次の日、僕はためらいを覚えながらもひなたの家に向かっていた。
ベルを鳴らす。インターホンごしに応答があった。
『はい』
「あの、倉本ですけど」
『あ、ちょっとまってね。いま開けるから』
ひなたの母親はいつも通り特に変わらなかった。安心にして息を吐き出す。ここで『ひなちゃんが会いたくないって言っているから』とか言われて、追い返されたらどうしようかと思っていたけれど、どうやらそれは杞憂だったらしい。
玄関のドアが開いて、ひなたの母親が現れる。いつも物憂げな表情をしていたけれど、さらに疲れた顔をしているようにも思えた。
「倉本くんを待っていたんですよ」
ひなたの母親は僕の顔を認めるなりそう語りかけていた。
「僕を?」
「ええ。実は……ひなちゃん、少しいつもより塞いでしまっているみたいで。昨日は私にさえ会ってくれなくて。ひなちゃん倉本くんには気を許しているみたいだから、何か話してくれるんじゃないかって」
母親はどこかすがるような様子で僕を見つめていた。
おそらくは昨日の僕との会話が原因なのだろう。性急な想いがひなたを余計に追いつめてしまったのかもしれない。
「……わかりました」
僕はそう答えて頭を下げる。
僕が原因だというのにひなたの母親に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになるが、しかし余計な事は言わない方がいいと思った。
ひなたは母親にも何も話していないようだったけれど、沈んでしまった原因が僕にある事を知ったら、激怒するかもしれない。
僕のやろうとしていることは、本当は救いがないのかもしれない。
だけど僕はそれでもひなたを外に連れ出したいと思った。そのためには何でもしようと思う。だから何も言わなかった。
ここで余計な事を言ってしまえば、ひなたに会わせてもらえないかもしれない。だからずるいかもしれないけれど、僕は何も言わなかった。
ただまだひなたから完全に拒まれている訳ではないようなのは救いだった。もしもひなたが僕に会いたくないのであれば、母親に頼んで会えないようにしてもらえばいいだけだ。そうしないという事は、僕と会いたい気持ちがなくなった訳ではないとは思う。
母親に会釈してから二階へと登り、ひなたの部屋の扉をノックする。
ちりんちりんと鈴の音が響いていた。
最初は気がつかなかったけれど、この鈴は音を判断する為のものではなくて、揺れ動く事で誰かが来た事を判断する為のものなのだろう。
中から返事はなかった。気がつかなかったのかもしれない。もういちどドアを叩く。
やはり返答はない。気がついていないのか、あるいは無視しているのかはわからなかったけれど、このままここでつったっている訳にはいかない。
「ひな、開けるよ」
聞こえないとは分かっているけれど、ドアの向こう側に向けて話しかける。案の定返事はなかったけれど、気にせずにドアノブに手をかけた。抵抗もなく扉は開く。
鍵が掛かっていない事にほっとしながらも驚きは隠せない。昨日の事もあったし、鍵を掛けているかとも思った。
もちろん鍵が掛かっていない方が僕としては助かる。ドア越しでは、声の聞こえないひなたには何も伝える事も出来ない。
ただもしかしたらひなたも完全に外と遮断される事を恐れたのかもしれないとも思う。完全に外とのつながりを絶ってしまったら、ひなたは音のない世界に一人きりになってしまう。ひなたもそれは耐えきれないのかもしれない。
それはひなたを外に連れ出す望みが尽きたという訳ではない事も意味している。完全につながりを絶とうとしていないということは、ひなたも恐怖を覚えていても、それでも本当は外に行きたいのかもしれない。
「ひな」
ひなたの名前を呼んで、部屋の中を見渡してみる。
ベッドと洋服棚の間にある隙間に、ひなたは身体を埋めて座り込んでいる。立てた膝の中に顔を埋めて、じっと息すらも殺しているように思えた。
もちろんひなたは僕が呼んだ声も聞こえていないだろうから、返事なんてしない。それどころか僕がきたことにすら気がついていないかもしれない。
ひなたの前に立つ。
僕の身体でちょうど影になるから、ひなたもさすがに気がついただろうとは思う。しかしそれでもひなたは身動き一つしなかった。
どうしたらいいのかわからない。ひなたが塞いでいる事は予想の範囲だった。想像でいくつかの言葉を用意してみたりもした。
だけどこうしてひなたを目の前にしてみたら、その言葉のどれもが今掛けるべき言葉には思えなくて、何も言えなかった。いや書いて伝える事が出来なかった。
そもそもいまペンで手紙を書いたからって、塞いでしまっているひなたが読むとも思えない。普通であれば塞いでいたとしても声をかければ届くけれど、今のひなたにはその声が聞こえない。文字で書いた言葉は、ひなたが見ようとしなければ伝わる事はない。
僕はとりあえずしゃがみ込んで、ひなたと顔の位置を合わせてみる。
ひなたは微動だにせずに、ただ立てた膝の中に顔を埋めたまま、どこを見ようとはしなかった。
触れてみれば何か反応をするだろうか。でも昨日ひなたを傷つけたばかりだ。いまもこうして僕を拒絶しつづけているというのに、余計にひなたの心を閉ざしてしまうだけじゃないだろうか。
そう思うと僕はひなたに触れる事も出来なかった。何をしたらいいかもわからなかった。
ひなたは今も身動き一つしない。ただ息をしてわずかに胸を上下させている様子がなければ死んでしまったんじゃないかと思ったかもしれない。
でもひなたは生きている。確かにここにいる。僕の手の届く場所に。
触れる事は出来ない。言葉を伝える事も出来ない。だけど想いを届かせたいと思う。
