「聖!?」

 僕はただ叫んでいた。それ以外に出来なかった。

「その人がいるから、いけないんです。その人が」

 聖は淡々とした声で告げる。
 崖の隅にひなたは追いつめられて、その目の前に聖は立っている。
 僕は聖を挟んで反対側にいて、身動きをとれずにいた。変に動けば聖はひなたを突き落としてしまうかもしれない。
 三月六日、コンテストの日。僕はひなたと会っていた。いつもの海浜公園に向かう途中、僕達は聖と出会った。
 聖は蛇のような冷たい瞳を僕達に向けていた。
 細かいことは覚えていない。だけど僕達は聖に追われて、この崖まで追い詰められていた。

「ね、こんなことはやめよう。何にもならないよ。これで私が死んだとしても、君の思いとおりにはならないもの」

 聖が危害を与えようと迫ってきているにもかかわらず、ひなたは聖を説得しようとして声をかける。そんなところがひなたらしいとも言えるが、かといって危険なことも間違いなかった。
 ひなたは自分が正しいと思った事には決して曲げようとはしない。だから聖に屈する事もないだろう。
 しかし今の聖は明らかにどこかおかしくなっている。変に刺激すれば、それこそ崖の上から突き落としかねない。

「殺しまではする気はありません。貴女から、奪うだけです。俺には、力があるから」

 聖はどこか寂しげな声でつぶやいて、ひなたへと手を伸ばす。
 聖の手が、ひなたの耳に微かに触れる。その瞬間、ひなたは聖の手を振り払っていた。

「触らないで!」

 ひなたは自分の耳を手でおさえて、はっきりと言い放つ。
 聖に触れられたことに嫌悪を示しているようだった。

「ええ、もう触りませんよ。本当なら喉に触れたいところでしたが。これで十分です。俺はもう貴女には用はない」

 聖はそう言い放つと、急激に興味を失ったかのように振り返る。
 さきほどまであんなにも執拗にひなたを追いかけていたというのに。

「……聖」

 僕は目の前の少年の名前を呼ぶ。そこにいるのがいつもの陽気な聖だとは信じられなかった。
 ただそれでも最終的にはひなたに何をするでもなく諦めてくれたのかと、ほっと息を吐き出す。
 諦めた。この瞬間まではそう思っていた。
 だからこのとき、すでに失っている事に気がつかなかった。
 聖は僕の隣をゆっくりと通り過ぎ、そして通りすがりに僕の頭に触れていく。
 その瞬間だった。ひなたは驚いた様子をみせて、自分の両耳を押さえていた。

「え!? やだ!? どうして。なにが」
「ひなた!」

 ひなたの名前を呼ぶ。そして名前を呼んだ瞬間だった。
 僕は急激に何かが失われていくのを感じていた。
 目の前の少女の事がわからない。誰だろう。彼女はなぜうろたえて、叫んでいるのか。何をしているのかわからない。
 いま目の前にいるというのに、彼女への想いも名前も、その姿すらもがどんどんと消えていく。
 この瞬間には完全に失われていた。三十六日間の、長い記憶が。

「いやだぁっ!」

 目の前の少女が耳を押さえて、ふらりと身体を揺らした。そのまま足下がおぼつかず、彼女は足を滑らしていく。

「え。あっ」

 声は一瞬の事だった。崖にふちにいた彼女は、身体が滑り落ちるように崖の下へと転がり落ちて、目の前からあっと言う間に消える。
 その瞬間、僕は走り出していた。
 なぜそうしようと思ったのかもわからない。目の前にいるのは見ず知らずの少女だ。それにいまさら走ったからといって間に合うはずもない。
 それでも僕は走らずにはいられなかった。
 そして彼女へと手を伸ばす。だけど届かない。届かなかった。

「友希さん!? 忘れたはずなのにどうして」

 聖が僕の名を呼んでいた。
 僕は構わずに、何も考えずに海へと飛び込んでいた。
 絶対に救うんだ。あの子を、僕は絶対に救う。
 あの子は、誰だ。わからない。わからなかった。知らない少女だけど。だけど。
 大切な子なんだ。
 僕はえもしれない感情にとらわれながら、でもただ彼女を救いたいと願った。
 空を飛んでいた。
 空が青かった。いや。それとも海の色だったのか。目の前に広がっている青が海なのか、それとも空なのか。それすらもわからなかった。
 彼女を追いかけるけれど、届かない。彼女は一足先に海へと沈んでいた。
 目の前にいる少女に届かない。そして少女がどんな姿をしていたかも思い出せない。
 忘れてしまった。忘れたくなかったのに。忘れてしまった。
 いやだ。忘れさせないでくれ。僕は覚えていたいんだ。
 何が起こっているのか、わからない。ただ聖が僕の頭に触れたと同時に、たくさんの事が頭の中から消えていく。忘れてしまったんだ。
 大切なものを忘れてしまった。忘れて。
 忘れたくないと、最後はそれだけが残っていた。もう何を忘れたくないのかすらも忘れてしまった。
 喉の奥に海水が入り込んでいく。
 そのまま僕は意識を失っていた。
 それが失った記憶の全てだった。