次の日。僕は朝からひなたの家に向かっていた。
ひなたは快く僕を迎えてくれるが、やっぱり部屋から出ようとはしなかった。
ただ無理に外に出そうとは思わない。無理矢理ひきずり出しても同じ事だ。ひなた自身がそうしたいと思わない限り、いい結果になるとは思えなかった。
あれから僕は突発性難聴という病気についても調べてみていた。
やはり理由もわからずに耳が聞こえなくなる現象を突発性難聴というらしい。ただ数ある耳が聞こえなくなる病気の中でも、再び聞こえるようになる可能性がある病気だということもわかった。
ただし可能性があるのは、聞こえなくなってから一月くらいの間のこと。それを越すとほぼ希望はなくなるとの事だった。
すでに事故から四ヶ月以上過ぎていた。可能性はほぼないのかもしれない。
それでも確率はゼロじゃない。ゼロじゃない以上、希望はある。
どうすればいいのかは、わからなかった。そこまでは辿り着いていない。そもそも僕にわかるくらいなら、医者が何とかしているだろう。実際には絶望的だという事を突きつけられたに等しい。
それでも諦めたくはなかった。何かきっと届く方法があると信じたかった。
ひなたの部屋にきているけれど、あまり話はしていない。ひなたの耳は聞こえないし、僕もひなたも手話なんてわからない。ひなたはまだ口で話せるけれど、僕が伝えるためにはどうしても筆談になる。書いて読んでもらって会話をするだけでもかなり大変な事もわかった。
「無理に話さなくてもいいよ。隣にいてくれたらいいから」
ひなたはそう言って笑っていたけれど、僕は少しでも話をしたいと思った。
ノートにかいて、同じ事を言葉で告げて。少しでもひなたが聞こえるようにならないかと試してみる。
それでも僕に出来る事はそれ以外にはなかったから、ただただ話しかけ続けた。
だけどひなたはあまり答えてはくれなかったから、会話らしい会話も出来てはいなかった。
不意に僕の携帯電話がメロディをならす。おそらく何かメッセージが届いたのだろう。
どこかで聴いた柔らかいメロディ。それが僕の耳を揺らしていく。
ひなたには聞こえなかっただろう。僕にだけ聞こえたメロディ。気がつくと涙をこぼしていた。
どうして僕は泣いているのか、僕自身にもわからなかった。何が悲しいのか、何が辛いのか、僕にはわからなかったけれど、ただ涙が溢れて仕方なかった。
「友希くん。どうしたの。どうして泣いてるの?」
ひなたは驚いた様子で、おろおろと僕の方を見つめていた。
ひなたが設定したメロディ。それは僕とひなたを結んでいた。でもいまは僕にしか届かない。その事が僕の悲しさを生んだのかもしれない。だけどこの時ははっきりとした理由なんてわからなくて、ただ何もわからずに涙をこぼし続けた。
僕の中に生まれた悲しさは、それがさらに僕を責め立てた。辛いのは僕じゃないのに。本当に辛いのはひなただというのに、僕はひなたとの想い出を甦らせては、涙をこぼしていた。
「スマホ?」
ひなたはランプが点滅しているのに気がついたのだろう。僕のスマホへと視線を送っていた。
僕は軽くうなづいて、スマホが奏でるメロディを止める。そしてそのまま電源を落として、もういちどポケットの中にしまい込んだ。
今はこのメロディがただ僕を責め立てて、この音をきいているだけで悲しさを増していたから。
「そっか。私は友達からのメッセージが辛くて、だからライムもアカウント消しちゃった。スマホもほとんど壊れていたから解約しちゃったよ」
ひなたは寂しそうに笑うと、少し外を見上げる。だけどそれも一瞬のことで、すぐにまた微笑んで、それから僕の肩を優しく抱き寄せる。
「もう、友希くん。なかないで。ほら笑って」
ひなたの声はとても穏やかで、その声を聴いていると、流していた涙も少しずつおさまり始めていた。
僕は何をしているのだろう。ひなたを励ますつもりでここにいるというのに、逆に慰められていた。自分の情けなさに再び涙がこぼれそうになる。
だけどこれ以上情けないところは見せられない。何とかこらえると、それからひなたの手をとった。
ありがとう。
てのひらの上を指先でなぞって、それからもう少しだけ付け足していた。
すきだ。
まだ伝えていなかった言葉。声には出せなかったし、ノートには書けなかった。だけどこうしてなら伝えられた。
ひなたは書いた文字がわかったのか、それともわからなかったのか。ただ笑顔のままで僕を見守るように見つめていた。
もとより答えをもらおうとは思ってはいない。気持ちが伝わったかどうかも今は気にならなかった。
ただ失っていた記憶を思い出して、僕の心の中に満ちていたから。事故が起きなければ、きっと伝えていたはずの気持ち。ただ僕はそれを思い出して、思わずひなたへと伝えずにはいられなかった。
ただ僕はひなたを元気づけたい。その為の意志表明のようなものだから、ひなたが僕の事をどう思っていたとしても、許される限り僕はひなたの側にいようと思う。
