「やだっ。こないで。友希くん、あいつだから。あの時、私を」
ひなたが思わず何かを告げようとした瞬間だった。
聖は僕めがけて殴りかかってくる。
慌てて避けようとするけれど、ひなたとつないだままの手がそうさせなかった。
聖の拳が僕の頬に打ち付けられる。
目の前が真っ白に点滅して一瞬何も見えなくなる。
「友希くん! ……何するの! やだっ」
ひなたの悲鳴が聞こえた。まだ目の前が点滅を繰り返していて、よく前が見えない。
「ひなたに手を出すな!」
それでもひなたを守ろうと、僕は見えないまま左手を大きく振るう。
手に何かが触れた感覚があった。その瞬間、逆に腕を捕まれて、そのままものすごい力で僕を投げ飛ばしていた。
あまりの勢いに僕とひなたのつないでいた手が離れる。
そのまま僕は地面に身体を打ち付けられて、肺から一気に息を吐き出す。
「がっ!」
まともに呼吸すら出来なかった。喉から吐き出した息が、そのまま詰まるかのように思えた。
「やだっ。友希くんから手を離せっ!」
ひなたの声が伝う。
急いで立ち上がらないと。僕がひなたを守るんだ。
そう思う心とは反対に身体が動かない。
それでも何とか立ち上がって、目の前に目をこらす。なんとか視界も晴れてきて、ひなたの前に立つ聖の姿が見て取れた。
「聖っ。ひなたに近づくな!」
「聞けませんね。もういちど、失ってもらうまでは。そして今度こそ、美優さんに幸せになってもらうんです。美優さんを傷つけたこの人を、俺は、許さない」
「聖! 美優の事とひなたは関係ないだろ! 文句があるなら、僕に言えばいい!」
「違いますよ。この人がいなければ、友希さんは美優さんと一緒にいられたんです。だって、ひなたさんの事を忘れたとき、友希さんは美優さんと付き合いだしたでしょう? だから、この人がいなければいいんです。もういちど忘れてしまえばいい。俺は、美優さんが、望むようにするんです。俺は」
聖は空を見上げて渇いた声で笑う。
同時に僕は身体中が震えて止まらなかった。
その冷たい目が僕を苛む。
怖いと思った。
聖の事を、いや誰か一人の事をここまでも怖いと思ったのは、これが初めての事だった。
暴力的な何かなら出会った事はある。不良に絡まれて殴られた事もある。知り合いの漁師も荒くれ者たちばかりだ。だけど彼らと向き合ったその時も、こんな恐怖は感じなかったと思う。
まるで聖は自分の中にあるリミッターを壊してしまったかのように、爬虫類のような冷たい瞳を僕達に向けていた。
「このっ、馬鹿! 変態! 友希くんから離れて!」
ひたなは大きな声で叫びながら、僕の方へと近寄ってくる。
聖も無理に抑え込んだりはせずに、素直に手を離していた。
何とか身体を起こすと、ひなたを背中にして聖の前に立ちふさがる。ひなたは僕の背中にそのまま隠れていた。
ひなたが無事でいる事に少しほっとした。だけどこのまま逃げ出したくもあった。いつもと違う聖に、僕は震えが止まらない。
「ひなた」
ひなたの名前を呼ぶ。もちろん答えはない。
なのにそれだけで少しひなたの震えが止まった気がする。
だけど聖が首を振るいながら、冷たい声で告げる。
「友希さん。もういちど忘れてください。だいたい、どうしてその子じゃなきゃいけないんです? その子の何がいいんですか? もう歌えなくなったのだから、魅力なんて無くなったでしょう? それとも耳では足りませんでしたか? やっぱり声を失わせるべきでしたか? いや、いっそ全てを消してしまうべきだったのか」
「聖、何を言ってるんだ!?」
聖が何を言っているのかわからなかった。何も理解する事が出来なかった。
「わからないですか? わからないですよね。そうですよね。でも、それが当たり前です。それでいい。とにかく、俺、ひなたさんを、消します。その方が、みんなが幸せなんです」
聖は手を伸ばした。聖が何をしようとしているのかわからない。わからないけれど、その手が異常なまでに大きく感じて、僕の喉が枯れるように痛んだ。
「ひなたっ、逃げろ!」
ひなたが聞こえない事も忘れて叫ぶと、僕は聖の前に立つ。
