせないような簡素な文体で、画面を彩っていく。
 女性のふりをしようとすればするほど、不自然さを増すだろうことくらい、経験のない瑞樹にもじゅうぶん想像できた。

(送信、――――……)

 本文は打ち終わり、最後のひと押し、というところで、くっとその指が止まる。
 頭全体が心臓になったのではないかというくらい音のする中で、自分の呼吸が速まっていることに、ごくり、生理的に喉が上下する。
 引き返す、最後のチャンスだ、と、理性が警鐘を鳴らす。

 ヒュン、

 感情が、その指を動かし、画面は一瞬の待機画面を経て、見慣れたメッセージ送信画面へと変わった。

(送ってしまった、――――)

 現実から逃避するように、その端末を枕元へと伏せる。
 そのまま、ぎゅっと枕を抱きしめて強く顔を埋めた。
 ――――今は、その端末が、着信を告げることが、何よりも怖かった。

 送った内容は、ただひとつ。
 どうして、自分を、――――"白峰ありさ"を知っているのか。

 ラインID以外に個人情報も何もない簡素な文章だった。
 折原伊風が、女性に困らないような端麗な容姿と人好きのする性格をしていることは、瑞樹が、彼に想いを寄せる一年あまりの中で、最も初期に得た情報のひとつだ。
 しかし、――姉と彼との接点を、瑞樹は知らない。
 ひょっとしたら、どこかで出会っていたのかもしれない。それにしても、彼を港北第三高校のバスケ部員と知れば、姉のことだ。弟にその話をしないわけがなかった。そして、折原の方にしても、かの強豪、港北第三高校のバスケ部員という、ある種のブランドのような輝かしいステータスを、興味を持った女性相手に晒さないわけがない。

 ――――というのは、瑞樹の都合の良い推測であり、それに反して自分の姉と、彼が、忘れるはずもないようなきちんとした出会いを果たしていたのだとすれば、もうこれまでだ。

『姉になりすましてメッセージを送る』

 などという、常識を疑うような暴挙が、終わりを迎えるだけ。
 折原からの軽蔑の目と、瑞樹の胸への鋭い痛みを引き連れて。


 ブブブ、マナーモードの音に、瑞樹の身体がびくりと跳ねる。
 枕に押し付けた顔をそろそろと起こせば、見慣れた端末の画面がパッと明るくなっていた。画面にはメッセージ受信の文字。
 ――――見たくない。怖い。
 ぞわりと顔の輪郭あたりに、肌のささくれる感触を湛えたまま、そろそろ、震える指をその端末へと伸ばす。

"メッセージ 1件 折原 伊風"

 ――――あぁ……。

 折原、伊風。

 予想に違わず、画面の文字は、彼の名前を告げていた。

 指でたどり、ぽつり、ボタンを押す。
 反射的に、一度きつく目を閉じた。そっと、目蓋を開く。

「――――……あ……」

 その内容に、ふわり、瑞樹の切れ長の目が丸く広がる。
 端末が教えてくれた、彼のメッセージは、瑞樹の心配をよそに、とても穏やかなものだった。
 そこはかとなく溢れる彼の弾んだ雰囲気に、ちりり、胸の奥が痛む。
 この対象は、――――彼の思い描く先にいるのは、自分とよく似た、別の女性。

 無機質な文字が教えてくれた彼からの言葉は、本当にメールをくれるだなんて半分以上は思っていなかったこと、だからとても嬉しいこと、弟である瑞樹――――自分だ、――――に、半ば強制的に紙を押し付けて走り去ってしまったこと、そしてそのことを弟である瑞樹に対して謝ってほしいことが真摯な文面で綴られていた。
 更に、スクロールを辿ると、先ほどの自分が投げかけた問いに対する返答に行き着く。

「――……ひとめ、ぼれ……」

 瑞樹の姉は、かつてある大きな駅の前にあるおしゃれなカフェでアルバイトをしていた。

 :
 :

"送信完了"

