「友希くん。もういちど言って」
ひなたが僕へと微笑みながら告げる。
僕は海の方をみつめながら、ひなたへと振り返った。
ひなたの耳は完全に戻った訳では無かったが、かなり音を取り戻している。このままいけば元通りになるだろうとも医者は告げたそうだ。
あの時、途中からひなたは聖の言葉に答えていた。緊迫した事態に気がついていなかったけれど、いつの間にか確かに耳が聞こえていたのだ。
聖が返してくれたのか、それとも僕が記憶を取り戻したように、力の効力が切れただけなのか。それはわからない。
沢山のことが起きた。
失ってしまったもの。取り戻したもの。
壊れてしまったもの。新しく生まれたもの。
それは急激に変化をもたらしたけれど、普通とは違う形で訪れただけで、それは人が生きていくうえで必ず出会う出来事に過ぎない。
僕は心の中に少しだけ陰りを残しながらも、残っていた邪念を振り払う。
「今日も暑いねって、そう言ったんだよ」
さっきつぶやいた言葉とは本当は違う台詞を告げて、一生懸命笑いかける。
あれから一週間が過ぎた。やっぱりひなたも美優も聖の事を思い出さない。今が夏休みなだけに学校で大きな問題にもなっていない。聖の家の事はあまり聞いたことがなかったけれど、特に捜索願などがでているようにも思えなかった。もっともそれで警察などが僕に聴取に来たとしても、何も言えなかっただろうけれど。
聖の両親も聖の事を忘れてしまったのか、それとも関係もなく聖がいなくなった事にすら気がついていないのか、それはわからない。
あるいは聖の力は世界そのものを変えてしまったのだろうか。ここは聖がいない世界に変わってしまったのかもしれない。覚えているのはただ僕一人で、他の誰も聖がいなくなった事に気がついていないのかもしれない。
「そりゃあ夏だからねっ。暑くない夏なんて、冷たくないアイスクリームと一緒だよ」
ひなたはくすくすと笑いながら、僕の言葉に答えていた。
「冷たくないアイスクリームは美味しくないからね。だから夏も暑い方がいいんだよ」
ひなたは僕に覆い被さるようにして、ぎゅっと抱きついてくる。
「うわっ。熱いから! くっつくなよ!」
慌ててひなたを振り払うと、はぁっと大きく溜息をついた。
「あ。ひどい。傷ついた。仲良くない恋人もよくない」
ひなたはぶつぶつとつぶやきながら、眉を寄せて僕の頬を引っ張って伸ばす。
「痛ひっ。裂けるっ」
僕はもういちどひなたを振り払って、慌てて荒い息を漏らした。
ひなたといるといつもこうだ。自分のペースを乱され続ける。
だけどそれが案外心地よくて、僕はひなたから離れる事が出来なかった。
ひなたの耳はかなり聞こえるようになっていた。
まだまださっきみたいに聞き返してくる事もあるけれど、いずれは元に戻る。医者はまるでは奇跡のようだと言っているらしい。
ひなたの母親は、僕に泣いてお礼を言い続けた。
でも本当は僕は何もしていない。
一つ失った代わりに無くしたものを取り戻しただけ。
あれ以外に僕に選ぶ道なんてなかった。もういちど繰り返しても、僕はひなたを守り続けただろう。
後悔する気持ちもほんの少しだけ残している。聖を苦しませて、美優からも大切なものを奪った。
だけど僕はひなたを得た。自分勝手に過ぎるんじゃないかと考える事もある。
それでも僕はもういちど時間が戻っても、この道を選んだだろう。
人にとって大切なものは違って、いつかは選ばなければいけない。
僕にとってそれがひなたという存在だった。
それだけの事だから。
だから時々振り返る事はあっても、僕はもう戻らない。
顔を上げて、ひなたを見つめようとする。
同時に、後頭部に強い衝撃が走った。
「らぶらぶでむかつく。殴っていい?」
「いま返事する前に殴っただろ!?」
背中から響いた声に僕は振り返り、いつもと変わらない姿にほっとする。
美優が少しだけ目を釣り上げて、僕をにらんでいた。
「気のせいだから。だからもういちど殴らせて」
美優は笑みを浮かべながら、握り拳に力を込めていた。
「まてっ、もう一度って何だよっ」
「いいでしょ。なーにが『ひなたが笑っていてくれれば、僕はそれでいいんだ』よ。あー、もー、むかつくむかつくむかつくっ」
