三十六日間の忘れ物

「聖!?」
 僕はただ叫んでいた。それ以外に出来なかった。
 崖の隅にひなたは追いつめられて、その目の前に聖は立っている。
「その人がいるから、いけないんです。その人が」
 聖は淡々とした声で告げる。
 僕は聖を挟んで反対側にいて、身動きをとれずにいた。変に動けば聖はひなたを突き落としてしまうかもしれない。そう思わせるだけの空気がこの場に満ちていた。
 三月六日、コンテストの日。僕はひなたと会っていた。コンテストが終わって、そして二人で話していた時のことだった。
 コンテストの会場からいつもの海浜公園に向かう途中、僕達は聖と出会った。
 聖は蛇のような冷たい瞳を僕達に向けていた。
 それから細かいことは覚えていない。だけど僕達は聖に追われて、この崖まで追い詰められていた。
「ね、こんなことはやめよう。何にもならないよ。これで私が死んだとしても、君の思いとおりにはならないもの」
 聖が危害を与えようと迫ってきているにもかかわらず、ひなたは聖を説得しようとして声をかける。そんなところがひなたらしいとも言えるが、かといって危険なことも間違いなかった。
 ひなたは自分が正しいと思った事には決して曲げようとはしない。だから聖に屈する事もないだろう。
 しかし今の聖は明らかにどこかおかしくなっている。変に刺激すれば、それこそ崖の上から突き落としかねないと思う。
「貴方が、貴方がいなければ、きっとうまくいくはずです」
 聖には言葉が通じなかった。
 ただゆっくりと迫ってくる彼に、僕達は恐怖を覚える以外には出来なかった。
「俺はあの人のためなら、なんでも」
 聖は何かつぶやくと、それからひなたへと手をのばした。
 ひなたはその圧力に耐えかねるようにして、後ずさる。
 でも、もう後がない。ひなたは崖の上から転落して、海の中へと落ちていく。
「いや……。あ……っ。友希くん……たすけ……!」
 ひなたが声を漏らした。
「これで、これでいい。これでいいはずなんだ。だから」
 聖が何か告げていた。
 でも僕はすぐに背を向けて、海へと向けて飛び込んでいた。
「友希さん!? なんで、なんで貴方まで海に」
 聖の声が聞こえたけれど、僕の耳にはもう届いていなかった。
 ひなたを。ひなたを助けるんだ。
 ひなたを。
 茜色の空が、海に反射していた。
 彼女を追いかけるけれど、届かない。彼女は一足先に海へと沈んでいた。
 海面が僕を打ち付ける。
 ひなたを救いたいのに。
 喉の奥に海水が入り込んでいく。
 頭がいたい。
 どこかを打ち付けてしまったのかもしれない。
 意識が遠のいていく。
 救わないといけないのに。
 どうして、聖はあの子を害しようとしたんだ。
 あの子って、誰だ。
 わからない。
 記憶が、混濁していく。
 何も。覚えていない。
 そのまま僕は意識を失っていた。
 それが失った記憶の全てだった。