 その表示に、端末をコトリ、机の端に置く。
 心の奥が、とくりとくり、命の鼓動を読み上げる。
 背もたれに体重をぐっと掛ければ、椅子の背がギギ、と声を上げた。


 たまたま立ち寄ったセンスの良い静かな喫茶店で折原は、あるひとりの女性に心を奪われた。白い肌に、艶やかな黒髪が映える彼女。注文の際にそっと名札に目を落としたところ、そこには"白峰"の文字が浮かんでいた。
その名前から、彼はあるひとりの知人を連想させる。――白峰、瑞樹だ。
 思えば、目の前の美人は、どことなく、――いや、かなり、折原の知るもうひとりの"白峰"の外見と似ていた。
 しかし、それだけではまだ彼女が、白峰瑞樹のきょうだいであるとまでは断定できない。
 そこで、彼は自宅に帰り、パソコンの電源を入れた。

「し、らみね……っと」

 全国の苗字の数や由来がわかるサイトを検索し、その苗字を打ち込みボタンを押す。
 予想通り、その苗字を持つ人の数は全国でも稀有なようだ。
 かといって、東京で白峰瑞樹の家族だけしかいない、とまでは言い切れない。
 そこから先は、彼のこれまで築き上げてきた人脈が火を吹く番だった。

 :
 :

(なるほど……)

 瑞樹は、その端末がページの終わりを告げるのを確認し、それからゆっくりと視線を外した。
 ひとめぼれ、か。
 姉と彼との間に濃いつながりがなかったことに、ほんの少し、ほっとしたような、しかし、――――やはり噂通り、女性には手当たり次第弾を放つ散弾銃のような手の出し方をしているのかなというような、がっかりしたような、そんな複雑な感情が、どんよりと胸の中でとぐろを巻く。
 しかし、その落胆した感情に、それすらを抱く権利もなかったことを思い出して、やはり自嘲気味にその口元を歪めた。
 そうだ。自分が、それこそ本物の白峰ありさだとしたら、その感情は自然な流れとも言えた。
 どんな女性でもいいんだな、と。気に入った女性には、このようにして関係を持つべく積極的にコンタクトを取るような人だったのだな、と。
 しかし、瑞樹は男だ。
 彼が手当たり次第女性にコンタクトを取ろうが、取るまいが、それ以前の問題だった。

 それでもいい。
 無理なのは百も千も承知だ。
 何もなければ、それこそ瑞樹はこの気持ちを、若さゆえの気の迷いだと胸の奥に閉じ込めるつもりだったのだ。
 だからこれは、土から湧いた、恩恵だ。

 半ばヤケクソな思いで、一度伏せたその端末を手に取れば、瑞樹は、返信ボタンへと手を掛けた。


 ◆

 折原は、白峰ありさのことを、頑なに、"白峰さん"と呼びたがった。
 下の名前で呼んでくれという折原に対して、瑞樹が「じゃあ、自分も」と渋々送れば、しかしそれでも彼は何故かそれを頑なに回避してきた。
 瑞樹には、それが、――たまらなく嬉しかった。

"伊風さん"と"白峰さん"の奇妙なやりとりが始まって、ひと月が経った。

『今、何してますか?』
『ちょうど授業が終わったところです。伊風さんは?』
『僕も、これから部活です』

『今、部活帰りにスーパーに立ち寄っています』
『お買い物ですか?』
『家からの頼まれごとです。ドレッシングを眺めています。白峰さんは何味がお好きですか?』
『和風味、かな? あ、でもこないだ買ったQ社のオレンジ色のフレンチドレッシングは家族に好評でしたよ!』
『購入! 家に帰る楽しみがひとつ増えました。』

『白峰さんは、私服は何色系が多いんですか?』
『落ち着いた色…かな? 青、が多いかもしれません。』
『一方的に運命を感じました』
『?』
『僕の通う港北第三高校のバスケ部のイメージカラーも青なんです』
『お揃いですね』
『お揃いです』

