「遅い」

 言いながら笑う。それから背を向けて、ゆっくりと歩き出す。

「美優?」
「話があるんでしょ。だったら聞くから。いつもの場所にいこう。そこで聞く」

 怒っているのか、それとも泣いているのか。僕にはわからなかった。
 美優は背を向けて僕に顔を見せようとしなかったから。僕はただ後ろについて歩いた。
 しばらく歩いていつもの場所に辿り着く。
 海辺の公園。いつも大事な話をする時は、僕たちはここに来ていた。
 夏の海とはいっても、ここにはほとんど人はこない。今日は誰もいないようだった。ただ波の音だけが何度も繰り返して伝う。

「で、話って何?」

 美優は振り返り、まだ微笑みを浮かべたまま訊ねる。
 でも何かを感じているのか、どこか不安そうに少し視線が揺れ動く。
 夏なのに風が冷たかった。海風のせいだろうか。それともこれから告げなければならない事を思う、僕の心のせいだろうか。

「美優、僕は」

 美優の名前を呼んで、でもそこまでで声を失う。何を告げればいいのか、何と告げればいいのか、何をどう告げたとしても美優を傷つける。それはわかってはいたけれど、そのことにためらいを覚えずにはいられなかった。
 美優の事は好きだ。大切に思っている。それは嘘ではないけれど、僕の心を占めているのはひなたへの焦がれるような想いだ。その想いを抱えたまま、美優とつきあい続ける訳にはいかなかった。
 大切な人を傷つける事がわかっているけれど、でも言わないままでいれば余計に傷を残す。ひなたの事を忘れられない以上は僕は告げなくてはならない。
 僕は絞り出すようにして、美優へと話し始める。

「ごめん。僕には、好きな人がいたんだ」

 まっすぐに告げよう。本当の事を言おう。せめて美優にはごまかすこともなく、ただ真実を告げよう。そう思う。

「そう」

 だけど美優は僕の告白にも、冷静なままつぶやくようにうなづいただけだった。
 美優の表情は変わらずに微笑みを浮かべている。変わらないように思えた。

「思い出したんだ」

 美優は静かな声で独白すると、ほんの少しだけ顔をうつむけていた。

「あの子のこと。思い出したんだ」

 美優はもういちどつぶやいて、それから僕の方へと向き直る。
 波の音が響く。僕の美優の二人を飲み込むかのように、ただ寄せては消える。

「ああ。思い出した」

 僕はうなづく事しか出来なかった。
 すぐ目の前にいるはずなのに、美優が遠い。どこか霞の中にいるかのようにすら思えた。

「それで、友希はどうしたいのかな? 私は、友希の彼女なんだよ?」

 美優は僕を責めるかのように少し強い声で訊ねる。
 でもその顔は、怒りというよりも、今にも壊れそうなほど儚くて。触れたら壊れてしまうガラス細工のようにすら思えた。
 ここから先を告げたら壊れてしまう。傷つけてしまう。そう思うと言葉が喉からでてこない。
 だけど言わない訳にもいかない。
 僕が告げるのを美優は待っていた。ただ沈黙を保って、僕の答えを待ち続ける。
 美優は僕をまっすぐに見つめていた。いや見つめていたかと思えば、また視線を逸らす。落ち着かない様子で、いったりきたりしていた。
 やがて待ちきれなくなったのか、僕へと背を向ける。ただ波の音だけがこの場を包み込んでいた。

「僕は」

 なんとかそこまで絞り出したが、続くはずの言葉が生まれてこない。
 もしこの先を告げてしまったとき、美優はどう思うのだろうか。怒るだろうか、泣くのだろうか。
 美優が涙を漏らしたところなんて、長いつき合いだけど、数えられるくらいにしか見たことがない。美優は強い女性だ。そう簡単に涙したりはしない。
 それでも僕の言葉は、美優をそれだけ傷つけるだろうか。いつものように激しく僕を殴り飛ばすだろうか。
 言わない訳にはいかない。例え美優を傷つけようとも、美優には嘘をつきたくなかった。
 僕はひなたと共にありたい。だから美優と別れなくてはいけない。
 告白を受け入れておいて、自分勝手な事を言ってるとは思う。あの時感じたわずかなためらい。あれは忘れていたけれど、ひなたの事がどこかで心にひっかかっていたのだろう。
 今はまだ僕は美優の彼氏だ。だから僕はひどい事をしている。どれだけ責められても仕方が無い事をしてしまった。だけどひなたへの想いをごまかすことは出来なかった。
 なぜ人を好きになるのだろう。
 美優の事も好きなはずなのに、どうしてひなたじゃなければ駄目なのだろうか。
 探し求めなければ、ひなたの事は思い出さなかった。そうすれば美優と一緒にいられた。美優を傷つける事はなかった。
 それでもひなたを求めたのは、なぜなんだろう。どうしてそんなにもひなたに焦がれていたのだろう。僕は答えも出せないまま、何も言えずに沈黙を続けていた。
 けれどやっぱり告げなければならない。いつまでもこうしている訳にいかなかった。

「僕は、あの子と一緒にいたい。だから」

 震えていた。絞り出した言葉が苦しくて、ただうっすらと目の端が濡れていた。
 傷ついているのは僕ではないはずなのに、どうしてこんなに悲しく感じるのだろう。
 続く台詞を告げれば、美優を失ってしまうのだろう。ずっと一緒にいた大切な家族のような彼女を、僕は手放してしまう。
 失いたくなかった。美優と一緒にいたい。彼女を手放すのは嫌だ。浮かんでくる身勝手な感情を、僕は何とか振り払う。
 それはもう出来ない。それはしてはいけない。
 大切な人だからこそ、告げなければならない。
 だから僕は美優とのつながりを離した。

「もう美優とつきあう事は、出来ない」

 言葉にしてしまった。
 気持ちを形にしてしまった。
 もう後には戻れない。今まで積み上げた形は、全て崩れ始めていた。
 失ったものの大きさに僕はうちひしがれる。でも今はまだ崩れてしまう訳にはいかない。美優の答えを待ち続ける。