僕は夜の町を歩いていた。気がつくとかなり遅い時間になっていた。
 何時だろう。そう思って携帯電話を取り出す。しかし画面には何も映し出されていない。電池がきれたかなと思って首をかしげるが、すぐに電源を落とした事を思い出していた。
 ひとまず携帯の電源をいれてみる。
 そして同時にあのとき届いたメッセージが何だったのだろうと思い返していた。
 鳴り響いたメロディに気持ちが揺さぶられて、思わず電源を落としてしまっていた。だけど滅多に届かない僕のスマホ宛てにメッセージが届いていたのだから、考えてみれば重要な事だったのかもしれない。
 ライムにメッセージが届いていた。
 十三件。ディスプレイにはそう映し出されている。
 普段であればまずあり得ない件数に、驚いて慌ててアプリを開く。
 メッセージはすべて美優からのものだった。

『友希、遅い。遅刻。減点二』
『いま、どこにいるの? 今日は友希のおごりだからね』
『電話したけどつながんないよ。何やってるの? もしかして忘れてる?』
『友希。もう約束の時間から二時間になるよ。何かあった? 連絡欲しい』
『どうして何も連絡くれないの。電話もつながらないよ』
『私、今日はもう帰るから』
『いま家についたよ。友希、忘れてるの? 事故とかじゃないならいいけど』
『もう夕方だよ。心配してるから。はやく連絡して』
『電話もつながらないよ。友希の家にかけても、友希はいない。どこにいるの。わからないよ』
『聖にも連絡してみた。でも、知らないって。ねぇ、友希。どこにいるの?』
『早く連絡してほしい。ねぇ、事故にあっている訳じゃないよね』
『ねぇ友希どうしたの。何があったの。今までこんなことなかったのに』
『友希。私は、友希が好きだから。どこにもいかないで』

 美優からのメッセージ。
 やっと思い出していた。今日は海に行く約束だったんだ。完全に忘れていた。ひなたに会えた事で、そしてひなたが音を失っていたことで、僕は何も見えなくなっていた。その事だけで心の中がいっぱいになっていた。
 胸が締め付けられそうになる。
 思い出した記憶に僕は翻弄されていたのだろう。ひなたを好きでいた記憶を取り戻して、自分の気持ちが迷子になっていたかもしれない。僕はいまこの場にいるのか、失った記憶の時間に紛れているのか、正直わからなくなっていた。
 だからといって事実が変わる訳じゃない。僕は今更ながら自分がしでかしてしまった罪に、胸の奥にナイフを突き刺されたようにすら思う。
 今の僕は美優の彼氏で、今日は美優との約束があったんだ。
 だけど僕は忘れていた。そして僕は美優を裏切った。
 ひなたの側にいたかった。ひなたを必要としていた。ひなたも必要としてくれていた。僕を求めていた。
 でもそんなことは美優も同じだった。美優は僕を必要としてくれていた。僕は美優を大切な人だと思っていた。
 僕にとって美優は、幼なじみで、ずっとずっと一緒に過ごしてきた相手で。兄妹か、あるいは姉弟みたいに暮らしてきた。美優と一緒にいる時間は大変だけれど楽しくて、美優をひとりぼっちにしないと、一緒にいると約束をしたはずなのに。
 あの時の気持ちは嘘じゃない。だけど僕は思い出してしまった。
 ひなたへの気持ちを。ひなたが好きだということを。
 頭がいっぱいになって、もう一人の大切な人のことを裏切ってしまった。
 自分の情けなさに吐き気すらこみ上げてくる。
 ひなたの事を思い出さなければ、たぶん僕は美優を離さなかった。美優とずっと一緒に過ごしていただろう。
 でももう思い出してしまった。
 ならこれ以上、美優と一緒にいる訳にはいかない。
 ひどい事をしている。ずるい事をしている。僕は何一つ筋を通していなくて、大切な人の事を傷つけてしまった。
 僕は美優の彼氏なのだから、ひなたの気持ちを受け入れてはいけなかった。
 だけど僕には出来なかった。
 もうどうやっても大切な人を裏切って、傷つける。
 一緒にいると誓った。美優をひとりぼっちにしたくなかった。だけどこの気持ちを残したまま美優とつきあい続ける訳にはいかなかった。
 無意識のうちとはいえ、僕は選んでしまったんだ。大切な二人を天秤にかけて。
 自分のしでかした事に吐き気すら覚える。
 ずっと一緒にいるといった気持ちは嘘ではなかった。なかったはずなのに、僕はもうそれを守れない。
 これで僕は美優を失う事になるだろう。彼女を傷つけてしまうことになるだろう。
 だけど美優を大切に思うからこそ、嘘をつくことは出来なかった。
 携帯を持つ手に力がこもる。
 まずはアプリで返事を打つべきだろうか。
 怖かった。手が震えて、喉の奧が渇く。自分の馬鹿さ加減に消えてしまいたくなる。
 それでも僕は何とか心を鎮めながら、短いメッセージを返信していた。

