「歌うなぁぁぁ!?」

 聖の手がひなたを捉える。
 ひなたはサビだけを歌い終えて、そのまま聖を睨みつけていた。

「好きなことを、諦めたりしないから。私は大好きなものなら自分の手にいれたいもの」

 ひなたの声に聖がひとときだけ動きを止めた。
 聖は崩れ落ちそうなほどに愕然とした顔を浮かべて、それからひなたの腕を握りしめる。

「うるさいうるさいうるさいっ。お前なんて、いなくなってしまえばいい。消えろ。消えてしまえ。全てを失ってしまえよ!」

 聖の叫びは海の音すらかき消していた。
 僕はなんとか起きあがって、聖へと駆けだしていく。
 美優が傷ついているのもわかっている。
 僕がこうやってひなたの為に動けば動くほど、美優が痛みを感じているのも知っていた。
 それでも僕はひなたを選んだ。
 ひなた以外に考えられなかった。
 ひなたが笑っていてくれれば良かった。
 僕の為に、笑って欲しかった。
 そのために美優を傷つける事はわかっていた。だけどそうせずにはいられなかった。
 僕はエゴイストだ。
 だけど。

「聖ぃっ」

 聖の手を捉えると強引にひなたから引きはがした。
 その瞬間、聖がものすごい形相で僕を睨みつける。

「友希さんっ。あんたが、あんたが揺れたりしなければ、俺、何もせずにすんだ。俺は、美優さんが幸せでいてくれればよかった。俺は、美優さんが幸せでいてくればよかった。俺は美優さんが幸せでいてくれれば」

 同じ台詞を何度も繰り替えてしていく。
 僕の中に何かが流れ込んでいた。
 頭が疼くように痛む。

「あの人は何もかも失ってしまえばいい。美優さんが幸せでいてくれれば」

 聖は強く叫ぶ。
 聖は僕をはねのけると再びひなたへと走り出した。
 僕は聖を捉えようとして腕を伸ばす。
 ひなたは聖を見つめていた。

「私は諦めないから。友希くんが、気付かせてくれたから。私は、何度失っても、もういちど取り戻すから、だから」

 ひなたが一人叫ぶ。

「私は、いつまでも歌うよ」
「うわあぁぁぁぁぁ」

 ひなたの声に聖が吠えていた。
 何が起きているのかもわからなかった。
 聖はひなたを突き飛ばすと、それから大きく両腕を振り上げている。
 もういちど崖から突き落とすつもりだろうか。
 だけどその時、なぜか僕にはこれから聖がとろうとしている行動が理解できていた。
 慌ててひなたへと飛び込む。
 聖はすでにひなたの手をとっていたが、僕はそれを遮るようにして、ひなたを抱えて聖から引きはがした。
 しかし勢いがついて止まれないのか、聖はまっすぐに崖に向かっていた。このま走れば崖へと身体を投げ出してしまう。

「ばかっ、聖! あんた何やってるの!」

 美優が叫びながら手を伸ばした。
 聖の背中側から腕をとって支えようとした。
 聖はそのまま振り返る。
 そして、一瞬だけ笑った。

「俺、俺は、俺は……」

 つぶやいて、逆に捉えた美優の腕を引き寄せる。
 ちょうど美優が聖の胸の中に収まるような形になって、端から見れば抱きしめているようにも思えた。
 美優が聖へとほほえみかける、だけど同時に聖が何かつぶやいていた。
 その瞬間、美優が強く叫ぶ。

「それはだめっ!?」

 聖の腕を放して、そのまま離れた。
 同時に。
 聖がもういちど、ふわりと微笑む。
 優しい笑顔だった。
 こんな時に似つかわしくないほど、満ち足りた表情を浮かべて。
 そして僕に向けて一言だけ声にして。
 聖は崖から、足を踏み外した。

「聖!?」

 僕は聖の名を呼んで駆け寄る。
 しかし聖の姿はもうどこにも見あたらなかった。
 海に沈んだのなら、大きな水しぶきが上がっていてもおかしくはないはずなのに。
 僕は聖を追いかけようと、目の前の海へと身を乗り出していた。
 同時に美優が僕の手を掴んでいた。

