「友希くん、歌うよ?」

 ひなたの声に驚いて顔を合わせる。
 元々歌うためにきたのだから、それはぜんぜんやぶさかではない。でもいま注目されているこの中でというのは、いきなりハードルが高いとも思う。
 でもひなたは気にした様子もなく、大きく深呼吸を始めていた。
 ここまできたら仕方ない。僕も腹をくくって、息を吸い込む。

「かえるのこーえがー」

 歌い始めたのはいつもの童謡だった。
 喉の奥が詰まるような気がしたけれど、ぎゅっと目をつぶって喉を震わせていた。

「かえるのこーえがー」

 僕が歌ったのは聞こえていないかもしれないけども、ひなたはそのまま歌い続ける。
 そして僕もひなたに続くようにして、一緒に歌い続けていた。
 他にも森のくまさんや、静かな湖畔など、誰もがきいたことがあるような童謡を歌い続けていた。
 そばにいた小さな子供たちは、最初は何をしているのかと遠巻きで僕達をながめていた。だけど知っている歌を歌っているのだとわかって、中には一緒に歌い出す子もいた。
 大人達は変なものを見ているような目を向けてくる人達もいた。
 だけどそれでもいい。ただ歌いたかった。歌って欲しかった。
 子供達が一緒に歌ってくれるのが嬉しかった。
 そうして歌っているうちに、最初は馬鹿にしたような声を漏らした人達も、いつのまにかひなたに魅入られていた。
 ひなたの空のように澄んだ歌声は、僕が知っているどんな歌手よりも優しく惹きつけている。
 ひなたの歌は優しい。優しさがにじみ出ている。そんなひなたの歌は誰よりも子供達に響いて、だから子供達も一緒に歌ってくれているのだろう。
 歌い終わった時には辺りから拍手が送られていた。ひなたはにこやかに笑顔を返した。
 そのあとも何度も、何曲も、定番のいろんな童謡を歌い続けていた。
 ひなたの耳にはやっぱり音は届いていないようだったけれど、それでもまっすぐに歌い続けていた。
 歌の合間に話しかけてくる人がいたときは、僕からひなたの耳が聞こえない事を説明する。でもそれ以上の事は何も言わなかった。
 それをきくとほとんどの人が同情の眼差しを向けてくる。
 しかしそんなものは僕達には必要がなかった。いまこうして歌を歌えるだけで、ひなたの心が癒やされていくのがわかる。僕とひなたに必要なのは、ここで二人で歌うこと。それだけ。それ以上には何も必要としていなかった。
 時間も過ぎていき、観客や子供達も一人、また一人と減っていく。
 それでも僕達は歌い続けた。
 そして太陽が傾いて、空が茜色に染まり始めたころ。ひなたの歌が不意に止まる。
 突然のことに、僕は驚いてひなたの方へと向き直る。
 ひなたは僕の後ろを見つめていた。その瞳に浮かんでいたのは、怒りだったのか、それとも恐れだったのか。ただ揺れた瞳が、じっとそちらを見つめていた。
 僕はそちらへと向き直る。
 そこには少年が一人たっていた。丸眼鏡が特徴的な、僕もよく知る少年だった。
 ひなたは僕の背中に隠れるようにして身をひそめる。

「聖……?」

 彼の名前を呼ぶ。
 よく知っているはずの彼は、だけど僕が知らない顔をして、僕達をじっと見つめていた。
 まるで蛇のような感情を感じさせない瞳を、ただ僕達に向けていた。

「友希さん」

 聖は喉の奥から絞り出すような声で僕の名前を呼ぶ。
 同時に僕の頭の中に強い痛みが走った。思わずこめかみの辺りを押さえる。

「どうして思い出したんですか?」

 聖の声はまるで氷のように冷たくて、何か陰湿な意思が込められていた。
 声が聞こえないはずのひなたすら、聖の様子におびえたように震えている。

「なにを……」

 そう答えるのが精一杯だった。僕の頭の中が突然に何かキリで穴を開けられているかのように痛み続ける。
 なんだ。どうしてこんなに頭が痛いんだ。僕は声には出さずにつぶやくと、痛みに耐えながら聖を正面から見据えてみる。
 何かが僕の頭の中からあふれ出ようとしていた。
 だけど何かが壁を作って生まれようとしない。
 なんだ。どうしてこんなに頭が痛いんだ。僕は声には出さずにつぶやくと、聖を正面から見据えてみる。
 いつもの少し変わっているけれど陽気な聖の姿はない。
 まるで蛇のような冷たい感情の見えない瞳を、ただ僕達に向けてつきつけていた。

「あのまま忘れていれば、美優さんは幸せになれたのに。どうして思い出したんですか?」

 聖の言葉に背中が震えていた。何を言っているのか理解できなかった。
 しかし聖はまるで構わずにひなたの方へと視線を向けて、一歩だけ歩みよる。

「ひなたさん、でしたっけ。あなたさえいなければ、友希さんは美優さんの方を向いたままだったのに。あなたさえいなければ。どうして、戻ってきたんです? もうここにはこられないはずだったのに」
「何を言って」

 言葉の途中で強く殴りつけられるような衝撃が僕の頭を包んだ。
 激しく鳴り響く痛みに、頭の血管が切れたんじゃないかとすら思えた。
 何かが僕の頭の中から這い出てこようとしている。痛みのあまりに思わず頭を抱えそうになって、それでも僕はひなたの手を離さなかった。

「友希さんが忘れて、ひなたさんは耳を失って。二人の出会いはなかった事になったから、それで美優さんの想いは叶うはずだったのに。どうして思い出したりしたんですか」

 聖の声は次第に鋭さを増していく。
 僕はその声と共に増していく頭痛に耐えきれなくなって、身体が震えるのを感じていた。
 どこかで、僕はどこかでこれと同じ事を感じた事がある。どこだ。いつ。どこで。
 だけど僕の頭の中には強い壁があって、どうしても思い出す事が出来なかった。