「聖っ!」

 美優の怒りを含んだ声が、水着売り場に響く。

「はいっ。美優さん、なんでしょう」

 飼い主に呼ばれた犬よろしく、聖はぱたぱたと尻尾を振りながら駆け寄っていく。もちろん聖に本当に尻尾がある訳ではないけれど。

 同時に高らかに打撃音が響く。

「な、なんで殴るんですか。俺、何もしてないです。ひどいです」
「欲しいなって思ってた水着が売り切れてた」
「それ、俺のせいじゃありません」
「知ってる。でも、殴らずにはいられなかったから。何ていうか、乙女心って奴ね」

 美優はこともなげに言い放つと、すぐに聖に文句をつけた事など忘れて違う水着を手にとっていた。相変わらず美優の聖の扱いはひどい。でも聖がそれで喜んでいるのだから、それはそれでいいのだろう。

 女性の水着売り場で僕は手持ちぶさたにしながら、二人の様子を眺めていた。正直なところ、どれでもいいんじゃないかと思わなくもなかったが、そんなことを言えば僕も殴られる事になるだろう。その点、聖は物怖じせずに美優に向けて提案したりもしていた。居心地の悪さを感じている僕とは段違いだ。

「これなんかいいかな。この、パレオついてるの」
「いや、美優さん。こっちの白いのいい感じですよ。美優さんに良く似合いそうです」

 聖は美優と一緒にああでもないこうでもないと楽しそうに水着を選んでいる。

「どれ? あ、ほんと。可愛い」
「ええ。美優さんには白が似合います」
「そう? 可憐ってこと?」
「はい。そうですね。それに白の水着は透けてウハウハでばっちぐーです」

 言うが早いか、聞き慣れた重厚な音が伝う。

「あんたはいつも一言多い。だいたいウハウハとか、ばっちぐーとかってあんたいつの時代の人間よ」
「ガラスの少年時代です」
「意味わかんないから殴る」

 拳に息を吐きかけながら、再び殴りつける準備を整えていた。これは美優からしてみれば殴る前に弁解の余地を与えている形だ。ただし答え次第ではあるものの、九割方殴られる。

 にっこりと優しげな微笑みを拳と共に浮かべていた。猶予はあるもののもはや切羽詰まっている状況に何とか話をそらそうとして、聖が近くにあった水着から適当に取り出してくる。

「ちょ、ちょっと待ってください。そうだ。これ、これなんかどうですか!?」

 そう言って聖が適当に取り出した水着は、かにぱんまんの絵が描かれた子供用のものだった。ちょうど隣は子ども水着のコーナーだったようだ。
 その瞬間、僕は両手を合わせる。聖のご冥福をお祈りします。

「ほほぅ。あんたは私にこれを着ろ、と。つるぺたな私にはこれがお似合いと、そういうことね」

 満面の笑みで美優は、聖へと詰め寄っていく。じわじわと距離を詰める様子に、その笑顔からは想像がつかないほどの恐怖を覚えて、僕も体を震わせていた。これは美優が本気で怒っている時の様子だ。

「ま、間違いです。俺、間違えました。すみません、許してください」
「安心して。ちゃんと三途の川まで送ってあげるから」

 もちろん本気で冥土送りにするつもりはないだろうけれど、目が笑ってはいなかった。たぶん聖は少々痛い目に遭う事になるだろう。

 逃げ始めた聖を追いかける美優を、僕は少し外れた場所で眺めていた。

 女性用の水着売り場が照れくさかったというのもあるけれど、ずっと何かが頭の片隅にひっかかって離れなかった。

 何かが僕の頭の中で警告を発していた。

 だけどそれが何なのか、まるで霧がかかったかのようにはっきりとしない。
 しかしその引っかかっている物が何なのかわからないまま、時間は駆け足で過ぎていく。

 あのあと美優の水着も無事に決まって、三人で特に目的もなく街中をぶらついていた。

 見慣れた街並にめぼしいものがある訳もないのだが、それでも美優は珍しいものをみるかのように、あちらこちらと店舗を回っていく。もっとも見て回るだけで、実際に買い物をする訳では無いのだけど。結局僕達は小遣い制の高校生だ。大してお金を持っている訳じゃない。

 そうこうしているうちに、いつの間にか日が傾き始めていた。

「あ、もうすっかり空が赤い」

 美優がすっかり夕焼けに変わった西の空を見つめて立ち止まる。
 たぶんその向こう側には海浜公園があって、今頃は祐人が大道芸の練習を切り上げている頃かもしれない。

 海辺の街。僕が知っている街。

 空が茜色に染まっていて、そういえばあの時もこんな色だったとも思う。
 そこまで思って、ふとあの時っていつのことだと僕は思い直す。何かが起きた。何が起きた。いつ。どこで。何が起きた。

「空を……見たんだ」

 僕は無意識のうちに言葉に出していた。

「え?」

 突然の言葉に美優が僕へと振り向いていた。
 だけど僕は美優の事まできにかける事ができなくて、ただ空を見ていた。そうだ。あの時も空を見ていたんだ。そして。

「夕暮れは世界で一番綺麗な瞬間だって、たしかそう言ったんだ。それから歌が聞こえて」

 断片的に記憶が漏れ出してくる。

 そうだ。確かに誰かがそう言った。誰が言ったんだ。いつ。どこで。誰が。
 強く引き裂くような痛みが僕の頭に走る。思わず僕はしゃがみ込んで、頭を抱え込んでいた。

 頭が痛い。誰かが僕の頭を無理矢理こじ開けようとしているかのようだ。そして頭の中を強引に詰め直しているんだ。

 誰だよ。僕の頭を書き換えたのは誰だ。誰が僕の頭を割ろうとしているんだ。
 僕は痛みのあまりに訳がわからない妄想にとりつかれているようだった。

「友希!?」
「友希さん!」

 美優と聖の二人が慌てて近づいてくる。美優は僕の隣にしゃがみこんで、心配そうに背中をさすっていた。でも僕はただひたすら頭を抱え込んで、この激しい痛みを耐える事しか出来なかった。

 目の前がぐらりと揺れたような気がする。
 吐き気が喉の奥から訴えてくる。

 僕の痛みはもう限界に届こうかとしていたとき、急激に僕の視界が広がる。

 だけど見えているのは空の色だけ。ただ夕方の淡い光が僕の世界の全てだ。
 茜色に染まった空は、だけど夏だというのに僕を冷たく包みこんでいた。体が強く震える。

「あかねいろ……」

 つぶやいた言葉に意味はなかった。ただ空の色を繰り返しただけ。
 だけどそれと同時に目の前が真っ赤に染まっていた。茜どころじゃない。それは深紅だ。

 三月六日。僕は事故にあった。
 そうだ。僕は空を見ていた。

 空を飛んだんだ。そして空を見上げたまま、真っ逆さまに落ちていく。
 激しい音が響いて、全身を包みこむ。体が衝撃と共に急速に体温を失っていく。

 息が出来ない。喉の中に海の味がする。はき出した肺の中を、すぐに水が満たしていく。
 そしてそのまま視界が真っ赤に染まる。ただ空の色が僕を満たした。

 忘れていた。思いだした。
 僕は空を飛んだ。崖の上から。僕は。