「つめたーい。あまーい。おいしー」

 美優はチョコパフェを口に運びながら、そのたびにいちいち嬉しそうに声を上げていた。

 好物を食べている時は、ちょっと子供っぽくなる。でも美優のそんなところも嫌いじゃなかったし、素直に喜んでもらえると奢った甲斐もあるとは思う。

 いまこの笑顔を僕は独り占めしている訳で、それをうらやましいと思う男達も少なくはないだろう。そう思うと少しばかり優越感を覚えないでもない。こんなに可愛い子が正面に座っていて、僕にだけ見せる表情を浮かべている。確かにそれは得がたい体験なのかもしれない。

 もっとも財布はかなり痛かったけど。やっぱり今度は断ろう、と心の中で強く決意すると、僕は右手を強く握りしめる。今までも何度となく同じように誓ってきて、そしてその誓いが守られた事は今まで一度たりともなかったのだけど。

「そういえば友希は食べないの?」

 今更ながら美優が首をかしげて僕にたずねる。

 美優の前に鎮座するチョコパフェが一つテーブルの上にあるだけで、他には何も頼んでいない。飲み物すらもオーダーしていない。つまり僕の前にはキンキンに冷えた水の入ったコップが一つあるだけだ。正直心が寒い。

 ここキタミ亭には小さな頃から何度もきているから、店長ともすっかり顔見知りで、オーダーが一つだけでも気にはしないでは済む。ただいつもの風景として見守るかのような生暖かい視線を向けられていたのは、別の意味で心が痛んだ。

「今日は財布の中に七百八十五円しか入ってないし。お金ないんだ。誰かさんのせいで」

 美優のパフェ代を払えばほぼゼロである。まぁ今現在の持ち合わせがないだけで、まだもう少し小遣いには余裕があるけれど、そこは美優には言わないでおく。

「そっか。じゃあ美味しいから食べさせてあげる。ほら、あーん」

 美優は僕の嫌味も通じていないのか、まるで気にした様子はなくチョコパフェを一部救ったスプーンを僕の前に差し出してくる。
 まぁたぶん僕が嫌味をいった事は理解しつつも、気にしていないのだろう。美優はそういう奴だ。

「よせって、子供じゃないんだからさ」

 言いながらも少し照れくさくなって顔を背けようとした瞬間。美優はすでにスプーンを自分の口の中に運んでいた。

「って、差し出しといて自分で食べる訳!?」

「だって、こんなに美味しいから友希に上げるのは勿体ないな、と思い直したし。実は友希はチョコパフェ嫌いだった事にしたし」

「って、勝手に僕の好みまで変えるなよ!」

 事もなげに言い放つ美優に思わずつっこみをいれながらため息をこぼす。毎回のことながら美優の気まぐれには振り回される。

 差し出した瞬間までは本当に僕に食べさせるつもりだったのだろうけれど、その後に惜しくなったのだろう。美優は案外思ったままのことを口にしている。ただそれだけに時折他の人とトラブルとなる事もあった。

 それでも彼女の事を放っておけない気持ちになるのは、僕と美優が長いつきあいだからなのだろうか。

「なに、食べたかった訳? でもあげないよ。食べたかったら自分のお金で注文して」

「いや、それそのまま美優に返す」

「まぁ、それはおいといて。あのさ」

 勝手においとくなよ、と内心思いながらも美優の次の言葉を待つ。
 自分の都合で話をぽんぽん変えてくるのも彼女の特徴だ。もっとも美優だけに限った事ではないのかもしれないけれど。

「ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いい?」

 ただ続いた言葉は美優にしては珍しく歯切れの悪い言い方だった。少し首をかしげてみる。
 いつもの美優であればこんな聴き方はせずに、ずばりそのものを訊ねてくるのが普通だ。こんな風に遠慮がちに質問をするなんていうのは、彼女らしくない物の言い回しだ。よほど聞きにくい質問なのかもしれない。

「いいけど、なに?」

「もう怪我はさ、いいの?」

 だけど美優が訊ねてきた質問は予想に反して大した質問ではなかった。
 ほぼ毎日顔を会わせているし、僕が事故にあったのは三月で、いまは七月なのだからすでに四ヶ月以上経っている。体育も参加しているし、怪我の影響なんてない事は彼女も知っているはずだ。

 どうしてそんなことを訊くのかと、思わず美優の顔を見つめていた。
 でも美優はどこか困惑したような表情を浮かべて、まるで何かを恐れているようにすら思えた。

「ん。まぁ、もうすっかりいいよ。事故からもけっこう時間もたってるしね」

 たまに傷が痛む事はある。だけどそれは雨の日に古傷が痛む程度のことで、日常には何の影響もない。美優がそれを知らないはずもないのに、どうしてそんなことをきくのだろう。

