ひなたの部屋に上がるのも三日目になる。少しは慣れた気もするが、それでも女の子の部屋にいるのは照れくさくもある。
部屋の中に二人きりというのが、健康な青春まっさかりの少年には、衛生上よろしくない。僕は周りと比べると淡泊な方だとは思うけれど、それでも何か考えずにはいられなかった。
もっとも昨日まではそんな事は考えもしなかった。ひなたの耳の事で頭がいっぱいだったからだ。少しは落ち着いてきたのだろうか。あるいはあえて意識する事で、僕は自分をごまかして忘れようとしているのだろうか。美優の事から。
「友希くん」
突然ひなたが僕の名前を呼ぶ。その声に胸が張り裂けそうになる。
「どうしたの。怖い顔してる」
ひなたは不思議そうに僕の顔をじっと見つめていた。
いつの間にか気持ちが表情に浮かんでしまっていたのだろうか。ひなたを励ますはずが、また逆に心配されて少し心が落ちる。
それでも僕にはやるべき事があるはずだった。余計な気持ちを振り払って、それからひなたへと視線を合わせた。
ひなたが照れたようにはにかんでいる。素直に可愛いと思う。
ただこれから告げようとしている事に、激しく胸が揺れる。
「ひな」
ゆっくりと彼女の名前を呼ぶ。
同時にひなたが少しだけ首をかしげて笑う。
「なぁに?」
僕が呼ぶと同時に答えた声に、思わず叫びだしていた。
「聞こえるの!?」
慌てて立ち上がって、ベッドに腰掛けるひなたのそばによっていく。
胸が躍るように苦しかった。
しかしひなたは、くすくすと笑みをこぼしながら、再び口を開いた。
「何いってたのかわかんないけど。だいたい想像はつくよ。聞こえてるのとかでしょ。違うよ。口の動きでなんとなく、私の名前を呼んだんだなって、わかっただけ。それくらいならなんとなくわかるから」
ひなたはベッドから立ち上がって、それからいつも通りノートを手にとると、僕へと手渡す。
ひなの答えに僕はあからさまに沈み込んでいたと思う。
やっぱりひなの耳は聞こえていない。そう簡単に聞こえるようになるはずもなかった。当たり前の話に、それでも僕は肩を落としていた。
でも本当はそれは当然の話ではなかった。ひなたはもともとはちゃんと聞こえるはずだったんだ。だけど原因はわからないけれど、耳が聞こえなくなった。
今までは普通に会話できていた。今は会話する事は出来ない。だけどまだ希望がある限りは、それを当たり前の事にしてはいけないんだ。
いや耳が聞こえない事自体は、もしかしたらもう戻らないのかもしれない。
でもひなたはこの部屋から出ようとしない。トイレとお風呂に入る時以外は、食事すらこの部屋で済ましている。
そのままでいいはずはなかった。
ひなたは僕の前では明るくふるまっているが、心の中にはまだ根強い傷が残っている。少なからず心を開いてくれているのは、僕だけだ。だから僕はひなたを救わなければならない。僕にしか出来ない。
だから僕は言わなければならなかった。
僕は意を決して、ノートへと書き込む。
『外へ行こう』
僕の書き込んだ一言はそれだけだ。
だけどひなたはそれをみたとたん、大きく弾けさせるように体を震わせていた。
「……いや」
強く目をつむって、僕から顔を背ける。
さっきまでの朗らかな笑顔はもう消えていた。今にも崩れだそうに見える。はっきりと何かを恐れるように、両腕でその身を抱え込んでいる。
こんなひなたは初めてみる。
どんなに泣いていても、ひなたはどこか元来の明るさを隠せないでいた。
ちょっといたずらで、いじわるで、だけど優しい笑みを浮かべている。
僕の中のひなたは、でもいまはここにはいなくて、儚く崩れ去りそうで震える迷子の仔猫のようだった。