 彼の中で構築されてゆく白峰ありさのプロフィールは、全部白峰瑞樹のものだ。

『白峰さんは、バスケットはお好きですか?』
『はい、』

 ――――大好きです。


 ……辛い。
『白峰さん、お会いしたいです』

 木枯らしの吹く秋のことだった。
 突然のメールに、瑞樹はその切れ長の目を大きく見開く。

"会いたい"

 危惧していた四文字が、ついに、来てしまった。

 姉に全てを話して、代行で一日会ってきてもらうなどという考えは端からなかった。
 姉の名前を使い、男性を騙しているだなんて、そんなこと口が裂けても言えない。

「瑞樹、どうした?」

 数歩先で、道向が振り返る。
 スマートフォンを見るなり、浮かない顔で深く黙り込んだ瑞樹の顔を覗き込むようにして、近寄ってくるのに「なんでもない」と作り笑いで返す。

 ――――誰にも言えるわけない。

 こんな、最低な隠し事を、よもや自分が胸の奥にドロドロ隠し込んでいるだなんて、きっと誰も考えつきさえしないだろう。
 最低だ。
 脳裏で、ユニフォーム姿の彼の姿がチラつく。
 最後に会ったのは、東京千代田西高校と港北第三高校の試合の日。いくつものライトが照らすその真ん中で、彼は涼しい目元に闘志を燃やし、コートの上を駆け回っていた。
 そんな彼を、――――自分は汚している。
 彼が心を込めて一文字一文字を綴る先には、実は彼の想い人は居ない。――――滑稽な話だ。
 そんな彼をピエロにしているのは、ほかでもない、自分。

「――――ッ……」

 きゅっと胸のあたりが鋭く痛む。
 なけなしの理性が、もうやめてくれと叫びを上げる。

「――――瑞樹、……」
「……」
「お前、最近ホントどうした?」

 心の底から心配を滲ませた道向の視線が、――――痛い。
 自分はそんな、純粋な厚意を寄せてもらえるような存在じゃない。
 ラインの受信履歴が折原伊風の名前で埋まっていく度に、瑞樹の心の澱も積もっていく。
 何故、あの日自分はあんなことをしてしまったのだろう。
 あの日に帰れるのならば、姉の名前を乗っ取った自分を、目を覚ますまで拳で何度も殴り続けたい。

『会いたい、です』

 いつの間にか、瑞樹の指は、そう、ボタンを辿っていた。

 会いたい。
 会って、全て本当のことを話そう。

 幻滅されても、罵られてもいい。
 ――――あの人が、口汚く罵るなんて、そんなことする人にも思えないけど。



 約束を取り付けた土曜日の午後、駅前の待ち合わせ場所に、瑞樹は時刻の40分ほど前に到着した。厚手のコートを着てきたものの、首元から滑り込む冷気が瞬く間に体温を奪っていく感覚に、ぶるり、その薄い身体が震える。
 部活のおかげで、普段、私服を着ることもそうそうないから、こういう時に選ぶ服を間違えるのも仕方ないよなぁなどと考えていたら、目の前の階段を良く知る影がトントンと降りてくるのが目に入った。
 途端、身体の震えが一段と激しくなる。

 ――――まだ、30分も前なのに。

 寒空の下で女性を待たせない配慮に、その気持ちに、泣きそうになる。
 彼が待たせないようにと慮った先で待つのが、自分のような男だと思うと、その場で溶けてしまいたい思いに駆られた。

 きょろきょろ、と首を回し、それから、目印の銅像をしげしげと見上げ、近くのポールへとその腰を寄りかからせる。ポケットからスマートフォンを取り出して覗いているようだった。

 瑞樹は、数メートル離れた売店の影から首を覗かせながらその様子を観察する。
 近寄って「すみません、今までラインしてたの、俺でした。今日は、姉は来ません」と頭を下げて、終わりだ。そう、――――終わりなのだ。だのに、踏み出す一歩が出ない。

 長い足を投げ出すように交差させて時折視線を周囲に向ける彼の横顔が綺麗で、眩しくて、――――怖い。

 と、逆方向を向いていたはずのその影が急に、瑞樹の方へとそのつま先を向け、すっすと早足で動き始めた。目にして、途端びくりとその背を揺らし、あたふたと売店の逆サイドへ足を向ける。
 あの足さばきは、目的を持った者のそれだ。
 良く似た影を見つけたのだろうか?