聖が恐ろしかった。今までにないほど何かが頭の中に響く。
逃げたい。逃げ出したい。聖の傍にいたくない。
僕の心が何度もそう告げる。それでも僕は踏みとどまって、ひなたと聖の間に立っていた。
ひなたを失いたくなかった。聖が何をしようとしているかはわからない。でも聖が何かおかしくなっている事だけはわかった。聖のやろうとしている事をさせてはいけない。
頭の中から何かがあふれ出ているかのように痛みが響いた。
何がなんだかわからなかった。ただ失う事が怖かった。
僕は聖の手をつかんで抑えつけようとして力を入れる。しかし聖は僕がつかんだ手を軽々と振り払う。
「無駄ですよ。友希さんが今の俺に力で敵うはずがない」
「な?」
聖の言葉に思わず声を漏らしていた。
僕は決してスポーツが得意な方ではない。だけどそれほど不得手という訳でもない。しかし聖も似たようなもので、むしろ僕の方が多少とはいえ力は強いはずだった。
それなのに今の聖は僕の手を強引にはがして、まるで大人と子供くらいの力の差を感じていた。
「友希さん。俺は、美優さんが好きなんです」
射貫くような強い視線を僕に向けると、聖ははっきりとそう告げた。
聖が美優に好意を持っていることはうすうすは気がついてはいた。そしてその気持ちをあえて告げずにいることも。
美優に寄ってくる男達の中には学校で人気の男達もいた。でも彼らには答えなかった。聖はそんな彼らより優れたものをもっている訳でもない。だからこそ聖は口には出さなかったのだろう。一度でも口にしてしまえば、今の関係も壊れてしまうかもしれなかったから。
例えば美優が、そして僕が言葉にして二人の関係が壊れてしまったように。
だから聖は言わずにいたはずなのに、どうしていまその想いを声にしたのだろう。
その疑問に答えるように、聖はゆっくりと言葉を続ける。
「でも、俺。言わないつもりでした。ずっと言わないでいようと思いました。美優さんには、俺よりずっと相応しい人がいたからです」
聖の声が少しだけ震える。今までの聖には感情がないロボットのようにすら思えた。
だけど今の言葉には聖の想いがあふれているかのように感じられた。
胸が痛んだ。この先に何と続くのかは、鈍い僕にだってさすがにわかる。
だけど、だから。言われたくなかった。
「美優さんは、ずっと友希さんのことが好きだったんです。友希さんしか見ていなかった。だから俺、何も言わなかった。友希さんなら許せたから。俺、友希さんのこと、好きだから。友希さんだって、美優さんのこと好きだった。二人はいつもお似合いで、他に入る余地なんてどこにもなくて。なのに」
聖は大きく息を吸い込む。
「どうして他の人を見ているんです。なぜ。その人と出会わなければ、狂わなかった。その人が歌わなければ、友希さんは美優さんをみていられた。だから忘れて貰ったのに、どうして友希さんは、思い出すんです。どうして思い出してしまうんです」
聖はもう僕の顔を見てはいなかった。いまはひなたへと据えた目で睨みつけている。
ひなたは怯えた顔で僕の背中に隠れたまま、聖と顔を合わせようとすらしない。
ひなたらしくないと思った。確かに今はひなたはいろんな事に怯えてしまっている。それでも誰かの後に隠れて何も言わないだなんて、ひなたらしくなかった。
あまりにも恐ろしいものを見ているかのようで、ひなたはただ身体を震わせていた。
さっき逃げろと言ったけれど、僕が聖をおさえられない以上、ひなたが一人で逃げる事は困難だろう。走る事は出来てもひなたには他の危険がある。音が聞こえないから、いろんな危険があるし、どこまで逃げればいいかもわからないだろう。
だから今もこうして背中にいてくれるのは、僕にとっては幸いだったのかもしれない。それにしてもひなたのおびえようは不自然に思えた。
頭が割れるように痛む。
僕の頭の中から、何かがあふれでようとしていた。
暗闇の中に、いくつもの光景が浮かんでいく。
ひなたの姿。僕の姿。そして聖の姿。
そうだ、聖がひなたを追いかけていた。僕は。
痛みが頭の中から突き抜けていく。