今のひなたは本来のひなたじゃない。ひなたは傷ついて、再び傷がつく事を恐れている。
だけど今のままではいけない。いい訳がない。
僕がひなを、外に連れ出さなくてはいけない。それが僕に課せられた使命だと思った。たぶんそれは僕にしか出来ないから。
ひなが僕の事を必要としてくれるなら、僕も本当の意味で答えたい。
それは独りよがりの、勝手な願いだったのかもしれない。そもそもひなたは外に出る事を望んではいない。それでも僕は以前のように笑っていて欲しかった。
今のどこかに諦観を抱えた笑みではなくて、心から太陽のような笑顔をもう一度見せて欲しい。
せめてひなただけでも、笑わせてあげたかった。
美優には与える事が出来なかった。一緒にいるという約束を守れなかったから。
『君と一緒に行きたい』
僕はノートにそう書きつづる。
その瞬間。ひなたは立ち上がったかと思うと、あっという間に僕からノートを奪い取っていた。
「いやだ! 外になんかいったら、何が起きるかわからない!」
叫ぶと同時に、僕に向けてノートを投げつけていた。
あわてて顔の前に腕をあげると、ノートが当たって僕の前に落ちる。
ひなたは肩を怒らせながら、僕をはっきりとにらみつけていた。見た事もないつり上がった目が、怒りの色を隠せないでいる。
ひなたが本気で怒っているところを僕は始めてみたと思う。
ひなたはすぐに振り返って、ベッドの上から枕をつかむと、すぐにまた僕へと投げつけていた。
「いやだからっ。絶対、どこにもいかない。友希くんの馬鹿っ。友希くんは私の味方だと思っていたのに。なんでそんな事いうの」
ひなたはあらんかぎりの声で叫ぶと、僕から顔を逸らす。そのまま背中を向けて、僕の方を見ようとはしなかった。
僕はどうすればいいのか、迷いを隠せなかった。
強引に外に連れ出した方がいいのだろうか。いやそれはひなたを傷つけるだけだろう。
だけどこのままずっと家にこもっているのが、ひなたの為になるとは思えなかった。
――本当にそうだろうか。そこまで考えてから、もういちど振り返る。
外に連れ出したいと思うのは僕の勝手な思いだ。本当はひなたにとっては傷が癒える時まで、じっと部屋の中だけで過ごしている事が最良の選択なのかもしれない。
いま外に出られないとはいっても、この先も永久にそうだとは限らない。ひなたも落ち着けばいつかは外へと気持ちが向かうかもしれない。それなのにこうして外に連れ出すというのは、ひなたの心を余計にかたくなにさせているだけかもしれない。
そこまで考えてから大きく首を振るう。
違う。いやもしかしたら違わないかもしれないけれど、それでも僕は僕の出来る事をするべきだと思う。そのためには僕はひなたに外に出てもらいたい。
この部屋の中には音がない。聞こえてくるのはひなたと僕の吐息の音だけ。たまにひなたが喋って僕がノートに書き記す音。それだけの空間でひなたの耳が元に戻るとは思えなかった。
もしかするとひなたを外に出そうとすることは、ひなたに嫌われてしまう結果になるかもしれない。それは考えただけで僕の心をえぐるように苛み、僕は震えが止まらないほどに恐ろしく感じて、僕の心を空虚なものへと変える。
だけど僕の好きなひなにはこんな風に沈んだままでいて欲しくなかった。ひなたに笑っていて欲しかった。
ひなたはまだ全てを失った訳ではない。耳か再び聞こえるようになる可能性だってゼロではない。
だから僕は諦めない。ひなたに輝いていて欲しいから。
心の中で何度も繰り返し思う。ひなたに笑顔を取り戻して欲しかった。
だから僕はひなたにまだ言葉を伝えたい。僕の気持ちを伝えたい。だから僕は後ろからひなたの肩を抱きしめる。