 半ばパニックになった瑞樹は、今日来た目的も忘れ、その場に背を向ける。
 と、売店の角を曲がったところで、誰かにぶつかった。

「――――わ!」

 すみません、と視線を上げた先で、涼しい双眸が彼を捉える。

「――――いいえ」

 瑞樹は、さっと、血が引くのを、感じた。

「すみません!」

 見上げた先に居たのは、――――折原だった。
 ――――なんで?その思いだけが、瑞樹の、沸騰した頭の中、ぐるぐると走り回る。

『今まで騙してて、すみませんでした』
『ラインしてたの、俺です』

 用意していた言葉が、飽和状態を超えた頭の中、『なんで?』の言葉と一緒にぐるぐると駆け巡る。それと同時に血の引いた視界の中で、折原の整った顔がサーッと輪郭を失っていくのを映画のようだなんて、冷静に見ている自分が居た。

「白峰くん」

 その声に、一気に現実へと引き戻される。
 ――――夢の時間は、終わりだ。

 そう観念して、瑞樹が口を開きかけた瞬間、

「お姉さんは今日、来られなかったんだね? 残念だなぁ……」

 突然彼が小首を傾げて、瑞樹の肩をぽんぽんと叩いてきた。
 呆気に取られ、言葉を失う瑞樹を余所に、折原はテンションも高く、続ける。

「けれど、ライン一通で済むことなのに、代わりに弟を向かわせるだなんて、やっぱり君のお姉さんは出来た人だよ。それから、お姉さんの頼みにこたえた君もまた、素晴らしい弟だな」

 ――――わけがわからない。

 切れ長の目をこれ以上にないくらいに丸くした瑞樹は、ぽかんとその場に立ち尽くしたまま、目の前の涼しい顔が表情豊かに変化していく様をじっと見上げた。
 瞬間、真剣な色をした折原の目とかち合う。

"まだ、魔法を解かないで"

 彼の目が、そう言っているような、そんな気がした。
 都合の良い解釈かもしれない。瑞樹の、叱られたくないというずるい気持ちが見せた、幻かもしれない。
 けれど、――――先ほどの折原の言葉に乗ってみるのもまた一興だと、瑞樹の思考回路は、信じられないような結論を弾き出した。

「――――……すみません、折原、さん」

 声が、震える。
 その先に続く言葉は、――――、

「……せっかく来てくれたんだもんな」

 折原の声が、少し高い位置から降り注ぐ。

「白峰くんが良ければ、少し付き合ってくれないか?」

(――――初めて、俺に対して、……)

 こくり、瑞樹の首が縦に振れた。




 それから、全ての始まりの、あの喫茶店に入り、二人でゆっくりバスケの話をした。
 その中で、比較的安価で良い筋トレグッズがあるという話になり、その足で近場のスポーツショップへと足を向けた。
 その後通った裏通りで珍しく野球ボールの音がするのに、ふたりでバッティングセンターの入り口をくぐる。

「折原さん、左打ちですか?」

 数少ない左打席へと入るのにそう問えば、バットを構えたその首がこくりと縦に振れる。

「大谷に憧れて、ね!」

 カキーンと小気味良い音が響く。
 そのバッティングフォームは、彼の見るものを圧倒するような美しいシュートフォームとは違い、ごくスタンダードなものだった。
 そういえば、スポーツニュースなどで良く見る、彼が憧れだと名を挙げた選手のフォームもこんな感じだったような気がする。
 比較的早くからバスケバスケだった瑞樹はそんなに野球は詳しくはなかったが、小学生の頃、掃除の時間に雑巾と箒で野球をしていた連中が声高にその名を唱えながらぶんぶんと埃まみれのその棒を振り回していたのが懐かしい。