だから僕は。なぜか歌い始めていた。
ベルを鳴らす。インターホンごしに応答があった。
『はい』
「あの、倉本ですけど」
『あ、ちょっとまってね。いま開けるから』
ひなたの母親はいつも通り特に変わらなかった。安心にして息を吐き出す。ここで『ひなちゃんが会いたくないって言っているから』とか言われて、追い返されたらどうしようかと思っていたけれど、どうやらそれは杞憂だったらしい。
玄関のドアが開いて、ひなたの母親が現れる。いつも物憂げな表情をしていたけれど、さらに疲れた顔をしているようにも思えた。
「倉本くんを待っていたんですよ」
ひなたの母親は僕の顔を認めるなりそう語りかけていた。
「僕を?」
「ええ。実は……ひなちゃん、少しいつもより塞いでしまっているみたいで。昨日は私にさえ会ってくれなくて。ひなちゃん倉本くんには気を許しているみたいだから、何か話してくれるんじゃないかって」
母親はどこかすがるような様子で僕を見つめていた。
おそらくは昨日の僕との会話が原因なのだろう。性急な想いがひなたを余計に追いつめてしまったのかもしれない。
「……わかりました」
僕はそう答えて頭を下げる。
僕が原因だというのにひなたの母親に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになるが、しかし余計な事は言わない方がいいと思った。
ひなたは母親にも何も話していないようだったけれど、沈んでしまった原因が僕にある事を知ったら、激怒するかもしれない。
僕のやろうとしていることは、本当は救いがないのかもしれない。
だけど僕はそれでもひなたを外に連れ出したいと思った。そのためには何でもしようと思う。だから何も言わなかった。
ここで余計な事を言ってしまえば、ひなたに会わせてもらえないかもしれない。だからずるいかもしれないけれど、僕は何も言わなかった。
ただまだひなたから完全に拒まれている訳ではないようなのは救いだった。もしもひなたが僕に会いたくないのであれば、母親に頼んで会えないようにしてもらえばいいだけだ。そうしないという事は、僕と会いたい気持ちがなくなった訳ではないとは思う。
母親に会釈してから二階へと登り、ひなたの部屋の扉をノックする。
ちりんちりんと鈴の音が響いていた。
最初は気がつかなかったけれど、この鈴は音を判断する為のものではなくて、揺れ動く事で誰かが来た事を判断する為のものなのだろう。
中から返事はなかった。気がつかなかったのかもしれない。もういちどドアを叩く。
やはり返答はない。気がついていないのか、あるいは無視しているのかはわからなかったけれど、このままここでつったっている訳にはいかない。
「ひな、開けるよ」
聞こえないとは分かっているけれど、ドアの向こう側に向けて話しかける。案の定返事はなかったけれど、気にせずにドアノブに手をかけた。抵抗もなく扉は開く。
鍵が掛かっていない事にほっとしながらも驚きは隠せない。昨日の事もあったし、鍵を掛けているかとも思った。
もちろん鍵が掛かっていない方が僕としては助かる。ドア越しでは、声の聞こえないひなたには何も伝える事も出来ない。
ただもしかしたらひなたも完全に外と遮断される事を恐れたのかもしれないとも思う。完全に外とのつながりを絶ってしまったら、ひなたは音のない世界に一人きりになってしまう。ひなたもそれは耐えきれないのかもしれない。
それはひなたを外に連れ出す望みが尽きたという訳ではない事も意味している。完全につながりを絶とうとしていないということは、ひなたも恐怖を覚えていても、それでも本当は外に行きたいのかもしれない。
「ひな」
ひなたの名前を呼んで、部屋の中を見渡してみる。
ベッドと洋服棚の間にある隙間に、ひなたは身体を埋めて座り込んでいる。立てた膝の中に顔を埋めて、じっと息すらも殺しているように思えた。
もちろんひなたは僕が呼んだ声も聞こえていないだろうから、返事なんてしない。それどころか僕がきたことにすら気がついていないかもしれない。
ひなたの前に立つ。
僕の身体でちょうど影になるから、ひなたもさすがに気がついただろうとは思う。しかしそれでもひなたは身動き一つしなかった。
どうしたらいいのかわからない。ひなたが塞いでいる事は予想の範囲だった。想像でいくつかの言葉を用意してみたりもした。
だけどこうしてひなたを目の前にしてみたら、その言葉のどれもが今掛けるべき言葉には思えなくて、何も言えなかった。いや書いて伝える事が出来なかった。
そもそもいまペンで手紙を書いたからって、塞いでしまっているひなたが読むとも思えない。普通であれば塞いでいたとしても声をかければ届くけれど、今のひなたにはその声が聞こえない。文字で書いた言葉は、ひなたが見ようとしなければ伝わる事はない。
僕はとりあえずしゃがみ込んで、ひなたと顔の位置を合わせてみる。
ひなたは微動だにせずに、ただ立てた膝の中に顔を埋めたまま、どこを見ようとはしなかった。
触れてみれば何か反応をするだろうか。でも昨日ひなたを傷つけたばかりだ。いまもこうして僕を拒絶しつづけているというのに、余計にひなたの心を閉ざしてしまうだけじゃないだろうか。
そう思うと僕はひなたに触れる事も出来なかった。何をしたらいいかもわからなかった。
ひなたは今も身動き一つしない。ただ息をしてわずかに胸を上下させている様子がなければ死んでしまったんじゃないかと思ったかもしれない。
でもひなたは生きている。確かにここにいる。僕の手の届く場所に。
触れる事は出来ない。言葉を伝える事も出来ない。だけど想いを届かせたいと思う。
だから僕は。なぜか歌い始めていた。