美優を僕を何度も何度も叩きつけながら、僕を海の方へと追いやっていく。
「うわっ、やめろ美優。痛いっ、痛いって」
叫びながら走りだすと、美優はその後ろをついて追いかけてきた。聴かれていたのかと心の中で思う。
ひなたが大きな声で笑う。
僕は少しだけ、いや本当は心の奧で染みるほど嬉しさが満ちあふれている。
ひなたと美優の二人が、こうしてまみえて笑っていられるなんて思わなかった。
ひなたはともかくとして美優にはいろいろと思うところがあるはず。なのにいつもと変わらずにいてくれる事に、僕は何よりもほっとしていた。
美優がどこまで覚えているのか、それはわからない。もしかしたら美優の中では告白して僕とつきあった事実が無くなっているのかもしれない。
あのとき美優は聖を突き放したけれど、あれは美優らしくはなかった。いつもの美優なら何があろうと友達を手放したりするはずがなかった。そうせずにはいられなかったのは、もしかしたら聖が告げた内容がそんな言葉だったからなのかもしれない。
例え辛い記憶でもそのまま残しておきたいと。
ただその願いは届かずに消えてしまった。そうだとすれば、おそらくは美優の中には僕とつきあった記憶はもうない。
だけどだからといって美優の辛さや苦しさが無くなった訳じゃない。美優の父親が正気に戻った訳でも、美優が一人でなくなった訳でもない。僕が交わした一緒にいるという約束が消えてしまった訳でも無かった。
僕の心はただ強く痛む。
あまりにも自分にとって都合の良い事態に思わず苦い笑みを浮かべずにはいられなかった。
僕は美優と恋人同士になる事は出来ない。だけどまるで姉弟のように過ごした幼なじみのままでいる事なら出来る。
それが聖が最後に残した力のかけらだったのかもしれない。
聖はせめて美優にとって僕という存在が残るように、そう願ったのかもしれない。
そしてそれは聖が残した僕への罰なのかもしれない。
僕だけは聖の事を覚えている。美優から告白されたことも。美優を傷つけた事も。
美優やひなたの中からは傷ついた事実は失われていた。だから僕のそばにいる二人はごく自然に友だちになっていた。
美優とひなたは二人とも変わり者同士だからか、案外馬が合ったようで、僕が絡まなくても仲良くしているようだった。二人で遊びにいった事すらあったようだ。
美優の中からは僕への気持ちすら消えて無くなっているのだろうか。あるいは以前のように気持ちを押し殺しているのだろうか。
わからないけれど、その気持ちに触れる事はできないし、そんな資格も無かった。
だから仮にそれらの記憶を失っているのだとしても、少なからず美優を傷つけて、傷つけ続けているのだろう。
それでも笑っていてくれる美優に、僕は確かに救われていた。本当は僕が守られなければいけなかったのに。
「美優ちゃん、こんにちわ。友希くん、そんなこと言ってたんだ?」
ひなたは追い回される僕は全く気にせずに、美優へと語りかけていた。
美優も僕を殴るのはやめて、ひなたへと向き直る。
「うん。そーなの。マジ、すっごいむかつく。だから、殴ってもいい?」
「うん。いいよ」
美優の言葉に安易にうなづいていた。
「ひ、ひなっ!? ちょっとま」
慌てて声を上げるが、時すでに遅し。僕の後頭部に再び激しい衝撃が響く。
初めの数倍は強い痛みが走った。
「なにすんだよっ。痛いだろーが!」
「あー、だって彼女の許しもでたんだし。いいんじゃない?」
ひらひらと手を振って、それからもういちど拳を握る。
「なんだか気がすまないな、もういっぱつかな」
「ちょっとまて!」
叫びながらも、これくらいの痛みで美優の気が済むのなら殴られてもいいとは思っていた。
それは罪滅ぼしにすらならないけれど、そうしたいと思えたから。
「友希くん。やっぱり美優ちゃんとは仲良しなんだ」
ひなたがぼそりとつぶやく。
少し寂しさが混じっていたような気もするのは、僕の勝手な思いこみだっただろうか。
「んー、ま、腐れ縁の幼なじみだしね。でもさ、ひなたは彼氏がホントにこんな馬鹿でいいの? もったいなくない?」
僕の代わりに美優が答えていた。