「つっても、ソフトとか少年野球とかしてたわけじゃないんだけどな」

 バッティングマシーンが動きを止めたのに、バットを定位置に戻して、瑞樹の腕からコートを受け取った折原が白い歯を見せて笑う。
 バスケの話をして、筋トレグッズを見て、それからバッティングセンターだなんて。

「――――もし、今日来たのが姉だったら、……折原さんは、どこに行く予定だったんですか……?」

 ネットのついた金網の前の彼へ、網越しにぽつり、そう問いかけた。
 彼の予定通り、ここに来たのが白峰ありさだったとしたら、彼はどういう一日を過ごしたのだろう。蒸し返さなくてもいい話題を、自ら口に出す愚かさに、心の中で小さく嘲笑する。

「――――そうだなぁ……」

 金網をぐいっと押しながら、折原の気配が隣へと戻ってきた。

「忘れた」
「――――え?」

 彼の、少し堅い手のひらがそっと瑞樹の手を掴んで、コインを落とす。

「白峰くんとデートしてるうちに忘れた」

 その口元がきゅっと笑みを象り、コインを握らせるように、自分の手が、その両手でそっと包まれる。

「お姉さんと会うときにまた考えるよ。――――はい、次白峰くんの番だな!」

 と、くるり、身体を、向きを替えて、バッターボックスのほうへとその背を押されるのに、瑞樹の顔がくしゃりと歪む。
背を向けていて、よかった。
 こんな顔、とてもじゃないけれど、見せられない。

 言葉に甘えて上着を預け、袖をまくり、彼と同じ130キロのボックスの金網に手を掛ける。
 受け取った専用コインを投入口へと滑り込ませれば、右のボックスへと入った。




 空の端が赤く染まる。
 逆側では、出番を待つ夜の気配が群青色を湛えて待機しているようだった。

「俺たち、やっぱこうなるわけね……」

 ふたりは今、ストバス場のベンチに肩を並べていた。
 袖をまくり、傍らには厚手のコートが、今はお役御免とばかりに二つ掛かっている。

「1on1、楽しかった」
「こちらこそ、楽しかったです。勉強になりました」

 ふたりして、ふふ、と肩を揺らす。
 他校の、それも、他県の先輩とこうして一対一でバスケをするだなんて、本当に嘘のようだ。

 ビルの向こうでカァと黒い影が声を上げる。

「――――また、会ってもらえますか?」

 両手を身体の脇に下ろし、俯かせた顔の隙間から声を上げる。
 酷い話だ。
 姉に会いに来た男性に向けて言う台詞にしては、かなり無神経すぎるその言葉を投げたあとで、後悔した。
 自分が俯いているせいで、斜め後ろで背もたれにゆったり体重を預けているだろうその顔は、見えない。

「俺も、会いたい」

 ぼそり、鼓膜を揺らしたその声を受け、瑞樹は無意識のうちに、そっとその上体を回していた。
 折原の、切れ長の目が、静かに自分の姿を捉える。
 ずっと、もう三年以上、影から眺め続けてきた折原が、今、他ならぬ自分を視界の真ん中に映している。
 と、その口元がすっと緩む。

「――白峰くんの、連絡先、」

 連絡先。
 言われた瞬間、すっと体温が下がるのを感じた。
 魔法が解ける時間は、足音をひた隠しにしたまますぐそこまで来ている。

「――――は、やっぱり要らない」
「え?」

 突然、そう言ってコートを手にした折原に、瑞樹の目がきょとり、丸みを帯びる。

「今日だって、運命がそうさせてくれたんだ。次の出会いもめぐり合わせに託してみるのもいいかもな」

 そう言って、呆気に取られる瑞樹のコートを手にとり、折原はその腰を持ち上げた。



「折原さん、」

 駅の改札前で、半歩前を歩くその背を呼び止めると、彼は人の良さそうな目で瑞樹を見た。

「いろいろと、――すみませんでした」

 ――――いろいろと。
 言えなかったあれやこれが、全て毛糸玉のように絡まって、瑞樹の喉元をどろどろと落ちていく。
 今日一日分の謝罪にしては随分と恭しく頭を下げ終わり、すっと首を戻したところで、再び折原の切れ長の目と合った。

