次の日。僕はベッドから起きあがる事すら出来なかった。
 身体が重い。それ以上に心が重い。
 ベッドから這いずるようにして降りて、そのまま床に転がる。
 天井が見えた。他には何も目に入らない。
 いっそこのまま一日をすごそうかとも思うが、そうする訳にもいかなかった。
 僕には目的がある。その為に美優と別れたはずだった。ここで一人折れているなら、意味もなく傷つけただけだ。
 机の足にしがみつくようにして身体を起こす。吐き気がした。目の前がぐるぐると回る。まるで高熱に浮かされているようだったが、それでも本当に身体が悪い訳ではない事は、僕自身が良く知っていた。
 これは僕の弱さだ。
 美優を傷つけて、そして失った。少なくともこんな風に別れて、その後も平然と話せるほどには僕は厚顔でもない。おそらく僕はもう美優と普通に会話する事はできないだろう。
 だけど美優とは同じクラスだし、すぐ近所に住んでいる。永遠に会わずにいるという訳にもいかない。気まずい空気を覚えながら、用事がある時だけ簡単に会話する。そう変わるのだ。
 いつかはもういちど以前のように笑い会えるようになれたらとは思う。だけどそれが儚い希望に過ぎない事は、僕にだってわかっている。
 ひなたに会いたい。心からそう願う。だけど反面、ひなたと顔を合わせる事にも気がひけた。
 僕はひなたに何も告げていない。つきあっていた彼女がいたこと。そして別れたこと。
 言うべきか、言わざるべきか。
 誠実であるためには、本当の事を告げるべきなのだろう。だけどいまのひなたに余計な事を告げる事が良いことなのかはわからない。ただでさえ病気で苦しんでいるところに、僕の問題にまで巻き込んでいいのだろうか。わからない。
 僕は美優を傷つけた。だからせめてひなただけでも傷つけないようにしたい。でもそれは僕のずるさから生まれた気持ちなのかもしれない。このまま言わなければ、少なくともひなたとの間での問題はない。
 だけど隠していることは、正しいのだろうか。
 明確な答えがでないまま支度を済ませ、頭が回らないままひなたの家へと向かっていた。
 僕の家からひなたの家は少し距離がある。それでも歩いていける範囲だし、夏の空気を感じ取りながら僕は歩いた。
 激しいほどの照らす太陽が、じりじりと肌と僕の心まで焦がしていく。
 昨日まではこんな暑さも気にならなかった。ひなたを捜し歩いて、その事が他の全てを忘れさせていた。ひなたと出会えてからも、ひなたの病気の事で頭が満たされていた。
 だけど美優と別れたあとの方が、ひなた以外の事を考えさせていた。
 焦げ付くような強い日差しが僕へと襲いかかる。空に広がる巨大な白い雲が、僕をあざ笑うかのようにふくらんでいた。
 夏だという事をはっきりと思い出させる。夏のしめった空気は、僕の体から水分という水分を奪い取っていくかのようで、だらだらと滝のような汗がこぼれる。夏の空気は僕という存在を消してしまおうとすらしているのかもしれない。
 それでも僕は前に進んでいかなければならない。そうでなければ美優を傷つけてまでも、ひなたと一緒にいる事を選んだ意味がない。
 僕を何度も苛んできた失われた記憶。まだ全てを思い出せない。
 事故にあった。何の事故だったのだろう。空を飛んだ。僕はどうして空を飛んだなのだろう。
 事故にあって一部の記憶を失った。それはままあることかもしれない。だけどこうもはっきりとひなたと出会ったあとの記憶だけが失われていることは、誰かの意思が働いているかのようにすら思える。
 よくある物語なんかではあまりにも辛い出来事がおきたときに、その記憶を自ら封じてしまうなんて話はある。例えば僕もそうせざるを得ないほどに辛い何かが起きたのだろうか。
 それとも誰かが僕の頭の中をいじくって、記憶を消し去ってしまったのだろうか。
 でもそんなことは映画や漫画の世界だからこそあり得る事で、現実的にはあり得ないだろうとは思う。
 そうだとすればやはり辛い記憶を自ら封じてしまったのだろうか。それならば思い出した先には今よりももっと辛い何かが待っているのかもしれない。
 僕が最初は記憶を失った事に無頓着ですらあったのは、もしかするとそのせいなのだろうか。
 やっぱり僕の事故はひなたの自殺とも関連があるのだろう。そう考えるのが自然だと思う。
 単純に考えれば自殺をしようとしたひなたを止めようとして、一緒に海に落ちた。一番ありそうな話だ。でもそうするとひなたが自殺をしようとした理由がわからない。聴力を失った事で絶望して自殺を図るというのならまだわかる。でも仮に大会の結果が悪かったとしても、それでひなたの夢が絶たれるという訳でもない。それだけで自殺を図るというのも、どうにも納得がいかなかった。
 失った記憶を知りたい。
 ひなたの心を救うためにも、たぶんそれが必要なんだと思う。
 空を見上げる。
 変わらない青い空と大きな白い雲。まばゆいほどの陽光が、じりじりと僕の首筋を焼き付けてくる。それは僕の罪を示しつけるかのように思えた。
 遠くから波の音も響いてくる。防波堤の隣をただひたすら歩く。
 夏特有の焼けたコンクリートの匂い。けたたましく鳴く蝉の声。
 それは僕を責めるように打ち付けてくるけれど。
 それでもひなたと一緒にこの空の下を歩きたい。心からそう願った。
 日差しを少しでも避けながら歩く。
 ふと向こう側から見知った顔が歩いてくる。聖だ。

「友希さん。おはようございます」
「ああ、聖か。おはよう」

 気力はなかったけれど、なんとか聖に挨拶を返した。聖は少し不思議そうな顔をしながらも無邪気な声で僕に訊ねてくる。

「今日は美優さんと一緒じゃないんですか?」

 僕は何と答えていいものか言葉を失う。
 どうせいつかはわかることだけど、つきあいだしてすぐ別れただなんて言えない。当然どうしてか訊かれるだろうし、いまそのやりとりはしたくなかった。

「まぁ……」

 曖昧な言葉を返す。
 聖は少しだけ眉を寄せるとため息をもらす。

「友希さん。また何か思い出しましたか」
「え?」
「まぁ、いいです。でも美優さんを傷つけないようにしてくださいね」

 聖は大きく首をふるって「じゃあ、さようなら」と告げて、そのまま歩き去って行く。
 もしかして聖は何か感づいているんだろうか。
 でももう遅い。美優とは別れてしまった。取り返しはつかない。
 僕は胸の奥に痛みを感じながら、僕はひなたの家へと急ぐ。