三十六日間の忘れ物

「友希くん。もういちど言って」
 ひなたが僕へと微笑みながら告げる。
 僕は海の方をみつめながら、ひなたへと振り返った。
 あのとき、ひなたは聖と話していた。
 いつの間にか少しだけ聴力を取り戻していた。
 ひなたは僕の歌が聞こえていた。だから公園で歌ったことが、何かを変えたのかもしれない。
 そもそも耳が聞こえないという事象自体が、ひなたの精神的な衝撃からきていたもので、ある種のショック療法になったのかもしれない。
 詳しいことはわからない。
 それでもひなたは聴力を取り戻した。
 とはいえ、完全に戻ったというわけではない。多少は聞こえるようになったというだけで、こうして何度も聞き直してくることもあるし、日によってはほとんど聞こえないこともある。
 まだ完全に元に戻るかはわからない。
 ひなたは「二人で手話でも覚えてみる?」なんて笑いながら告げていた。
 また聞こえなくなるかもしれない。それでもひなたは前を向いている。
「今日も暑いねって、そう言ったんだよ」
 さっきつぶやいた言葉とは本当は違う台詞を告げて、笑いかける。
 あれから一週間が過ぎた。
 聖はあのあと救助隊によって助けられた。
 だけど今もまだ意識を取り戻していない。
 警察にはかなり取り調べられた。何せ僕達が以前に救助された場所と同じ場所で、今度は聖が飛び降りたのだから。何かがあるのではないと考えるのは当然だと思う。
 でも僕達は誰も何も言わなかった。
 もちろんある程度の事情は説明した。でも「聖に襲われたこと」は誰も言わなかった。
 僕はともかく、ひなたが何も言わなかったのは不思議に思う。ひなたには聖をかばう理由なんてないはずだ。
 でも誰も何も言わなかったから。だから、聖の件は単純に事故として処理されることになった。
 それでよかったのかは、今はわからない。
 だけど言いたく無かった。
 聖に罪を負わせたくなかった。
 だって、これは僕が選んだことだから。
 傷つくなら、僕が傷つくべきなのだから。
 聖は確かにおかしくなっていた。気持ちが暴走していたのかもしれない。
 でも最後の一瞬は、確かにいつもの聖に戻ったと。そう思いたかった。
「……ほんとは、事故のことについて話したんだよね」
 ひなたがもういちど僕に尋ねてくる。
 僕は否定も肯定もせず、海をじっと見つめていた。
 海は何も答えてはくれない。
「わたしね。いまでも、彼のしたことは許せないよ」
 ひなたが語り出したのをきいて、僕はもういちどひなたへと向き直る。
「それでも。どうしても彼のことは恨めなかった。なんだか、わかってしまったの。好きな人のために、何かしてあけたいって気持ち」
 ひなたは淡々と語り続けるが、僕はまた何も言わない。言えなかった。
「友希くんは、わたしのためにまっすぐに動いてくれた。わたしが歌を好きなことを。歌を歌いたいことを、思い出させてくれた」
 ひなたも海をみていた。
 静かに海は寄せては引いていく。決して何も答えてはくれない。
「私の耳が少しでも取り戻せたのは、きっとその気持ちが届いたからだと思うの」
 ひなたは靴を脱いで、それから波打ち際へと歩き出していく。
 その足を水面に触れさせると、それから僕の方へと振り返った。
「彼がしようとしたことは、方法を間違えていたけれど、きっとその気持ちと変わらないんじゃないかなって。そう思ったら、彼を責め立てようとする気持ちなんて、なくなっちゃっていたよ」
 ひなたは笑っていた。
 でも満面の笑顔というわけでもなくて、どこかもの悲しさすら覚えさせる、ささやかな笑顔だった。
「わたしだって、何かがちょっと違っていたら、彼と同じようになっていたのかもしれない。人を愛する気持ちは、きっと良くも悪くも人を狂わせるものだから」
「ひなた」
 僕は彼女の名前を呼ぶ。
「うん、なあに」
 彼女はそれに答える。
 たったそれだけのことが、何よりも愛おしく思えた。
 聖の想いによって、僕達は傷ついて、記憶を聴力を失った。
 でも少しでも取り戻せた。完全には元に戻らないかもしれないけど。僕達は前を向いていける。
 きっと自分の罪を背負おうとして、海に飛び降りたんだ。
 だから。もうこれ以上に、罪を求めたくてもいい。
 きれい事かもしれないけど。僕はそうしたいと思った。
 だから、何も言わなかった。
「いちゃいちゃしてるんじゃないわよ」
 突然響いた声に、僕は振り返る。
 そこには美優の姿があった。
 あれからあまり話してはいない。僕からは声をかけられなかった。
 でもいま美優と向き合っていることで、僕の心臓は跳ね上がるように感じた。
「美優。僕は」
 いろいろと想いが交錯する。
 僕が彼女を傷つけたことは確かだ。だからこそ、聖は暴走してしまったのだ。
 罪の負い目は確かにある。
 でも続く僕の言葉は、声にはならなかった。