そうだ。思い出した。あの時のことを。
ひなたが思わず何かを告げようとした瞬間だった。
聖は僕めがけて殴りかかってくる。
慌てて避けようとするけれど、ひなたとつないだままの手がそうさせなかった。
聖の拳が僕の頬に打ち付けられる。
目の前が真っ白に点滅して一瞬何も見えなくなる。
「友希くん! ……何するの! やだっ」
ひなたの悲鳴が聞こえた。まだ目の前が点滅を繰り返していて、よく前が見えない。
「ひなたに手を出すな!」
それでもひなたを守ろうと、僕は見えないまま左手を大きく振るう。
手に何かが触れた感覚があった。その瞬間、逆に腕を捕まれて、そのままものすごい力で僕を投げ飛ばしていた。
あまりの勢いに僕とひなたのつないでいた手が離れる。
そのまま僕は地面に身体を打ち付けられて、肺から一気に息を吐き出す。
「がっ!」
まともに呼吸すら出来なかった。喉から吐き出した息が、そのまま詰まるかのように思えた。
「やだっ。友希くんから手を離せっ!」
ひなたの声が伝う。
急いで立ち上がらないと。僕がひなたを守るんだ。
そう思う心とは反対に身体が動かない。
それでも何とか立ち上がって、目の前に目をこらす。なんとか視界も晴れてきて、ひなたの前に立つ聖の姿が見て取れた。
「聖っ。ひなたに近づくな!」
「聞けませんね。もういちど、失ってもらうまでは。そして今度こそ、美優さんに幸せになってもらうんです。美優さんを傷つけたこの人を、俺は、許さない」
「聖! 美優の事とひなたは関係ないだろ! 文句があるなら、僕に言えばいい!」
「違いますよ。この人がいなければ、友希さんは美優さんと一緒にいられたんです。だって、ひなたさんの事を忘れたとき、友希さんは美優さんと付き合いだしたでしょう? だから、この人がいなければいいんです。もういちど忘れてしまえばいい。俺は、美優さんが、望むようにするんです。俺は」
聖は空を見上げて渇いた声で笑う。
同時に僕は身体中が震えて止まらなかった。
その冷たい目が僕を苛む。
怖いと思った。
聖の事を、いや誰か一人の事をここまでも怖いと思ったのは、これが初めての事だった。
暴力的な何かなら出会った事はある。不良に絡まれて殴られた事もある。知り合いの漁師も荒くれ者たちばかりだ。だけど彼らと向き合ったその時も、こんな恐怖は感じなかったと思う。
まるで聖は自分の中にあるリミッターを壊してしまったかのように、爬虫類のような冷たい瞳を僕達に向けていた。
「このっ、馬鹿! 変態! 友希くんから離れて!」
ひたなは大きな声で叫びながら、僕の方へと近寄ってくる。
聖も無理に抑え込んだりはせずに、素直に手を離していた。
何とか身体を起こすと、ひなたを背中にして聖の前に立ちふさがる。ひなたは僕の背中にそのまま隠れていた。
ひなたが無事でいる事に少しほっとした。だけどこのまま逃げ出したくもあった。いつもと違う聖に、僕は震えが止まらない。
「ひなた」
ひなたの名前を呼ぶ。もちろん答えはない。
なのにそれだけで少しひなたの震えが止まった気がする。
だけど聖が首を振るいながら、冷たい声で告げる。
「友希さん。もういちど忘れてください。だいたい、どうしてその子じゃなきゃいけないんです? その子の何がいいんですか? もう歌えなくなったのだから、魅力なんて無くなったでしょう? それとも耳では足りませんでしたか? やっぱり声を失わせるべきでしたか? いや、いっそ全てを消してしまうべきだったのか」
「聖、何を言ってるんだ!?」
聖が何を言っているのかわからなかった。何も理解する事が出来なかった。
「わからないですか? わからないですよね。そうですよね。でも、それが当たり前です。それでいい。とにかく、俺、ひなたさんを、消します。その方が、みんなが幸せなんです」
聖は手を伸ばした。聖が何をしようとしているのかわからない。わからないけれど、その手が異常なまでに大きく感じて、僕の喉が枯れるように痛んだ。
「ひなたっ、逃げろ!」
ひなたが聞こえない事も忘れて叫ぶと、僕は聖の前に立つ。
聖が恐ろしかった。今までにないほど何かが頭の中に響く。