馬鹿ってなんだよ、馬鹿って。そう言い返そうかと思ったけれど、やめておく。たぶんそれは訊かない方がいいと思う。
「うんっ。友希くんがいいの」
ひなたは屈託のない笑顔で思いっきりうなづいていた。
ひなたは僕に対する美優の想いは知らない。だけどもし気がついていたとしても、ひなたはきっと素直にそう答えただろう。例えそれが相手を傷つけるのだとしても、自分の気持ちを曲げようとはしない。それがひなただから。
「そ。なら、しょうがない。友希の馬鹿にはもったいないけど、ま、仲良くね。じゃ、私はたまたま近くにきただけだからもういく。またね」
美優は一気に言い放つと、ひなたや僕が答えるより前に僕達に背を向けていた。
気にしていないのか、それとも僕達に顔を見られたくないのか。それはわからない。
何か声をかけようかとも思ったけれど、何と言えばいいのかと迷って声に出せない。
だけど僕が迷う間に、ひなたは思いもよらない言葉も告げていた。
「でも友希くん、美優さんをとっても大事してるから、私、いつも焼き餅やくよ」
「なっ。ひな何を!?」
慌てて遮ろうとするが、ひなたは眉間を寄せて顔をゆがめていた。
「友希くんは黙ってて」
ぴしゃりと言い放たれて、思わず「はい」と答えてしまう。
いつものひなたと少しだけ違う視線に、僕はそのまま小さくなってしまっていた。きっとひなたなりに何か伝えたい言葉があるのだろう。
美優は振り返らずに、少しだけ肩を揺らしている。しかしそれも少しの時間のこと。すぐにひなたへと言葉を返していた。
「心配することないよ」
美優は微かな声で独白するようにつぶやくと、それから一息だけ時間を置いてから、もういちど言葉を紡ぎ始めた。
「この馬鹿は、ひなたの事しか目に入ってないから」
美優が笑った気がした。
背を向けているから、本当のところはわからないけれど、微笑んでいるように何故か思えた。
ひなたは逆に少しだけ悲しげな顔を浮かべて、それから「うん」と小さな声で答えた。
「ありがとう。大切にするね」
ひなたはぎゅっと目を瞑って、それからもういちど美優へと視線を向けた。
寂しさと申し訳なさが同居したような、だけどどことなく優しくも思える瞳でじっと美優を見つめていた。
美優は何も答えずに歩き出す。
僕はしばらく美優の背中を見送る事しか出来なかった。
だけど何か言わなくてはと、口を開いた瞬間。美優がもういちどだけ最後につぶやく。
「馬鹿っていえば……もう一人の馬鹿も早く戻ってくるといいね」
美優の台詞は本当に思ってもみなかった言葉で。
僕は声を失って、息を飲み込む。
美優は覚えているのだろうか。思い出したのだろうか。
もしもそうだとしたならば、力のために消えた聖も戻ってきてくれるかもしれない。
何が待っているのか。何が起きるのかはわからない。だけど僕の中で微かな希望が生まれてくる。
叶うならばもういちど聖と話したい。そしてもういちど友達に戻りたい。
出来るなら皆でもういちど。聖と美優と僕と、そしてひなたで。
僕は叫ぶようにして告げていた。
「また、みんなで遊ぼう!」
もしも聖が戻ってきたとしても、そんなことが可能なのかわからない。
聖は変わっていないのか。聖がどう思うのか。美優はどう思うのか。ひなたは。
でも僕は聖の事を悪くは思えなかった。聖は方法を間違えていたけれど、ただ純粋に美優を思い続けていた。だから方法を間違えなければ、きっと聖ともまた手を取り合えるから。だからもういちど会いたい。
聖が戻ってくるのか。もしも戻ってきたとしてもそんな事が実際に可能なのか。とてつもなく難しい事かもしれないけれど、でもそうできたらいいと素直に思えた。
美優は聖の事を思い出していた。だからもしかしたら聖自身も戻ってくるかもしれない。
そんなことがあるのかはわからない。でもそうであって欲しいと願った。
僕はひなたの手を握る。
暖かいと思う。
いろんなものを失って。大切な人を傷つけてまでも、僕はこの温もりを守った。
それは僕のエゴに過ぎない。
だけど本当に大切に想うものならば、心から願えば、どんな希望だって叶える事だって出来るのかもしれない。
三十六日間の忘れ物を、いまやっと見つけだした。
