一人、歩いていた。
 何もないと言うのに、急に不安になって後ろを振り返る。そしてそこに何もない事に安堵の息をついて、もういちど前へと向き直る。
 後ろから突如自転車が僕の隣を通り過ぎていく。全く気がつかなかった。ほんの少しでも動いていたら、ぶつかってしまっていたかもしれない。
 僕は知らなかった。何もわかってはいなかった。音の無い世界が、どれだけ恐ろしくて不安を感じさせるものかなんて理解していなかった。
 水で濡らしたティッシュを耳の中に詰め込んでみた。完全に音を防ぐ事なんて出来はしない。それなのに少し音が途絶えただけで、今まで無意識に感じていたものがわからなくなっていた。
 後ろから誰かが近づいてくる気配も感じない。今も通り過ぎていった自転車に気がつけなかった。
 だから逆に背中にいもしない何かを感じてしまう。
 誰かが背中から迫ってきているんじゃないか。そいつは僕を狙っているんじゃないか。そんな事があるはずもないのに、不安に駆り立てられる。
 実際に危険も多い。車が近づいてきて、危険だとクラクションを鳴らしたとしてもそれに気がつけない。普通ならとっさに避けられたかもしれないことが、視界に入るまで反応する事ができない。
 自分だけがこの世界に取り残されていて、他の人は誰もいなくなってしまったかのような、そんな恐れが僕を満たした。こんなにも音の無い世界が恐ろしいだなんて思わなかった。でも僕の耳はまだ少しは音を聞き取る事ができる。細かな気配は感じられなかったけれど、それでも大きな音であれば十分に聞き取る事ができた。
 だけどひなたは聞こえない。どんなに激しい音も何も聞こえない。
 全くの無音の世界はどんな風に映るのだろう。こんなにも色鮮やかな世界が、まるで暗闇の中に一人でいるような、圧倒的な孤独を覚えるのではないだろうか。
 僕は何も知らなかった。僕は何もわかっちゃいなかった。
 ひなたの気持ちなんて理解してはいなかった。ひなたの恐怖も知らないのに、無理矢理ひなたを外に連れだそうとしていた。
 いまこうして少しばかり耳を塞いだだけで、不安に包まれているというのに、それ以上に感じているはずのひなたの恐怖を知ろうとはしていなかった。
 こんな詰めたものをとってしまえば取り戻せる不安なんて、ひなたが感じているはずの恐怖に比べればちっぽけなものだろう。そんな真似事をしたくらいで、僕にひなたの気持ちがわかるはずもない。
 無理矢理外に連れだそうとして、拒まれてひなたに嫌われたかもしれない。ティッシュの耳栓だなんて滑稽な真似事をして、ひなたの痛みを理解する事なんて出来なくて。
 僕は馬鹿だ。
 ひなたを傷つけたのだろう。美優の事も傷つけたというのに、それだけじゃ飽き足らなくてひなたまで傷つけた。僕は何をしているのだろう。
 うつむいて地面を見つめていた。自分の馬鹿さに打ちひしがれていた。
 同時にふと頭の中に何かがよぎる。
 暗闇の中で僕をじっと見つめていた。まるでその視線は蛇のようで、僕をまっすぐにとらえていた。
 少しずつその闇は晴れていく。誰かがそこにいた。そして僕を見ていた。
 いや見ていたのは僕ではなかった。ひなたを見ていた。そしてひなたを捕らえようとしていた。
 だめだ。やめてくれ。
 ひなたを――

「……きっ!」

 何かが聞こえたような気がする。だけど僕はろくに聞こうともせずに、ぼんやりとぬけがらのように道の真ん中を歩いていた。
 その瞬間。背中からぐっと強く引かれ、道路の脇の方へと寄せられていた。
 その少し後に車が通り過ぎていく。
 振り返ると、そこには祐人の姿があった。