『ごめん。美優に会って話したいことがある。ライムや電話じゃいえない。どこかで時間を作って欲しい』

 僕はそうメッセージを送って、携帯をしまう。
 喉から胃の中のものを全て吐き出しそうになる。
 でも辛いのは僕じゃない。僕はただ傷つけているだけだ。
 美優も、ひなたも。忘れていた記憶が、僕を苛んでいて、それが二人を傷つけている。
 どうしてもっと早く思い出そうとしなかったのだろう。記憶さえなくさずにいれば、二人とも傷つけずに済んだのに。
 せめてこんな形での別れを切り出さなくてもすんだはずなのに。
 同時に僕はあの時の事を思い出していた。いまさら取り戻さなくてもいい記憶なのに、美優へと答えた記憶が戻ってくる。
 あれはひなたと迷子の約束をした夜のことだった。美優が一人で僕の家の前で待っていた。そして美優は僕に父親との話を告げて、一緒にいて欲しいと僕に願った。
 胸が締め付けられた。美優を抱きしめたかった。一緒にいると抱きしめてあげたかった。
 でもあの時の僕には出来なかった。
 ひなたの事が好きだったから。だから「はい」と答えられなかった。
 想いを返す事は出来なかったんだ。

『僕はひなたのことが好きだから。今まで通り幼なじみでしかいれない』

 あのとき僕はそう答えた。
 僕は美優の事が好きだ。けどそれは家族に対して抱く気持ちに近くて、それでも美優は一人の女の子としても魅力的で。
 僕はその中でずっと揺れていたんだ。
 もしもひなたと出会う前だったなら、僕は美優の気持ちに応えていただろう。そして意識していった気持ちは、たぶんいつしか本当に恋愛感情へと昇華していたのかもしれない。
 けど僕は出会ってしまっていた。
 出会った少女は、僕の心の中に深く深く刻み込まれていた。
 美優の事を恋人としては、もう見られなかった。
 あの時は応えなかった。美優の手をとらなかった。とれなかった。
 あの時の悲しそうな美優の表情が思い起こされて、僕はもういちど吐きそうになる。
 それでも手をとらなかったからこそ、まだ美優と過ごす時間が消えなかったのかもしれない。
 けど今は違う。
 記憶を失っていたせいかもしれない。それでも一度は手をとってしまったのだ。
 手の中にいれて、その上で離す。
 それでも今までと同じようにいられるとは思えなかった。
 僕は美優を裏切ったのだから。
 家路をゆっくりと歩く。歩き慣れた道が、今日はどこか遠かった。
 それでもやがては家が遠目に見えてくる。
 そしてその前に一人立っている少女の姿も。
 暗闇の中、街灯に照らされて、ほんの少しだけ姿を見せていた。
 美優の、姿だった。