「友希。平気っ、しっかりしなさい!」

 美優の声で僕は現実に引き戻される。
 慌てて辺りを見回してみるけれど、海の中ではない。さっきまでいた街の中だ。

 途中から幻を見ていた。
 でもあれは白昼夢なんかじゃない。僕が確かに経験した記憶だ。

 僕は空を飛んだんだ。そして海の中に沈んでいった。
 体が震える。夏だというのに寒気が僕を包みこんだ。冬の冷たい空気の中にいるかのように、僕は息が出来なかった。

 荒く息を吸い込んで、はき出す事が出来なかった。
 喉に詰まる。呼吸が止まる。

 それでも美優が呼ぶ声に、少しずつ平静を取り戻してくる。
 何とか詰まった息を吐き出して、呼吸を整えようとして吸って吐いてを繰り返す。

 少しよろつきながらも何とか僕は立ち上がる。
 いつの間にか頭痛は消えて無くなっていた。さきほどまでの揺れる頭とは別物になったかのように、息さえ整えば後はもういつもと変わらない。

「友希さん、平気なんですか。無理しないでください。休んでいた方がいいですよ」

 聖の呼びかける声には応えずに、僕はもういちど空を見上げていた。

 茜色の空。あの時と同じ色。
 僕は知らない。何も覚えていない。だけど確かに僕はあの時崖から落ちた。それだけは思いだした。

 それは本当に事故だったのか。あるいは自殺するつもりだったのか。それとも誰かに落とされたのか。それすらも記憶の中には残っていない。思い出せない。

 ただ茜色の空を目にしながら、僕は崖から落ちた。それだけは思いだしていた。

 どうして僕は忘れてしまったのだろう。
 事故にあった。その話は医者からも親からも友達からも聞いた。だけど何の事故だったのかは誰も言わない。だから僕は自動車にでもひかれたのだと思いこんでいた。

 どうして誰も何も言わなかったのだろう。考えてみれば両親の喜びようは、少し異常なほどだった気もする。僕には大きな外傷はなかったし、入院はそれほど長い間でもなかったのに。

 僕が失った記憶はたったの三十六日間。一ヶ月をわずかに超えるだけの、変わっていなかったはずの日常の時間。

 だけどその中で僕は命を失いかねない事故にあっていた。
 普段ならほとんど立ち寄りもしない崖の上から飛び降りていた。

 本当にそれは事故だったのだろうか。
 思いを巡らせるけれど、これ以上には何も思い出せなかった。

「友希さん。しっかりしてください。何か、何か思い出しましたか」

「……僕は空を飛んだんだよ」

 聖が呼ぶ声に、僕は思わず声を漏らしていた。そして空を見上げていた。

 聖は何も言わなかった。いや、何も言えなかったのかもしれない。普通に聞いたら呆れて何も言わないか、おかしくなったかと思うような台詞だった。それも当然かもしれない。

「俺、美優さんのためなら……だから」

 聖が何かを小さな声でつぶやいていたが、はっきりとは聞き取れなかった。
 ただ僕を心配そうに見つめている事だけはわかる。

 だけど再び僕の頭の中に強い痛みが駆け巡った。何か頭の中で鐘のような鈍い音が鳴り響いているようで、これ以上は何も聞こえなかった。その痛みは僕の頭の中の何かをかき消していく。

「友希。平気? 疲れてる? もう帰って休も」

 美優は僕の顔をのぞき込むようにして心配そうに見つめていた。
 不安を隠せない様子で、その綺麗に整った顔を崩していて。今にも泣き出しそうにすら見えた。

 でも美優がそんな顔を浮かべているところは見たことがなくて、もういちど頭をふるってみたら、いつもの美優と変わらなかった。

 いつの間にかまた痛みも消えて無くなっていた。
 僕はうなづいて、それからもういちど空を見上げる。

 記憶の中にあった空と同じ茜色。季節が違う分だけ少し色合いは違うかもしれない。
 だけど空を飛んだ時と同じ茜色。だけどその色に感じたのは恐れではなくて、ただ綺麗だと素直に思えた。