僕にはそう思えた。
了
ひなたが僕へと微笑みながら告げる。
僕は海の方をみつめながら、ひなたへと振り返った。
ひなたの耳は完全に戻った訳では無かったが、かなり音を取り戻している。このままいけば元通りになるだろうとも医者は告げたそうだ。
あの時、途中からひなたは聖の言葉に答えていた。緊迫した事態に気がついていなかったけれど、いつの間にか確かに耳が聞こえていたのだ。
聖が返してくれたのか、それとも僕が記憶を取り戻したように、力の効力が切れただけなのか。それはわからない。
沢山のことが起きた。
失ってしまったもの。取り戻したもの。
壊れてしまったもの。新しく生まれたもの。
それは急激に変化をもたらしたけれど、普通とは違う形で訪れただけで、それは人が生きていくうえで必ず出会う出来事に過ぎない。
僕は心の中に少しだけ陰りを残しながらも、残っていた邪念を振り払う。
「今日も暑いねって、そう言ったんだよ」
さっきつぶやいた言葉とは本当は違う台詞を告げて、一生懸命笑いかける。
あれから一週間が過ぎた。やっぱりひなたも美優も聖の事を思い出さない。今が夏休みなだけに学校で大きな問題にもなっていない。聖の家の事はあまり聞いたことがなかったけれど、特に捜索願などがでているようにも思えなかった。もっともそれで警察などが僕に聴取に来たとしても、何も言えなかっただろうけれど。
聖の両親も聖の事を忘れてしまったのか、それとも関係もなく聖がいなくなった事にすら気がついていないのか、それはわからない。
あるいは聖の力は世界そのものを変えてしまったのだろうか。ここは聖がいない世界に変わってしまったのかもしれない。覚えているのはただ僕一人で、他の誰も聖がいなくなった事に気がついていないのかもしれない。
「そりゃあ夏だからねっ。暑くない夏なんて、冷たくないアイスクリームと一緒だよ」
ひなたはくすくすと笑いながら、僕の言葉に答えていた。
「冷たくないアイスクリームは美味しくないからね。だから夏も暑い方がいいんだよ」
ひなたは僕に覆い被さるようにして、ぎゅっと抱きついてくる。
「うわっ。熱いから! くっつくなよ!」
慌ててひなたを振り払うと、はぁっと大きく溜息をついた。
「あ。ひどい。傷ついた。仲良くない恋人もよくない」
ひなたはぶつぶつとつぶやきながら、眉を寄せて僕の頬を引っ張って伸ばす。
「痛ひっ。裂けるっ」
僕はもういちどひなたを振り払って、慌てて荒い息を漏らした。
ひなたといるといつもこうだ。自分のペースを乱され続ける。
だけどそれが案外心地よくて、僕はひなたから離れる事が出来なかった。
ひなたの耳はかなり聞こえるようになっていた。
まだまださっきみたいに聞き返してくる事もあるけれど、いずれは元に戻る。医者はまるでは奇跡のようだと言っているらしい。
ひなたの母親は、僕に泣いてお礼を言い続けた。
でも本当は僕は何もしていない。
一つ失った代わりに無くしたものを取り戻しただけ。
あれ以外に僕に選ぶ道なんてなかった。もういちど繰り返しても、僕はひなたを守り続けただろう。
後悔する気持ちもほんの少しだけ残している。聖を苦しませて、美優からも大切なものを奪った。
だけど僕はひなたを得た。自分勝手に過ぎるんじゃないかと考える事もある。
それでも僕はもういちど時間が戻っても、この道を選んだだろう。
人にとって大切なものは違って、いつかは選ばなければいけない。
僕にとってそれがひなたという存在だった。
それだけの事だから。
だから時々振り返る事はあっても、僕はもう戻らない。
顔を上げて、ひなたを見つめようとする。
同時に、後頭部に強い衝撃が走った。
「らぶらぶでむかつく。殴っていい?」
「いま返事する前に殴っただろ!?」
背中から響いた声に僕は振り返り、いつもと変わらない姿にほっとする。
美優が少しだけ目を釣り上げて、僕をにらんでいた。
「気のせいだから。だからもういちど殴らせて」
美優は笑みを浮かべながら、握り拳に力を込めていた。
「まてっ、もう一度って何だよっ」
「いいでしょ。なーにが『ひなたが笑っていてくれれば、僕はそれでいいんだ』よ。あー、もー、むかつくむかつくむかつくっ」
