ひなたが何度と無く歌った童謡の一つ。迷子の仔猫に困ってしまう犬のおまわりさんの気持ちになって、僕は歌う。
 僕がこうしてひなたの前で歌うのは始めての事だった。歌うのはいつもひなたで、僕はそれをじっと聴いていた。ひなたと一緒に歌う事はあっても、ひなたの前で一人で歌う事はなかった。
 ひなたには声が届かないのだから、歌う事に意味はなかった。届くはずもなかった。
 それでも僕は歌わずにはいられなかった。歌うことしか出来なかった。
 何を思った訳でもない。ただひなたの事を思ったときに、それしか選ぶ事が出来なかった。
 どうなると思っていた訳でもない。
 ただ何を思う訳でもなく歌い続ける。歌い続けようとしたとき。
 ひなたの肩が大きく揺れていた。ずっと伏せていた顔をあげて、僕を強くにらみつけていた。

「歌わないで! 私から歌まで奪うつもりなの!?」

 ひなたは叫ぶと同時に、近くにあったぬいぐるみを掴んで、僕へと投げつけていた。
 ぬいぐるみは僕の胸にぶつかってこぼれ落ちる。
 それだけでは収まらずに、さらに手当たり次第に近くにあるものを投げつけてくる。
 ノートやえんぴつ、それから大きめの目覚まし時計。
 時計は僕の額に当たって、激しい音を響かせていた。
 強い衝撃と痛み。同時に額からぬるりとしたなま暖かい感触が、額から頬へと伝わっていく。

「あっ……」

 ひなたは声を漏らしていた。
 たぶん僕が怪我をする事なんて考えてもいなかったのだろう。流れている血にあからさまに動揺して、目を白黒とさせていた。

「ご……ごめんなさい……。でも……でも、友希くんが悪いんだからっ。友希くんが悪いの! やだぁ」

 ひなたは子供のように叫んでいた。自分がしてしまった事にひどく混乱した様子を見せていた。
 だけど僕には傷の痛みも、流れている血もどうでもよかった。

「ひなた。聞こえたの!? 僕の歌が聞こえたの?」

 僕は驚きのあまりひなたの肩をつかんで問いかけていた。
 僕はただ歌を歌っただけ、ひなたの耳は聞こえないのだから、僕の歌が届くはずはなかった。なのにひなたはいまこうして僕の歌に反応している。
 でも今のひなたには僕の言葉が届いていない。やっぱりひなたの耳が聞こえるようになった訳ではないのだ。
 どうしてひなたには僕の歌が聞こえたのだろうか。自分に問いかけて、そしてすぐにひとつの答えを思いついていた。
 ひなたが歌を愛しているから。
 自分でもくさいと思った。それでも、それ以外には何も考えられない。歌を歌うこと。きっとそこにひなたが音を取り戻すヒントがあるんじゃないかと思う。
 ひなたの投げ飛ばしたノートとえんぴつを取って、急いで大きな文字で書きつづった。まだわんわんと泣き続けているひなたの前に突き出す。

『僕の歌が聞こえたの?』

 先程と同じ台詞。でもつきだした僕の手にひなたはおびえるように身体を震わせていた。

「やだっ。私のせいじゃない。友希くんが悪いんだからっ」

 ひなたは僕の手を払いのけようとする。ひなたはかんしゃくをおこした子供のようで、僕が何をしようとしているのかもわかっていないようだった。
 それでも僕はただノートをひなたに差し出し続ける。

「やだっ。怒らないで。ごめんなさい。でも、友希くんが」

 ひなたは混乱して、自分でもどうしていいのかわからずにいるのだろう。謝りたい気持ちと、でも自分を追い込んだ相手に対して怒りの気持ちとの間で整理がつかずにいるのだ。
 今にも壊れそうなほどに泣き出していて、少しでも遠ざかろうとして身体を捻る。
 だけど偶然にひなたの目にノートの文字が映っていた。

「あ……」

 それでやっと気がついたのだろう。音をとらえないはずのひなたの耳に、確かに僕の歌が届いていた。
 僕の顔とノートの文字を交互に見つめて、何が起きたのかわからないとばかりに僕の目を見つめていた。

「私、聞こえた。友希くんが歌った声、聞こえてた。聞こえてたよ」

 ひなたは自分の両耳を押さえては離す。自分がまだ全ての音を失った訳ではない事に、半信半疑のまま何度も両耳に触れていた。
 だけどすぐにうなだれて首を振るう。それからひなたはつぶやくような声で僕へと話しかけていた。

「友希くん、何か話して」
「え。急に何かって言われても」

 ひなたの問いに思わず答えて、それでひなたの意図を理解していた。
 ひなたは僕の声が届くのかを知ろうとしたのだろう。だけど僕の口が動くをみて、それが自分の耳には届いていない事に落胆の息を吐き出していた。

「やっぱり、私の耳は聞こえないんだ。こうして話してる自分自身の声だって聞こえてないんだから。当たり前だよね」

 ひなたは沈み込んだまま、一人つぶやく。
 一度は聞こえたと思ったからだろうか。ひなたの目には涙が浮かんでいた。
 この時ほどひなたを抱きしめたいと思った事はなかった。だけどその願いは叶えてはいけないとも思った。僕にはまだ資格がない。
 ひなたを傷つけた僕はひなたに希望を取り戻させるまでは、僕はそうしてはいけないと思った。
 だからノートを拾って、もういちど新しい言葉を書きつづる。

『外に行こう』

 その言葉を見せるか否か、少しだけ悩んだ。それはひなたを再び傷つけてしまうかもしれない。
 だけど今ならきっと届いてくれるはずだ。
 歌が聞こえた。だからひなたの耳は本当はまだ全てを失った訳じゃない。今ならまだ取り戻せると思う。だけどこのままここにいれば、それすらも失ってしまうかもしれない。
 この部屋には音がない。
 風の音も鳥の声も、人のざわめきも車の唸りもない。
 波の寄せる音も、セミの鳴く声も。
 そして届かせてくれるはずの歌声も。
 聞こえるのは僕の声だけ。ここではきっとひなたに届かない。
 ひなたの聴力を取り戻すには、きっと沢山の音が必要だと思った。
 僕の歌が聞こえた。だから歌えばまた聞こえるのかもしれない。
 それはひなたが歌を愛しているから。
 でも歌以外の音が聞こえないままでいいはずもない。だからそれではダメなんだ。
 外に行かなくちゃいけない。
 僕はノートにもう少しだけ付け加えて、ひなたへと差し出した。
 ひなたは涙をこぼしながらも、今度は避けようとはしない。
 差し出したノートをみつめて、それから顔をあげて僕をじっと見つめて。
 それからぎゅっと目をつよくつむる。
 二秒だけ閉じたまぶたを開く。もうひなたの瞳には涙は残ってはいない。
 澄んだ瞳を僕に向けて。それからゆっくりと僕へとうなづく。
 僕に告げたひなたの声は震えていたけれど、それでも強い意志が込められていたと思う。

「私は、まだ歌いたい」

 ひなたの答えに、僕はそのまま泣き出しそうになる。こんなにももろい僕なのに、伸ばした手を取ってくれた。
 僕はひなたを支えられるのかわからない。それでももうこの手を離さない。

『歌を歌いに外に行こう。僕も一緒に歌うから』

 僕がノートにつづった言葉は、たったそれだけのものだった。
 それだけでよかったんだ。