「それ以上は言わなくて良い。むしろ言わないでよ。私が惨めになっちゃうから」
 美優は僕とひなたとをそれぞれ顔を向けると、それからひなたへと視線を交わす。
「はじめまして、というのも変だけど。わたし美優。あなたはひなたさんだっけね」
「うん、そうだよ。改めて、はじめまして、かな」
 ひなたは静かな声で答える。
「あの馬鹿が、迷惑かけたわね。ごめん」
「ううん。もういいよ。そもそも美優ちゃんのせいじゃないし」
「まぁ、あいつがさ。私に好意をもってくれていることは知ってた。知ってたけどさ、まさかあんなことになるなんて思わなかった。だから、ちょっと責任は感じてる」
「関係ないよ。美優ちゃんが、仕込んだ訳じゃないでしょ」
「まあね。私があなたをどうにかしようとするんだったら、そもそも人の手は借りない。自分でやるからね」
「うん。そんな感じする」
 二人の言葉に少しだけ不穏なものを感じるのは、僕の気のせいだろうか。
 だけどそれも仕方ないことかもしれない。おそらくは僕のせいだから。
「けどさ。あいつはやり方を間違えたけど、それでも私のために、何かしてくれる人がいるってことは、私にとっては救いだったかもしれない。だから、いつかさ。いつか。あいつが目を覚ましたなら、言ってやりたいことがあるの」
 美優は少しだけ顔を伏せて、それからわずかに首を振る。
「もう二度とこんなことはすんなって。好きだったら、まっすぐぶつかってこいってさ。言ってやろうかなって思っている」
 美優はもういちどつぶやく。
 それから自虐的に笑った。
「私も。ずるいことしちゃったから。そんな資格なんて、ないかもしれないけどね」
 美優はひなたを見つめていた。
 ひなたもまた美優を見ていた。
 ずるいことというのは、僕がひなたの記憶を失っている間に再告白したことへと言及だと思う。
 僕は何も言えない。何も答えられなかった。
 だけどひなたはすぐに美優へと応えていた。
「資格なんていらないよ。それだけ好きだってことだもん。私だって、美優ちゃんの立場ならそうしたかもしれない。だって、それだけ好きだったんだから」
 ひなたには全て隠さずに話した。美優のことも全て。
 ひなたは何も言わなかった。
 いろいろと考えていたのかもしれない。
 あのときはただ僕の手をぎゅっと握って、そのまま一緒の時間を過ごした。
 だからたぶん僕は許されたのだとは思う。
 ただひなたが美優のことをどう思っているのかはわからなかった。
 その気持ちをいま、美優へとぶつけているのかもしれない。
「でもね。でも。私はね。友希くんが好きだから。わけてあげるつもりはないの。だから、もしも美優ちゃんがまだ友希くんのことを好きなのなら、まっすぐに勝負するしかないね」
 ひなたは冗談めかして言っているけれど、たぶん本気なのだろう。
 じっと美優を見つめていた。
 だけど美優はすぐに首を横に振った。
「そんなに一瞬で割り切れるほど、さっぱりした性格はしてないけど。でも、勝敗のわかっている勝負をするなんて、無駄なことはしない主義だから」
 美優は笑って、それから。ひなたのもとへと歩き出していく。
「お、おい。美優。何を」
「友希は黙っていて」
「そうだよ、友希くんは邪魔しないで」
 止めようとした僕を、逆に二人から止められる。
 だからはらはらしながら、僕は二人の様子を見守るしかできなかった。
 二人はすぐそばまで近づくと、何か言葉を交わしているようだった。
 だけどそれ以上のことは起きなかった。それどころか、ひなたは笑って大きな声で「うん」と答えた。
 それと共に美優はすぐに僕の元へと向かってくる。
 なんとなく嫌な感じがして、僕は身を翻そうとして。
 美優の蹴りが僕の右足をとらえていた。
「いてっ!? 何するんだよっ」
「何って。蹴ってる」
 言いながらさらに僕の足を蹴りとばしていた。
 痛い。痛いんですけど。
「彼女の許可ならとったから。いいでしょ」
「いたいっ。いたいって!? 話していたのは、それか!?」
「そう。一発殴っていいかって」
「やめっ。やめてっ。痛い。痛いから。それに殴るんじゃなくて蹴ってる、蹴ってるから」
「あー、もー。ほんっとむかつくむかつくむかつく。そんなに好きなら、最初から忘れているんじゃないわよ。ほんっとにもうっ」
 何度もすねを蹴られて、ずきずきと痛む。
 でも何も言い返せない。忘れていたのは事実だから。
「やめてっ。痛い。痛いから。ひなもこんなこと許可ださないで」
「えー。だって、私のこと忘れて、他の女といちゃいちゃしてたんでしょ。それくらいの罰は仕方なくない?」
 笑いながらひなたは告げていた。
 たぶんこれをみそぎにしろということなんだろう。
 そうだとしたら、僕はこの罰に甘んじるしかないのだろう。
 僕の罪は、本当はきっともっと大きなものだから。