逃げたい。逃げ出したい。聖の傍にいたくない。
僕の心が何度もそう告げる。それでも僕は踏みとどまって、ひなたと聖の間に立っていた。
ひなたを失いたくなかった。聖が何をしようとしているかはわからない。でも聖が何かおかしくなっている事だけはわかった。聖のやろうとしている事をさせてはいけない。
頭の中から何かがあふれ出ているかのように痛みが響いた。
何がなんだかわからなかった。ただ失う事が怖かった。
僕は聖の手をつかんで抑えつけようとして力を入れる。しかし聖は僕がつかんだ手を軽々と振り払う。
「無駄ですよ。友希さんが今の俺に力で敵うはずがない」
「な?」
聖の言葉に思わず声を漏らしていた。
僕は決してスポーツが得意な方ではない。だけどそれほど不得手という訳でもない。しかし聖も似たようなもので、むしろ僕の方が多少とはいえ力は強いはずだった。
それなのに今の聖は僕の手を強引にはがして、まるで大人と子供くらいの力の差を感じていた。
「友希さん。俺は、美優さんが好きなんです」
射貫くような強い視線を僕に向けると、聖ははっきりとそう告げた。
聖が美優に好意を持っていることはうすうすは気がついてはいた。そしてその気持ちをあえて告げずにいることも。
美優に寄ってくる男達の中には学校で人気の男達もいた。でも彼らには答えなかった。聖はそんな彼らより優れたものをもっている訳でもない。だからこそ聖は口には出さなかったのだろう。一度でも口にしてしまえば、今の関係も壊れてしまうかもしれなかったから。
例えば美優が、そして僕が言葉にして二人の関係が壊れてしまったように。
だから聖は言わずにいたはずなのに、どうしていまその想いを声にしたのだろう。
その疑問に答えるように、聖はゆっくりと言葉を続ける。
「でも、俺。言わないつもりでした。ずっと言わないでいようと思いました。美優さんには、俺よりずっと相応しい人がいたからです」
聖の声が少しだけ震える。今までの聖には感情がないロボットのようにすら思えた。
だけど今の言葉には聖の想いがあふれているかのように感じられた。
胸が痛んだ。この先に何と続くのかは、鈍い僕にだってさすがにわかる。
だけど、だから。言われたくなかった。
「美優さんは、ずっと友希さんのことが好きだったんです。友希さんしか見ていなかった。だから俺、何も言わなかった。友希さんなら許せたから。俺、友希さんのこと、好きだから。友希さんだって、美優さんのこと好きだった。二人はいつもお似合いで、他に入る余地なんてどこにもなくて。なのに」
聖は大きく息を吸い込む。
「どうして他の人を見ているんです。なぜ。その人と出会わなければ、狂わなかった。その人が歌わなければ、友希さんは美優さんをみていられた。だから忘れて貰ったのに、どうして友希さんは、思い出すんです。どうして思い出してしまうんです」
聖はもう僕の顔を見てはいなかった。いまはひなたへと据えた目で睨みつけている。
ひなたは怯えた顔で僕の背中に隠れたまま、聖と顔を合わせようとすらしない。
ひなたらしくないと思った。確かに今はひなたはいろんな事に怯えてしまっている。それでも誰かの後に隠れて何も言わないだなんて、ひなたらしくなかった。
あまりにも恐ろしいものを見ているかのようで、ひなたはただ身体を震わせていた。
さっき逃げろと言ったけれど、僕が聖をおさえられない以上、ひなたが一人で逃げる事は困難だろう。走る事は出来てもひなたには他の危険がある。音が聞こえないから、いろんな危険があるし、どこまで逃げればいいかもわからないだろう。
だから今もこうして背中にいてくれるのは、僕にとっては幸いだったのかもしれない。それにしてもひなたのおびえようは不自然に思えた。
頭が割れるように痛む。
僕の頭の中から、何かがあふれでようとしていた。
暗闇の中に、いくつもの光景が浮かんでいく。
ひなたの姿。僕の姿。そして聖の姿。
そうだ、聖がひなたを追いかけていた。僕は。
痛みが頭の中から突き抜けていく。
そうだ。思い出した。あの時のことを。