スマホが、柔らかなメロディを奏でていた。ライムでも来たのだろう。

 なんとなく読む気がしなくて、僕はベッドに横たわったまま両手を広げていた。
 音はすぐに止んで、点滅を繰り返していた画面も元の静けさを取り戻す。

 もうそろそろ十時を回る頃だろうか。優等生なら復習と予習の一つくらいは済ましているのだろう。もちろん僕はそんな柄じゃなかったけれど。

 再び携帯が鳴っていた。
 僕はあまりライムなんかは好きじゃない。だからあまり出さないし、入ってもこない。それでもたまにはこうしてメッセージが入ってくる事もある。

 音を切っておこうと思って携帯を手にして、ついでだから今きたメッセージを開く。
 二件とも美優からのものだった。そう思った瞬間、再び画面が点滅を繰り返す。

『話したいことがあるんだけど、いい?』
『返事、遅い。どれだけ待たせるの』
『明日は友希の血の雨が降るから、傘必須ね』

 ぞっとした。慌てて返事を打つ。

『いいけど、何?』

 その瞬間。ベランダに続く窓ガラスがこつん、と音を立てた。

 え、と思って窓を開けてみる。
 同時に額に小さな衝撃が走った。

「いてっ」

 思わず声をもらしてから足下を見つめる。小さな石が転がっていた。どうやらこの小石がぶつかったらしい。

「遅い」

 同時に響いた声。

「……美優?」

 つぶやいて僕はベランダへと出る。
 僕の部屋に面した道路に美優の姿があった。外はもう真っ暗で、あまり人通りはない。

「ん。」

 美優はうなづくと僕に向けて手招きしていた。外に出てこいという事だろうか。
 しかしこんな時間に何の用なのか。よほど重要な用件なのだろうか。
 美優はいつも気まぐれで、突然予想もしない事をしでかすのはいつもの事だったけれど、それにしても唐突過ぎる気もしていた。

 僕はすぐに外に向かう。
 美優は玄関の外で壁にもたれかかっていた。

 この時、初めて気が付いたけれど美優にしては珍しくスカート姿だった。白いロングスカートが目についた。もちろん学校にいる時は制服のスカートなのだけれども、私服ではあまりスカート姿なのは見た事が無かった。昼間あった時もベージュのパンツだったと思う。

 見慣れない姿にすこし胸が鼓動するのを感じていたけれど、それ以上にどこか不安を覚えずにはいられなかった。

「こんな時間にどうしたの、美優?」
「ん。友希、少しつきあってよ」

 そう言うなり美優は僕の答えも訊かずに歩き出していた。
 僕は呆れて溜息をつくけども、素直に従って歩き出す。どちらにしても美優をこのまま一人で放っておく訳にはいかない。

「どこにいく訳?」
「いいから、黙ってついてくる」

 美優は有無を言わせない口調で言い放つと、その後は何も言わずにどこかに向かって歩き始めていた。

 もう時間はかなり遅い。何も無いのに高校生の女の子が出歩くような時間ではない。こんな時間に出歩いて美優のお父さんは心配していないだろうか。たぶんしていないんだろうな。心の中でふと考えていた。

 美優には母親はいない。俗に言う父子家庭という奴だ。そして父親の帰りはいつも遅い。だから美優の家には誰もいないのかもしれない。美優とのつきあいは長いけれど、美優の父親とは数えるほどしか会ったことは無かったし、正直会ったときの印象も良くはなかった。

 幸いにも暴力を振るわれるとか、お金を出してくれないだとか、DVのような事は起きてはいないようだった。だけど美優と父親の間には埋められない溝がある事を僕は知っている。それは誰が悪い訳でも無く、ただ悲しい事実があるがゆえにかみ合っていない事も。

 もし家にいたとしても父親は美優がどこにいてもたぶん気にはしていないだろう。空虚な感じで心ここにあらず。それが僕が美優の父親に感じた印象だった。学校の授業参観なんかに美優の父親が来たのも見た事がない。そんな時、美優はいつも寂しげな顔をしていたと思う。

 こんな性格だけど美優は学校では優等生だ。成績も良いし、授業中は真面目でやるべき事はすべてきっちりと片付ける。だから先生からの印象も悪くない。

 ただそんな美優だけれど、中学の頃に一週間くらい学校にこなかったことがあった。その時は病気か何かだと思っていたけれど、後で本人から聞いた話によければ授業をさぼって街を歩いていたらしい。

 ただでさえ美優は目立つから、昼間に街をうろついていれば変な人にからまれたりもする。美優は寄ってきた相手ともめて、それが元で警察に補導されたらしい。当然父親にも連絡がいって迎えにはきてくれたらしかったが、それでも美優の父親は何も言わなかった。その頃から美優は父親には何も期待しなくなった。

 何となく美優がしようとしている話は父親の話じゃないかとは思った。

 美優が歩いていった先は、僕の家からさほど遠くない海浜公園だった。祐人が大道芸の練習をしていたあの海浜公園だ。美優とも何度となく訪れた思い出の場所でもある。

 美優と大事な話をするときは、いつもここにきていた気がする。だから美優はここに訪れたのだろうか。
 潮の香りが漂っている。風の音と波の音が聞こえる。

 美優はそのまま海浜公園に向かうと、波打ち際にたって海の向こう側を見つめていた。

「さすがにこの時間にはあんまり人がいないね」

 美優はゆっくりとした声で告げると、僕の方へと振り返る。
 だけど街灯も少ないこの場所では、美優がどんな表情を浮かべているのかはわからなかった。

 美優の長い髪が風で揺れているのはみてとれた。月明かりがきらきらと彼女と水面をきらめかしている。
 僕はもう少しだけ美優の方へと近づいていく。美優の事をもう少し見ていられるように。
 近づけば美優の表情がもう少しだけ感じられた。だけどやっとみてとれたどこか寂しそうな子猫のような瞳は、美優には似合わない。いつもの美優の強くて意思のあるまなざしは、今はどこにも感じられなかった。

 どこか胸が痛む。
 少しだけ息がつまる。

「友希はもう忘れちゃってると思うけど。少しずつ思い出してきてるみたいだから、もういちど言うね」

 美優はまるで独り言のようにつぶやくと、両手を背中に回して、少しだけうつむいていた。
 でもすぐに顔を上げて、意を決したように僕を見つめる。

 まるで告白でもされそうな雰囲気だよ、と有り得ない事を思う。
 そう考えてから、突然に僕の脳裏に浮かんできた記憶があった。僕はこの風景を見たことがある。

 服装は違うけれど、以前にも美優は同じように寂しげな瞳を浮かべて僕に語りかけていた。まるでドラマの再放送をみているかのように、全く同じシーンが頭の中で繰り返される。

 そしておそらくは次に言うだろう台詞も、僕には分かっていた。これから告げられる事実もすべて。

 その時、僕は何と応えればいいのだろう。かつての僕は、何と応えたのだろうか。
 それでも僕の内心の葛藤には気付かずに、美優は言葉を紡ぎ続けた。