「友希くん。私、わかったよ。その人なんだね。私の耳が聞こえなくなったのも、友希くんが記憶を失ったのも、その人のせいだったんだ。なら許せない。絶対に許さないんだから」
ひなたは僕の背をつかんでいた手に力を入れる。
そしてすぐに離して、聖の方へと歩み寄ろうとする。慌てて僕は手をはって、ひなたを近づけないように防ぐ。
こういう時にひなたは大人しくしているようなタイプではない。強気にくってかかるのが、ひなたという少女だ。僕は何とかこれ以上ひなたを聖に近づけないように僕の背に隠そうとする。
「許さないですか。なら、どうするんですか? 俺を殺しますか?」
聖の言葉からはどんどん抑揚が失われていた。出来の悪い音声合成の機械のような声は、静かすぎて波の音にかき消されようとすらしていた。
聖の言葉にひなたは鋭い視線を向けながら、目をつり上げてにらみつけていた。
「捕まえて警察に突き出す!」
ひなたが叫んだ言葉に、聖の肩がぴくりと震えた。
それから突然に笑い始める。
「あはははっ。笑わせてくれますね。警察ですか? 何の証拠もないのに? だいたい俺が触れたら、何もかも失ってしまうんですよ。それでどうやって俺を捕らえるんです」
聖は笑いながら告げる。
だけどその笑みは、どこか昇天の合っていない写真のようにぼやけて感じられた。
僕が知っている聖からどんどん遠くなっていくように感じる。
「ひな。聖には……」
声にだしかけて、しかしひなたには聞こえない事を思い出す。ただいまノートで筆談している余裕なんてなかった。
僕はひなたの手をとって、そしてそのまま強く僕へと引き寄せる。
ひなたが僕の顔をみていた。同時に声には出さずに、口だけを開いて話しかけていた。
『逃げよう』
ひなたは少しだけなら唇の動きで話している事がわかるはずだった。少なくとひなたと自分の名を呼ばれた時は理解していた。どこまでわかるかはわからないけれど、少しでも伝わればと思った。
「友希くんっ。でもっ」
ひなたが抗議の声を上げる。どうやらうまく伝わったようだった。
僕は首を振って、それからもういちど手を引く。そしてそのまま走り出した。
ひなたも慌ててそれについて走り始める。
聖は初めは僕達を追おうともしなかった。
聖にはいくらでも襲いかかるチャンスはあったはずなのに、そうはせずに僕と話し続けていた。それは聖の心の中に、ためらいがあるからだろう。いや本当の答えは違うのかもしれない。それでも僕は聖にまだ良心が残っているはずと信じていた。信じたかった。
とにかく聖はすぐに僕達を襲おうとはしていない。
それなら何とか逃げられるかもしれない。ひなただけでも逃げ切ってくれればあとは何とかなると思う。
少し聖と距離が開いたと思ったとき、聖がゆっくりと僕達を追いかけ始めた。
どこか緩慢な動きで、本気で追うつもりがあるのかすらわからない。
僕達は全力で走り続けた。もっともさすがに今のひなたの足は僕よりも遅い。ひなたに合わせた速度になる。あるいは聖もそれを知っていて、いつでも追いつけると思っていたのかもしれなかった。
「友希くんっ」
息を荒くしながら、ひなたは僕の名を呼んでいた。
「ひなっ。いいから今は逃げるんだ。逃げないと何をされるかわからない」
話しながら背中へと振り返る。聖がどこまで来ているか確かめようと思った。
同時に愕然として、僕は足を止めそうになる。
聖は隣に並んでいた。
それどころか、そのまま僕達を追い越して目の前に回り込んでいく。
「遅いですね」
聖がつぶやくように告げる。
僕は仕方なくひなたの手をひいて、方向を変えて再び走り始める。
「ひな、こっちだっ」
慌てて逃げ出していくが、しかし聖の足の速さは異常なほどだった。いつもの聖とは完全に違っていた。
あれだけの速さで走れるのなら、どちらに逃げても同じかもしれない。それでも僕は走るしかなかった。
ひなたはかなり息を荒くしていた。本来のひなたは運動は得意な方だと思うが、何ヶ月も家にこもっていたのだから体力は落ちている。さらに耳が聞こえないぶん恐怖も人一倍のはずだ。疲れもするだろう。
だけどここで足を止める訳にもいかなかった。だからひたすら走り続けた。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。僕もひなたも疲れでまともに走る事も出来なくなっていた。
その後ろから聖はゆっくりと追いかけてくる。わざと追いつかないでいるようにも思えた。だけどもはや歩く事すら辛くて、僕とひなたはその場に立ち尽くしていた。
気がつくと、いつのまにか事故のあったあの崖までやってきていた。
眼下には海が広がっている。ひなたはここで聴力を失い、僕は記憶を失った。
今にして思えば聖はここに連れてこようとしていたのだろう。だから時に追いつきながらも、僕達に手を出してこようとはしなかった。