「祐人……」

 僕は無意識のうちに彼の名前を呼ぶと、そのまま何かがあふれてきて、涙をこぼしていた。気がつくと声を漏らしながら、祐人にすがるようにして泣き始めていた。
 自分がこんなにも弱いだなんて、今まで知らなかった。
 今見ていたのは思い詰めた僕が見てしまった白昼夢だったのだろうか。それほどにも僕は思い詰めていたのだろうか。
 こうして目の前に少しでも力になってくれそうな相手が現れた事に、僕はため込んでいた感情があふれ出して止まらなかった。
 自分はなんて弱いのだろう。なんて馬鹿なんだろう。心の中で強く思う。
 そして助けてほしいと無意識のうちに口にしていた。
 少し時間が流れて、僕もやっと落ち着きを取り戻していた。祐人がいてくれた事に救われたと思う。
 今まで起きた事をすべて話すと、祐人は大きくうなづいて、それから彼の肩の上に置かれていた腹話術の人形へと視線を移す。

「リック、お前はどう思う」

 祐人はまるで生きている相棒に話しかけるかのように、人形へと語りかける。
 人形は少しの間、何かを考えているかのようなそぶりを見せると、それからゆっくりと言葉を紡ぎ始める。

『そうだな。友希くんのやろうとしている事自体は間違ってはいないだろう。だけどひなたくんの気持ちを考えず、性急過ぎたかもしれないな』

 リックと呼ばれた人形が少し渋めの声でゆっくりと答える。
 この人形が祐人の腹話術によるものだと言う事は彼自身からもきいているが、いつ見ても本当に話しているようにしか思えない。まるで人形が生きているかのようにすら思える。
 他の人が同じ事をしたのだとすると、もっと真面目に相談にのってほしいと怒りを覚えたかもしれない。だけど祐人の操るリックの言葉は、まるで祐人自身ではなくもっと経験を積んだ貫禄ある大人の言葉のようにも感じられた。
 だからリックの言葉は素直に納得する事ができた。同年代の祐人自身に言われるよりも、ずっと聞き入れる事が出来たとは思う。
 たぶんそれはただの気のせいなのだろうけれど、祐人は僕がそう感じる事を見越してリックに話させていたのだろうとは思う。ほとんど変わらないくらいの年だというのに、祐人は僕よりもずっと大人びて見える。だからこそ僕は彼にすがってしまったのだろう。

「僕はどうしたらいいんだろう」

 だけどこれからどうしたらいいのかはわからない。
 これ以上、ひなたを傷つけたくはなかった。それでもひなたに外に出てほしい事は変わりはない。ひなたにもっと外の世界を見つめてもらいたかった。
 祐人は僕の肩に手をおいて、口元に笑みを浮かべる。

「あの子の事が好きなら、自分の思う通りにしてみればいいさ。間違ってるか正しいかなんて誰にもわかりはしない。なら自分が良いと思う事をやってみればいいじゃないか。それに俺も君達がまた来てくれるのを待っているから」

 祐人は笑いながら僕に告げた。
 少しだけ、自分の中に力が戻ってくる気がする。

「ありがとう」

 僕はうなづいて頭を下げていた。
 僕がひなたの事を何も理解していなかった事には変わりない。
 だけどひなたを外に連れ出す事が出来るのも僕だけだと言う事も変わらない。
 ひなたの母親はどこか諦めてしまっているようだった。ひなた自身は他の人には会おうともしていない。
 今日は帰ってといっていたひなただけれども、それが本当に明日はきてもいいという意味なのかは僕は知らない。実際には今回の事で僕も拒まれてしまうかもしれなかったけれど、それでもいまひなたに笑顔でいてほしいと願う意志を持っているのは僕だけだ。
 僕はひなたと一緒に笑いたい。
 それだけを願っている。

「どんなに苦しく思えても、最後まであがいてみれば、未来が見える事もある。だから諦めるな」

 祐人の言葉に僕はもういちど決意を胸に秘める。
 僕の心の中に希望が戻ってきていた。
 もういちど、それで駄目なら何度でも、僕はひなたに微笑みかけたい。
 ひなたが外にいられるように。