でもその瞬間、ひなたは声を荒げて僕の手から逃れようとして体をひねって逃れようとしていた。
部屋の中に二人きりというのが、健康な青春まっさかりの少年には、衛生上よろしくない。僕は周りと比べると淡泊な方だとは思うけれど、それでも何か考えずにはいられなかった。
もっとも昨日まではそんな事は考えもしなかった。ひなたの耳の事で頭がいっぱいだったからだ。少しは落ち着いてきたのだろうか。あるいはあえて意識する事で、僕は自分をごまかして忘れようとしているのだろうか。美優の事から。
「友希くん」
突然ひなたが僕の名前を呼ぶ。その声に胸が張り裂けそうになる。
「どうしたの。怖い顔してる」
ひなたは不思議そうに僕の顔をじっと見つめていた。
いつの間にか気持ちが表情に浮かんでしまっていたのだろうか。ひなたを励ますはずが、また逆に心配されて少し心が落ちる。
それでも僕にはやるべき事があるはずだった。余計な気持ちを振り払って、それからひなたへと視線を合わせた。
ひなたが照れたようにはにかんでいる。素直に可愛いと思う。
ただこれから告げようとしている事に、激しく胸が揺れる。
「ひな」
ゆっくりと彼女の名前を呼ぶ。
同時にひなたが少しだけ首をかしげて笑う。
「なぁに?」
僕が呼ぶと同時に答えた声に、思わず叫びだしていた。
「聞こえるの!?」
慌てて立ち上がって、ベッドに腰掛けるひなたのそばによっていく。
胸が躍るように苦しかった。
しかしひなたは、くすくすと笑みをこぼしながら、再び口を開いた。
「何いってたのかわかんないけど。だいたい想像はつくよ。聞こえてるのとかでしょ。違うよ。口の動きでなんとなく、私の名前を呼んだんだなって、わかっただけ。それくらいならなんとなくわかるから」
ひなたはベッドから立ち上がって、それからいつも通りノートを手にとると、僕へと手渡す。
ひなの答えに僕はあからさまに沈み込んでいたと思う。
やっぱりひなの耳は聞こえていない。そう簡単に聞こえるようになるはずもなかった。当たり前の話に、それでも僕は肩を落としていた。
でも本当はそれは当然の話ではなかった。ひなたはもともとはちゃんと聞こえるはずだったんだ。だけど原因はわからないけれど、耳が聞こえなくなった。
今までは普通に会話できていた。今は会話する事は出来ない。だけどまだ希望がある限りは、それを当たり前の事にしてはいけないんだ。
いや耳が聞こえない事自体は、もしかしたらもう戻らないのかもしれない。
でもひなたはこの部屋から出ようとしない。トイレとお風呂に入る時以外は、食事すらこの部屋で済ましている。
そのままでいいはずはなかった。
ひなたは僕の前では明るくふるまっているが、心の中にはまだ根強い傷が残っている。少なからず心を開いてくれているのは、僕だけだ。だから僕はひなたを救わなければならない。僕にしか出来ない。
だから僕は言わなければならなかった。
僕は意を決して、ノートへと書き込む。
『外へ行こう』
僕の書き込んだ一言はそれだけだ。
だけどひなたはそれをみたとたん、大きく弾けさせるように体を震わせていた。
「……いや」
強く目をつむって、僕から顔を背ける。
さっきまでの朗らかな笑顔はもう消えていた。今にも崩れだそうに見える。はっきりと何かを恐れるように、両腕でその身を抱え込んでいる。
こんなひなたは初めてみる。
どんなに泣いていても、ひなたはどこか元来の明るさを隠せないでいた。
ちょっといたずらで、いじわるで、だけど優しい笑みを浮かべている。
僕の中のひなたは、でもいまはここにはいなくて、儚く崩れ去りそうで震える迷子の仔猫のようだった。
今のひなたは本来のひなたじゃない。ひなたは傷ついて、再び傷がつく事を恐れている。