しかしそれがわかったからといって、僕達に出来る事は何もない。
ひなたは僕の背をつかんでいた手に力を入れる。
そしてすぐに離して、聖の方へと歩み寄ろうとする。慌てて僕は手をはって、ひなたを近づけないように防ぐ。
こういう時にひなたは大人しくしているようなタイプではない。強気にくってかかるのが、ひなたという少女だ。僕は何とかこれ以上ひなたを聖に近づけないように僕の背に隠そうとする。
「許さないですか。なら、どうするんですか? 俺を殺しますか?」
聖の言葉からはどんどん抑揚が失われていた。出来の悪い音声合成の機械のような声は、静かすぎて波の音にかき消されようとすらしていた。
聖の言葉にひなたは鋭い視線を向けながら、目をつり上げてにらみつけていた。
「捕まえて警察に突き出す!」
ひなたが叫んだ言葉に、聖の肩がぴくりと震えた。
それから突然に笑い始める。
「あはははっ。笑わせてくれますね。警察ですか? 何の証拠もないのに? だいたい俺が触れたら、何もかも失ってしまうんですよ。それでどうやって俺を捕らえるんです」
聖は笑いながら告げる。
だけどその笑みは、どこか昇天の合っていない写真のようにぼやけて感じられた。
僕が知っている聖からどんどん遠くなっていくように感じる。
「ひな。聖には……」
声にだしかけて、しかしひなたには聞こえない事を思い出す。ただいまノートで筆談している余裕なんてなかった。
僕はひなたの手をとって、そしてそのまま強く僕へと引き寄せる。
ひなたが僕の顔をみていた。同時に声には出さずに、口だけを開いて話しかけていた。
『逃げよう』
ひなたは少しだけなら唇の動きで話している事がわかるはずだった。少なくとひなたと自分の名を呼ばれた時は理解していた。どこまでわかるかはわからないけれど、少しでも伝わればと思った。
「友希くんっ。でもっ」
ひなたが抗議の声を上げる。どうやらうまく伝わったようだった。
僕は首を振って、それからもういちど手を引く。そしてそのまま走り出した。
ひなたも慌ててそれについて走り始める。
聖は初めは僕達を追おうともしなかった。
聖にはいくらでも襲いかかるチャンスはあったはずなのに、そうはせずに僕と話し続けていた。それは聖の心の中に、ためらいがあるからだろう。いや本当の答えは違うのかもしれない。それでも僕は聖にまだ良心が残っているはずと信じていた。信じたかった。
とにかく聖はすぐに僕達を襲おうとはしていない。
それなら何とか逃げられるかもしれない。ひなただけでも逃げ切ってくれればあとは何とかなると思う。
少し聖と距離が開いたと思ったとき、聖がゆっくりと僕達を追いかけ始めた。
どこか緩慢な動きで、本気で追うつもりがあるのかすらわからない。
僕達は全力で走り続けた。もっともさすがに今のひなたの足は僕よりも遅い。ひなたに合わせた速度になる。あるいは聖もそれを知っていて、いつでも追いつけると思っていたのかもしれなかった。
「友希くんっ」
息を荒くしながら、ひなたは僕の名を呼んでいた。
「ひなっ。いいから今は逃げるんだ。逃げないと何をされるかわからない」
話しながら背中へと振り返る。聖がどこまで来ているか確かめようと思った。
同時に愕然として、僕は足を止めそうになる。
聖は隣に並んでいた。
それどころか、そのまま僕達を追い越して目の前に回り込んでいく。
「遅いですね」
聖がつぶやくように告げる。
僕は仕方なくひなたの手をひいて、方向を変えて再び走り始める。
「ひな、こっちだっ」
慌てて逃げ出していくが、しかし聖の足の速さは異常なほどだった。いつもの聖とは完全に違っていた。
あれだけの速さで走れるのなら、どちらに逃げても同じかもしれない。それでも僕は走るしかなかった。
ひなたはかなり息を荒くしていた。本来のひなたは運動は得意な方だと思うが、何ヶ月も家にこもっていたのだから体力は落ちている。さらに耳が聞こえないぶん恐怖も人一倍のはずだ。疲れもするだろう。
だけどここで足を止める訳にもいかなかった。だからひたすら走り続けた。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。僕もひなたも疲れでまともに走る事も出来なくなっていた。
その後ろから聖はゆっくりと追いかけてくる。わざと追いつかないでいるようにも思えた。だけどもはや歩く事すら辛くて、僕とひなたはその場に立ち尽くしていた。
気がつくと、いつのまにか事故のあったあの崖までやってきていた。
眼下には海が広がっている。ひなたはここで聴力を失い、僕は記憶を失った。
今にして思えば聖はここに連れてこようとしていたのだろう。だから時に追いつきながらも、僕達に手を出してこようとはしなかった。
しかしそれがわかったからといって、僕達に出来る事は何もない。