「とんでもない! ――おかげで白峰くんと仲良くなれたし」

 気にするな、とばかりに、肩に置かれた手に、昼一番――――会ってすぐが蘇る。
 あのときも、彼はこうして肩を優しく撫でてくれた。

「――――俺は、嬉しかった、です。ありがとうございました」
「こちらこそ! お姉さんに、宜しく」

 軽い口調で、瑞樹が改札をくぐるのを見届けた後、彼も自分の改札口へと消えていった。





『今日は、一日ありがとうございました。とても、楽しかったです』

 自分の端末なのに、そう、お礼のメールを送ることができないもどかしさに臍を噛んだところで、渦中の端末がメールの受信を告げた。

――折原伊風。

 その文字を見た瞬間、瑞樹はしまったと、うっかりその額を叩きたい衝動に駆られる。
 そうだ。白峰瑞樹は今日一日折原と行動を共にしていたが、白峰ありさは、別の時間軸を過ごしているはずだ。
 約束を破って申し訳ない、と、一言入れるのが礼儀というものだろう。
 そう、苦いため息を呑み込みながら、恐る恐る端末を見たところで、しかし端末が言伝てたメッセージはそんなことなど微塵も感じさせない温かさを湛えていて、瑞樹は思わず罪悪感からぎゅっとその胸を握り締めた。

『今日は一日瑞樹くん、お借りしてました。素直で人あたりが良くて、とても良い弟さんですね! すっかりファンになりました。また近いうちに会いたいとお伝えください』

 ――――……折原さん。

 きゅっと、彼の残り香を探すように、先ほどまで彼の居た側の、右の袖口に顔を埋める。

 俺も、会いたい……。

 ガタンゴトン、電車は音を立てて、昏いトンネルの中へと車体を滑らせる。
 それからも、折原と"白峰さん"は、他愛ないメッセージのやりとりを繰り返した。
 受験生でもある折原とは、バスケだけでなく勉強の話でも盛り上がった。
 瑞樹の通う豊玉東高校は、カリキュラム上、数学の数ⅡBまでと、社会科、理科の高校生の範囲はそのほとんどを二年生までに終わらせてしまう為、ギリギリ話についていくことができた。数ⅢCに話題が及んだ時には、端末を駆使してでも話を合わせる気満々で居たのだが、なぜか折原はそこまで突っ込んだ話をしなかった。
 好きな音楽の話や、休みの日に軽く料理を作るらしい彼の休日には料理の話などを、――それこそ、とりとめもなく、やりとりは続いていった。



『白峰さん、会えませんか?』

 二度目のその言葉が掛けられたのは、十一月も半ば、道行く人が背を丸め始める寒い日のことだった。
 その言葉を受け、瑞樹は再び、あの路線の電車に身体を滑らる。

 二度目も、また自分が現れれば、流石に折原も気づくだろう。
 今度ばかりは、誤魔化せそうもない。

 そもそも、――姉を盾に、都合の良いように関係を進めることに対する罪の意識が、もう飽和状態だった。
 これ以上は無理だ。
 折原の好意を弄ぶのも、一方的に姉を出し抜き続けることも。
 潔く頭を下げ、この偽りと欺瞞に満ちた関係を終わらせよう。

 今日提案された待ち合わせ場所は、前回とは違う、駅から少し脇道へ反れたひとけの少ない公園だった。
 女性を呼び出す場所としては、些か不審だが、――当初から全てを明かす目算だった瑞樹にとっては、取るに足らないことだった。

 ザリ、
 重なった枯葉を踏む自分の足音が、ぐしゃり、ぐしゃりと心を踏み潰していくのを自覚する。

 そうして足を進めたところで、小さな公園の管理棟の脇に立った影を見つけた。
 一度、呼吸を落ち着け、再び一歩二歩、歩みを進める。


「折原さん」

 語尾が震える。
 くるり、ゆったりと、その顔が向けられた。

「――――やあ、」

 驚いた様子もない、その長身が、ゆっくりと瑞樹の方へ向き直るのを、瑞樹は妙に凪いだ心の窓越しに見つめていた。
 折原は、見抜いていたとでもいうのだろうか。
 そう考えれば、ひとけのない公園に呼び出されたのも、じゅうぶんに頷けた。