だけど今のままではいけない。いい訳がない。
僕がひなを、外に連れ出さなくてはいけない。それが僕に課せられた使命だと思った。たぶんそれは僕にしか出来ないから。
ひなが僕の事を必要としてくれるなら、僕も本当の意味で答えたい。
それは独りよがりの、勝手な願いだったのかもしれない。そもそもひなたは外に出る事を望んではいない。それでも僕は以前のように笑っていて欲しかった。
今のどこかに諦観を抱えた笑みではなくて、心から太陽のような笑顔をもう一度見せて欲しい。
せめてひなただけでも、笑わせてあげたかった。
美優には与える事が出来なかった。一緒にいるという約束を守れなかったから。
『君と一緒に行きたい』
僕はノートにそう書きつづる。
その瞬間。ひなたは立ち上がったかと思うと、あっという間に僕からノートを奪い取っていた。
「いやだ! 外になんかいったら、何が起きるかわからない!」
叫ぶと同時に、僕に向けてノートを投げつけていた。
あわてて顔の前に腕をあげると、ノートが当たって僕の前に落ちる。
ひなたは肩を怒らせながら、僕をはっきりとにらみつけていた。見た事もないつり上がった目が、怒りの色を隠せないでいる。
ひなたが本気で怒っているところを僕は始めてみたと思う。
ひなたはすぐに振り返って、ベッドの上から枕をつかむと、すぐにまた僕へと投げつけていた。
「いやだからっ。絶対、どこにもいかない。友希くんの馬鹿っ。友希くんは私の味方だと思っていたのに。なんでそんな事いうの」
ひなたはあらんかぎりの声で叫ぶと、僕から顔を逸らす。そのまま背中を向けて、僕の方を見ようとはしなかった。
僕はどうすればいいのか、迷いを隠せなかった。
強引に外に連れ出した方がいいのだろうか。いやそれはひなたを傷つけるだけだろう。
だけどこのままずっと家にこもっているのが、ひなたの為になるとは思えなかった。
――本当にそうだろうか。そこまで考えてから、もういちど振り返る。
外に連れ出したいと思うのは僕の勝手な思いだ。本当はひなたにとっては傷が癒える時まで、じっと部屋の中だけで過ごしている事が最良の選択なのかもしれない。
いま外に出られないとはいっても、この先も永久にそうだとは限らない。ひなたも落ち着けばいつかは外へと気持ちが向かうかもしれない。それなのにこうして外に連れ出すというのは、ひなたの心を余計にかたくなにさせているだけかもしれない。
そこまで考えてから大きく首を振るう。
違う。いやもしかしたら違わないかもしれないけれど、それでも僕は僕の出来る事をするべきだと思う。そのためには僕はひなたに外に出てもらいたい。
この部屋の中には音がない。聞こえてくるのはひなたと僕の吐息の音だけ。たまにひなたが喋って僕がノートに書き記す音。それだけの空間でひなたの耳が元に戻るとは思えなかった。
もしかするとひなたを外に出そうとすることは、ひなたに嫌われてしまう結果になるかもしれない。それは考えただけで僕の心をえぐるように苛み、僕は震えが止まらないほどに恐ろしく感じて、僕の心を空虚なものへと変える。
だけど僕の好きなひなにはこんな風に沈んだままでいて欲しくなかった。ひなたに笑っていて欲しかった。
ひなたはまだ全てを失った訳ではない。耳か再び聞こえるようになる可能性だってゼロではない。
だから僕は諦めない。ひなたに輝いていて欲しいから。
心の中で何度も繰り返し思う。ひなたに笑顔を取り戻して欲しかった。
だから僕はひなたにまだ言葉を伝えたい。僕の気持ちを伝えたい。だから僕は後ろからひなたの肩を抱きしめる。
でもその瞬間、ひなたは声を荒げて僕の手から逃れようとして体をひねって逃れようとしていた。