「い、いちゃいちゃはしてない。ほんとにつきあいだしたばかりだったから」
「えー、あやしいなー。美優ちゃん、もうちょっと蹴り飛ばしておいて」
「わかった。ま、実際いちゃいちゃはまだしてなかったけどね」
 美優がとにかく僕を蹴り続けていた。
 痛い。いろいろ。
 だけど、これで許されるのなら。安いものだと思う。
 僕は美優を傷つけた。
 だからもう話すことも出来ないかとも思っていた。
 だけど、聖の事件と。いまのひなたの態度が、たぶん少しだけ罪を落としてくれたのだろう。
 これからだって、今まで通りにはいかないとは思う。
 それでも僕達の関係をすべて無くすことはないと、ひなたは告げているのかもしれない。
「私の足の方が痛くなってきたから、このへんにしておいてあげる」
 美優は言いながら、そして僕へと背を向けた。
 声をかけようかと思ったけれど、でもその背中が少し震えていることに気が付いて。
 僕は何も言わなかった。
「はー。もうすっきりした。ねぇ、ひなた。貴方さ、本当にこの馬鹿でいいの?」
 馬鹿ってなんだよ、馬鹿って。そう言い返そうかと思ったけれど、やめておく。たぶんそれは訊かない方がいいと思う。
「うんっ。友希くんがいいの」
 ひなたは屈託のない笑顔で思いっきりうなずいていた。
 その笑顔に、美優は大きく息を吐き出していた。
 ひなたは僕に対する美優の想いは知っている。だけどひなたはまっすぐに答えた。
 例えそれが相手を傷つけるのだとしても、自分の気持ちを曲げようとはしない。それがひなただから。
「そ。なら、しょうがない。友希の馬鹿にはもったいないけど、ま、仲良くね。じゃ、私はたまたま近くにきただけだからもういく。またね」
 美優は一気に言い放つと、ひなたや僕が答えるより前に僕達に背を向けていた。
 気にしていないのか、それとも僕達に顔を見られたくないのか。それはわからない。
 何か声をかけようかとも思ったけれど、何と言えばいいのかと迷って声に出せない。
 だけど僕が迷う間に、ひなたは思いもよらない言葉も告げていた。
「でも友希くん、美優さんをとっても大事してるから、私、いつも焼き餅やくよ」
「なっ。ひなた何を!?」
 慌てて遮ろうとするが、ひなたは眉間を寄せて顔をゆがめていた。
「友希くんは黙ってて」
 ぴしゃりと言い放たれて、思わず「はい」と答えてしまう。
 いつものひなたと少しだけ違う視線に、僕はそのまま小さくなってしまっていた。きっとひなたなりに何か伝えたい言葉があるのだろう。
 美優は振り返らずに、少しだけ肩を揺らしている。しかしそれも少しの時間のこと。すぐにひなたへと言葉を返していた。
「心配することないよ」
 美優は微かな声で独白するようにつぶやくと、それから一息だけ時間を置いてから、もういちど言葉を紡ぎ始めた。
「この馬鹿は、ひなたの事しか目に入ってないから」
 美優が笑った気がした。
 背を向けているから、本当のところはわからないけれど、微笑んでいるように何故か思えた。
 ひなたは逆に少しだけ悲しげな顔を浮かべて、それから「うん」と小さな声で答えた。
「ありがとう。大切にするね」
 ひなたはぎゅっと目を瞑って、それからもういちど美優へと視線を向けた。
 寂しさと申し訳なさが同居したような、だけどどことなく優しくも思える瞳でじっと美優を見つめていた。
 美優は何も答えずに歩き出す。
 僕はしばらく美優の背中を見送る事しか出来なかった。
 だけど何か言わなくてはと、口を開いた瞬間。美優がもういちどだけ最後につぶやく。
「馬鹿っていえば……もう一人の馬鹿も早く戻ってくるといいね」
 美優の台詞は本当に思ってもみなかった言葉で。
 僕は声を失って、息を飲み込む。
 僕達の関係性は、今までとは変わってしまった。
 その中で、どう出来るかはわからない。
「また、いつかまたみんなで。一緒に」
 もしも聖が戻ってきたとしても、そんなことが可能なのかわからない。
 聖がどう思うのか。美優はどう思うのか。ひなたは。
 でも僕は聖の事を悪くは思えなかった。聖は方法を間違えていたけれど、ただ純粋に美優を思い続けていた。方法を間違えなければ、きっと聖ともまた手を取り合えるから。だからもういちど話したい。
 聖が無事に回復したとしても、そんなことが可能なのかはわからない。
 それでも僕は聖を悪く思えなかった。
 だから否定したくなかった。
 いつかまた、前と同じようにいられるように。
 ただ願うことしかできない。
 僕はひなたの手を握る。
 温かいと思う。
 いろんなものを失って。大切な人を傷つけてまでも、僕はこの温もりを守った。
 それは僕のエゴに過ぎない。
 だけど本当に大切に想うものならば、心から願えば、どんな希望だって叶える事だって出来るのかもしれない。
 三十六日間の忘れ物を、いまやっと見つけだした。
 僕にはそう思えた。

     了