「すみません、でした」

 情けなくて、自分が醜くて、許せなくて、ゆるゆるとその頭を深く下げる。
 視界の端に映る自分の足先ですら見るのが嫌で、瑞樹はぎゅっと目を瞑った。
 何も見たくなかった。
 目を背けたかった。
 出来ることなら、今この場から消えてしまいたかった。

 と、ポケットの中で、端末が、小さく震える。
 たったそれだけのことに、不意にびくりと身体を震わせ、思わずその上体を起こした先で、折原が、やはり無表情のままでこちらをじっと見つめていた。
 ふと、一瞬、視線が震えを告げる端末の方をしゃくる。
 嵐の後の海のように凪いだその目に照らされるまま、おそるおそる、端末を手に取り、中を確認した。

『好きになってしまったんだ』

 視線をあげようとした瞬間、何かで視界が遮られた。
 それが折原の肩だと気づいたときには、彼の胸の中に抱きとめられていた。

「好きだ。――"白峰さん"、……いや」

 視界が光を取り戻し、

「白峰くん、」

 折原の真剣な双眸が瑞樹の目の中を射抜く。
 ――――信じられない。

 そもそも、考えれば、最初からおかしなことばかりだった。
 相手のことを下の名前でなく、あくまで"白峰さん"と苗字で呼びたがった。
 初めて、瑞樹と折原が二人きりで遊んだときも、帰りに送られてきたメッセージは、その日来ることができなかった姉に対する言葉ではなく、半日を過ごした瑞樹自身に対するコメントばかりだった。
 そもそも、――――折原は、瑞樹に通話を要求してくることがなかった。
 一日に何通もメッセージのやりとりをする相手だ。直接声が聴きたくならないのがおかしかった。


 折原は、――――最初から、――――。


「君を試すようなことをして、済まなかった」

 折原の顔が瑞樹を覗き込むように傾ぐ。
 ――――それは、こちらの台詞だ。
 瑞樹の顔がくしゃりと歪む。その首が左右に振れるのに合わせて、黒糸がふるふる、揺れた。

「君のことが気になって気になって仕様がなくて、……同性にこんな気持ちを持ったのは初めてだった……だから、君に近づくために……君のお姉さんとお知り合いになろうとした」
「……え? それじゃあ……」

 折原は、最初から、姉ではなく、自分に好意を寄せていたとでもいうのか。
 瑞樹の目が揺らぐのに、折原が再びその口を開く。

「ああ、喫茶店でありささんを見るよりも前に、俺は君のことが気になってた。ありささんと会った瞬間、――――俺は、君の代わりに彼女を好きになろうとしたこともあったんだ。すぐに打ち消したとはいえ……俺は酷い男だ」

 殴ってくれ、と、その手が、そっと瑞樹の右手を持ち上げる。
 その手を包み込むようにして、瑞樹は喉の奥から声を絞り出して乞うた。

「おれも……殴って、ください」
「白峰くん、」
「おれも……ずっと、」

 ――――折原に憧れ続けていた。

「――すみません、……でした」

 結果的に、想いが通じ合っていたとはいえ、自分が折原にしたことも、姉に対する罪の数々も消えるわけではない。
 握られた腕のまま、許しを乞うように彼の胸板に額をつけ、そのまま項垂れる。
 その瞬間、折原の長い腕がふわりと瑞樹を包み込んだ。

「俺と連絡先を好感してくれませんか? 白峰瑞樹くん」

 驚いて、顔を上げる。すぐ目の前に涼しい顔のイケメンがいて、瑞樹は耳まで赤くなった。
 どうしたらいいかわからなくて、再び俯く。
 深呼吸をすれば、大好きな彼の香りが胸いっぱいに広がった。
 瑞樹は満面の笑みで再び彼の顔を見やると、抱き着き返した。

「喜んで!」

 匿名S 【了】