美優を僕を何度も何度も叩きつけながら、僕を海の方へと追いやっていく。
「うわっ、やめろ美優。痛いっ、痛いって」
叫びながら走りだすと、美優はその後ろをついて追いかけてきた。聴かれていたのかと心の中で思う。
ひなたが大きな声で笑う。
僕は少しだけ、いや本当は心の奧で染みるほど嬉しさが満ちあふれている。
ひなたと美優の二人が、こうしてまみえて笑っていられるなんて思わなかった。
ひなたはともかくとして美優にはいろいろと思うところがあるはず。なのにいつもと変わらずにいてくれる事に、僕は何よりもほっとしていた。
美優がどこまで覚えているのか、それはわからない。もしかしたら美優の中では告白して僕とつきあった事実が無くなっているのかもしれない。
あのとき美優は聖を突き放したけれど、あれは美優らしくはなかった。いつもの美優なら何があろうと友達を手放したりするはずがなかった。そうせずにはいられなかったのは、もしかしたら聖が告げた内容がそんな言葉だったからなのかもしれない。
例え辛い記憶でもそのまま残しておきたいと。
ただその願いは届かずに消えてしまった。そうだとすれば、おそらくは美優の中には僕とつきあった記憶はもうない。
だけどだからといって美優の辛さや苦しさが無くなった訳じゃない。美優の父親が正気に戻った訳でも、美優が一人でなくなった訳でもない。僕が交わした一緒にいるという約束が消えてしまった訳でも無かった。
僕の心はただ強く痛む。
あまりにも自分にとって都合の良い事態に思わず苦い笑みを浮かべずにはいられなかった。
僕は美優と恋人同士になる事は出来ない。だけどまるで姉弟のように過ごした幼なじみのままでいる事なら出来る。
それが聖が最後に残した力のかけらだったのかもしれない。
聖はせめて美優にとって僕という存在が残るように、そう願ったのかもしれない。
そしてそれは聖が残した僕への罰なのかもしれない。
僕だけは聖の事を覚えている。美優から告白されたことも。美優を傷つけた事も。
美優やひなたの中からは傷ついた事実は失われていた。だから僕のそばにいる二人はごく自然に友だちになっていた。
美優とひなたは二人とも変わり者同士だからか、案外馬が合ったようで、僕が絡まなくても仲良くしているようだった。二人で遊びにいった事すらあったようだ。
美優の中からは僕への気持ちすら消えて無くなっているのだろうか。あるいは以前のように気持ちを押し殺しているのだろうか。
わからないけれど、その気持ちに触れる事はできないし、そんな資格も無かった。
だから仮にそれらの記憶を失っているのだとしても、少なからず美優を傷つけて、傷つけ続けているのだろう。
それでも笑っていてくれる美優に、僕は確かに救われていた。本当は僕が守られなければいけなかったのに。
「美優ちゃん、こんにちわ。友希くん、そんなこと言ってたんだ?」
ひなたは追い回される僕は全く気にせずに、美優へと語りかけていた。
美優も僕を殴るのはやめて、ひなたへと向き直る。
「うん。そーなの。マジ、すっごいむかつく。だから、殴ってもいい?」
「うん。いいよ」
美優の言葉に安易にうなづいていた。
「ひ、ひなっ!? ちょっとま」
慌てて声を上げるが、時すでに遅し。僕の後頭部に再び激しい衝撃が響く。
初めの数倍は強い痛みが走った。
「なにすんだよっ。痛いだろーが!」
「あー、だって彼女の許しもでたんだし。いいんじゃない?」
ひらひらと手を振って、それからもういちど拳を握る。
「なんだか気がすまないな、もういっぱつかな」
「ちょっとまて!」
叫びながらも、これくらいの痛みで美優の気が済むのなら殴られてもいいとは思っていた。
それは罪滅ぼしにすらならないけれど、そうしたいと思えたから。
「友希くん。やっぱり美優ちゃんとは仲良しなんだ」
ひなたがぼそりとつぶやく。
少し寂しさが混じっていたような気もするのは、僕の勝手な思いこみだっただろうか。
「んー、ま、腐れ縁の幼なじみだしね。でもさ、ひなたは彼氏がホントにこんな馬鹿でいいの? もったいなくない?」
僕の代わりに美優が答えていた。