「ばかっ。友希。落ちる!」

 言った美優の顔は、いつも通り変わらない。
 変わらない方が不思議だというのに、美優は僕が良く知っている美優のままだった。
 だけど続いた台詞は、僕だけしか理解の出来ない言葉だった。

「それと、聖って誰?」

 首を傾げる美優に、愕然として顔をゆがめた。

「あ……」

 僕の胸の奥から、何かが漏れる。

「友希くん? どうしたの? 飛び込み自殺なんて流行らないよ?」

 ひなたも同じように、今、何が起きたのかわからないでいるようだった。まるで今まで起きた何もかもを忘れてしまったかのように。
 僕だけが、覚えている。
 いまここで聖が狂おしいほどに美優を求めていたこと。
 聖がまるで自分から望んだかのように海に向かって飛び込んで、海に落ちる事もなく、そのまま姿が消えてしまったこと。
 僕だけは何もかも忘れないままで、聖はいなくなった。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ」

 僕は思わず泣き叫んでいた。
 涙がとめどなく溢れてくる。
 なんで僕は泣いているのか、理解できていないまま、僕はただ泣き続けた。

「友希くん!?」
「友希!? どうしたの?」

 心配して声をかける二人に、僕は何も言う事も出来ずに、ただ叫び続けた。
 僕は聖が最後に掠れた声で告げた言葉を聞いていた。
 空耳だったのかもしれない。それでも僕にはあの言葉は深く突き刺さって、何もかもを捨ててしまいたくなる。
 聖は最後にこうつぶやいて消えた。

『俺、友希さんに、なりたかった』

 僕は頭を抱えて叫び続けた。
 聖が望んだものを僕は手放して、傷つけて。
 誰かにとってどんなに大切なものでも、他の誰かにとっては違うのは当たり前のことだ。
 だけど僕には、二つとも大切で、その中から選ばなければいけなかった。
 そして選んだ答えは、間違っていたのだろうか。
 僕は。
 泣き続ける僕を、ひなたがそっと包み込んでくれていた。

「友希くん。何があったかわからないけど、泣かないで。私がずっとそばにいるから泣かないで。そうだ。ほら、歌おう。ね。どんぐりころころどんぶりこ」

 ひなたは僕の頭を撫でながら歌い続ける。

「お池にはまってさぁたいへん」

 ひなたの歌声が僕の心の中で、寂しく響いた。
 僕はひなたを失いたくない。強く想う。
 それだけを願い続けるだろう。
 今も、これからも。
 ひなたは途中から聴力を取り戻していた。僕の泣き声が聞こえていた事からも、聖と問答を続けていた事からもあきらかだ。
 あのとき歌を歌ったことがいい結果に導いたのか、僕が記憶を取り戻したように時間が経てば元に戻るものだったのか、それとも聖が最後に失わせたものを返してくれたのか。それはわからない。
 もしかしたら聖は失わせた事実を失わせたのかもしれない。そしてひなたと美優の二人から自分の記憶を消した。だから不思議な力を使いすぎて、そのまま姿を消してしまったのだろうか。
 だけどこの時の僕はひなたの耳が聞こえている事にすら気がつかなくて、ただただ泣き続けていた。
 美優はそんな僕をしばらくの間見つめていたが、少しだけ首をふるって僕の肩に一度だけ手を置いた。

「ん。友希、何があったかわからないけど元気だしなよ。……ま、でもそばに彼女もいる事だし。私は必要ないか。じゃ、もういくね」

 美優は優しい声で告げる。
 まるで僕に告白してつきあい始めて、そして別れて傷ついた、傷つけられた事なんて忘れてしまったかのように。
 もしかしたらそれも聖が記憶を消し去ってしまったのだろうか。

「ばいばい。友希」

 小さな声で告げた言葉と共に、そのまま振り返りはしない。
 僕はそれに答える事は出来なかった。
 泣き続けて泣き続けて。聖が消えてしまった事を認めたくないとばかりに、ただ声を上げ続けた。
 それでも僕は、最後にはひなたを取り戻した事を理解していた。
 どこかに悔恨の気持ちを感じながらも。

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引用元
どんぐりころころ 作詞:青木存義 1935年4月19日没 1985年著作権切れ