 僕の困惑に気づいてか、美優は一瞬僕から目をそらす。それでもすぐに向き直って、探るようにして問いかけてきていた。

「じゃあさ、記憶は? まだ戻らないの?」

 少し伏せがちにした顔を、それでも僕へと向けていた。
 おそらく本当に知りたかったのは、こちらの方なのだろう。僕は失った記憶の事については話したがらない。いや正確には何を話せばいいのかがわからないから、戸惑ってしまうというのが正しいが。

 正直なところ僕自身に記憶を無くしたという実感はない。考えてみればいくらかの記憶が抜けているという事に過ぎないのだから、答えられないのだ。だからあまり記憶の話をするのは好きではなかったし、そんな空気を美優自身も感じ取っているのだろう。

「そうだね。あまり思い出してないけど、別にどうしても思い出さなきゃいけない事もないだろ」

 思わずぶっきらぼうに答えてしまう。少し突き放すような言い方になってしまうのは、もしかしたら何度となく訊ねられる事に辟易としていたのかもしれない。

「ホントにホント? ぜんぜん思い出してないの?」

 それでも美優は繰り返し訊ね返してくる。よほど僕の記憶が気になるのだろうか。
 美優にとって思い出して欲しい記憶があるのだろうか。それとも思い出してほしくないのだろうか。でも僕にとっては無くしてしまった記憶よりも、これから先の事を考えていたいとは思う。

「そうだね。くだらない事は思い出したけどね。(ひじり)の奴がバナナの皮踏んで転んだとか」

 仕方がないのでほんの少しだけ思い出した記憶について話してみる。いつ思い出したのかも覚えていないけれど、これは失っていた三十六日の間の出来事のはずだ。

「あーっ! あれは面白かった。大爆笑だった。あんな漫画みたいな事する人がいるなんて、思わなかったし」

 美優が口元を抑えながらも、よほど面白かったのか声を漏らしながら笑みを浮かべていた。口調だけきくとかなり賑やかなのだけれど、それなのに振る舞いは上品に見えるのが美優の不思議なところだ。それだけ整った容姿をしているということなのかもしれない。

 だけど次の瞬間、彼女の笑い声をかき消すようにぶっきらぼうな男の声が漏れる。

「悪かったですね。漫画みたいな奴で」

 美優の背後のテーブルから、その声は響いた。
 男性としてはやや長めの髪に、どこか優しそうにも見える人懐こそうな風貌。丸い眼鏡がいくらか印象を知的に見せる。
 僕達はその声の主をはっきりと知っている。それどころか噂をしていた当人でもある。彼こそがバナナの皮で滑った当人の聖だ。

「あ、聖。いつから湧いてでた?」

 美優は爽やかな声で辛辣な言葉を漏らす。いつもの事ではあるけれど、相変わらず美優は聖に対して容赦が無い。

「いや、湧いてでたって、俺、ぼうふらですか? それともうじ虫ですか?」

「ううん。そんなこといったらぼうふらやうじ虫が可哀想」

 淡々とした口調で、でも満面の笑顔を浮かべながら美優は聖へと言い放つ。

「それ以下ですか!? ぼうふらに失礼ですか!? ひどい、あんまりです。俺、湧いてでたくはありません。どうせ湧いてでるなら、美優さんの胸が湧けばよかったのに」

 聖が皆まで言うのが早いか、激しい音が彼の頭頂部から響く。見ると美優の拳が強く握りしめられていた。たぶん僕が気がつくよりも早く聖を殴ったのだろう。口よりも先に手が出るのは美優の性質でもある。

「こんど言ったら殴る」

「いまもう殴ったじゃないですか!? ひどいです。あんまりです。俺、泣きそうです」

「勝手に泣けば。いや、あんた泣くとうるさいから私のいないところで泣いて」

「うう。ひどい扱われようです」

 聖は頭を抑えながらも、ちゃっかりと席を移って美優の隣へと腰掛けていた。

 美優と聖のこんなやりとりはいつもと変わらない日常の風景だった。聖が一方的に寄ってきて余計な事を口走っては、美優が殴る。もちろん美優にしても本気で殴り飛ばしている訳ではないだろうし、聖はあまり殴られた事を気にもしていないようだ。いやむしろ自分から殴られにいっているんじゃないだろうかとすら思う。

「で、いつからいた訳?」

「今日は最初からここにいました。たまたま美優さんの姿が見えたので、隣に移りました。話しかけるチャンスを探していたのですが、俺の話題がでたので、ちょうどよかったです」

 聖はまるでじゃれつく子犬のような笑顔をうかべて、美優へと視線を送っていた。
 話題は確かにでたけれど、笑いものにされていたのはいいのだろうかとは思うものの、本人が気にしていない様子なので僕はあえて口をつぐんでおこう思う。