馬鹿ってなんだよ、馬鹿って。そう言い返そうかと思ったけれど、やめておく。たぶんそれは訊かない方がいいと思う。
「うんっ。友希くんがいいの」
ひなたは屈託のない笑顔で思いっきりうなづいていた。
ひなたは僕に対する美優の想いは知らない。だけどもし気がついていたとしても、ひなたはきっと素直にそう答えただろう。例えそれが相手を傷つけるのだとしても、自分の気持ちを曲げようとはしない。それがひなただから。
「そ。なら、しょうがない。友希の馬鹿にはもったいないけど、ま、仲良くね。じゃ、私はたまたま近くにきただけだからもういく。またね」
美優は一気に言い放つと、ひなたや僕が答えるより前に僕達に背を向けていた。
気にしていないのか、それとも僕達に顔を見られたくないのか。それはわからない。
何か声をかけようかとも思ったけれど、何と言えばいいのかと迷って声に出せない。
だけど僕が迷う間に、ひなたは思いもよらない言葉も告げていた。
「でも友希くん、美優さんをとっても大事してるから、私、いつも焼き餅やくよ」
「なっ。ひな何を!?」
慌てて遮ろうとするが、ひなたは眉間を寄せて顔をゆがめていた。
「友希くんは黙ってて」
ぴしゃりと言い放たれて、思わず「はい」と答えてしまう。
いつものひなたと少しだけ違う視線に、僕はそのまま小さくなってしまっていた。きっとひなたなりに何か伝えたい言葉があるのだろう。
美優は振り返らずに、少しだけ肩を揺らしている。しかしそれも少しの時間のこと。すぐにひなたへと言葉を返していた。
「心配することないよ」
美優は微かな声で独白するようにつぶやくと、それから一息だけ時間を置いてから、もういちど言葉を紡ぎ始めた。
「この馬鹿は、ひなたの事しか目に入ってないから」
美優が笑った気がした。
背を向けているから、本当のところはわからないけれど、微笑んでいるように何故か思えた。
ひなたは逆に少しだけ悲しげな顔を浮かべて、それから「うん」と小さな声で答えた。
「ありがとう。大切にするね」
ひなたはぎゅっと目を瞑って、それからもういちど美優へと視線を向けた。
寂しさと申し訳なさが同居したような、だけどどことなく優しくも思える瞳でじっと美優を見つめていた。
美優は何も答えずに歩き出す。
僕はしばらく美優の背中を見送る事しか出来なかった。
だけど何か言わなくてはと、口を開いた瞬間。美優がもういちどだけ最後につぶやく。
「馬鹿っていえば……もう一人の馬鹿も早く戻ってくるといいね」
美優の台詞は本当に思ってもみなかった言葉で。
僕は声を失って、息を飲み込む。
美優は覚えているのだろうか。思い出したのだろうか。
もしもそうだとしたならば、力のために消えた聖も戻ってきてくれるかもしれない。
何が待っているのか。何が起きるのかはわからない。だけど僕の中で微かな希望が生まれてくる。
叶うならばもういちど聖と話したい。そしてもういちど友達に戻りたい。
出来るなら皆でもういちど。聖と美優と僕と、そしてひなたで。
僕は叫ぶようにして告げていた。
「また、みんなで遊ぼう!」
もしも聖が戻ってきたとしても、そんなことが可能なのかわからない。
聖は変わっていないのか。聖がどう思うのか。美優はどう思うのか。ひなたは。
でも僕は聖の事を悪くは思えなかった。聖は方法を間違えていたけれど、ただ純粋に美優を思い続けていた。だから方法を間違えなければ、きっと聖ともまた手を取り合えるから。だからもういちど会いたい。
聖が戻ってくるのか。もしも戻ってきたとしてもそんな事が実際に可能なのか。とてつもなく難しい事かもしれないけれど、でもそうできたらいいと素直に思えた。
美優は聖の事を思い出していた。だからもしかしたら聖自身も戻ってくるかもしれない。
そんなことがあるのかはわからない。でもそうであって欲しいと願った。
僕はひなたの手を握る。
暖かいと思う。
いろんなものを失って。大切な人を傷つけてまでも、僕はこの温もりを守った。
それは僕のエゴに過ぎない。
だけど本当に大切に想うものならば、心から願えば、どんな希望だって叶える事だって出来るのかもしれない。
三十六日間の忘れ物を、いまやっと見つけだした。
僕にはそう思えた。
了