ひなたは急に立ち上がると、机の引き出しを開ける。そこから何かを取り出して、僕の掌の中に差し出していた。
手の中にあったのは、小さな猫のキーホルダー。かなり薄汚れていて、あちこちがこすれて傷ついていた。
このキーホルダーには見覚えがある。どこで見たはずだ。
失われている記憶の中で、確かに見た。しかし思い出せない。もうのど元まで浮かんでいるのに、最後の一つが出てこなかった。
「覚えてないかな」
「ごめん……」
ひなたの言葉に僕はうつむいてつぶやく。
もっともひなたには聞こえないだろうけど、僕は言わずにはいられなかった。
ひなたのノートを再び借りる。
『僕はひなたと出会ってから三月六日までの記憶を失っていたんだ』
覗き込んでいたひなたが、驚いて声を漏らす。完全に想定外の言葉だったのだろう。僕の顔とノートを交互に見つめる。
僕は事故の後に、一時的に三十六日間の記憶を無くしてしまったこと。その中でひなたのことも忘れてしまっていたこと。
しかし携帯電話のメロディをきいて、ひなたのことを思い出したこと。メッセージも携帯もつながらなくて、だからひなたを探し歩いたこと。
そしてこの家を見つけたこと。
一つずつゆっくりと。
その間、ひなたは何もいわなかった。ただ僕が書き終えるのをずっと待っていた。
そして全てを説明し終わったあと、ひなたは「そっか」とうなづいて、それからどこか困ったようなためらうような顔を見せて立ち上がる。
部屋の中をいったりきたりして落ち着かない様子だったけれど、少しして意を決したかのように、僕の目の前に立つ。
「友希くん。よく聴いていてね」
ひなたは少し思い詰めたような顔をしながら、それでも何か意を決したようにうなづくと、それから大きく息を吸い込んでは吐き出していた。
胸の前で両手をぐっと握りしめて、それからもういちど大きく深呼吸する。
ひなたが童謡の犬のおまわりさんを歌い始めていた。
いつもと、いや記憶の中のひなたと同じように。
再び出会ってからは、あれだけ好きだった歌を一度も歌わなかった。それまではひなたの歌を聴かない日は無かったというのに、ひなたは歌を歌わなかった。
それはきっと夢がくじけていたからだろう。
でも本当はまだひなたは歌を失った訳じゃない。聞こえなくても話せるのだから、歌はまだひなたのものだ。
それでもひなたは歌わなかった。歌えなかったのだろう。
もしも歌おうとして歌えなかったとき、全てを無くしてしまうから。ひなたはきっとそれを恐れていたんだ。
だけどいま、ひなたは大きな声で歌い始めていた。
たぶん恐れていただろう。たぶん迷っていただろう。
だけどいま歌い始めていた。恐らくは、僕の為に。
ひなたは迷子になった仔猫のことを歌いながら、猫のキーホルダーを僕へと向けた。
それからもう一つ、犬のキーホルダーを取り出してくる。猫のキーホルダーと同じデザインの対になったキーホルダー。
その瞬間、僕の記憶が再び甦ってくる。
ひなたと話したかつての記憶が。
ひなたは快く僕を迎えてくれるが、やっぱり部屋から出ようとはしなかった。
ただ無理に外に出そうとは思わない。無理矢理ひきずり出しても同じ事だ。ひなた自身がそうしたいと思わない限り、いい結果になるとは思えなかった。
あれから僕は突発性難聴という病気についても調べてみていた。
やはり理由もわからずに耳が聞こえなくなる現象を突発性難聴というらしい。ただ数ある耳が聞こえなくなる病気の中でも、再び聞こえるようになる可能性がある病気だということもわかった。
ただし可能性があるのは、聞こえなくなってから一月くらいの間のこと。それを越すとほぼ希望はなくなるとの事だった。
すでに事故から四ヶ月以上過ぎていた。可能性はほぼないのかもしれない。
それでも確率はゼロじゃない。ゼロじゃない以上、希望はある。
どうすればいいのかは、わからなかった。そこまでは辿り着いていない。そもそも僕にわかるくらいなら、医者が何とかしているだろう。実際には絶望的だという事を突きつけられたに等しい。
それでも諦めたくはなかった。何かきっと届く方法があると信じたかった。
ひなたの部屋にきているけれど、あまり話はしていない。ひなたの耳は聞こえないし、僕もひなたも手話なんてわからない。ひなたはまだ口で話せるけれど、僕が伝えるためにはどうしても筆談になる。書いて読んでもらって会話をするだけでもかなり大変な事もわかった。
「無理に話さなくてもいいよ。隣にいてくれたらいいから」
ひなたはそう言って笑っていたけれど、僕は少しでも話をしたいと思った。
ノートにかいて、同じ事を言葉で告げて。少しでもひなたが聞こえるようにならないかと試してみる。
それでも僕に出来る事はそれ以外にはなかったから、ただただ話しかけ続けた。
だけどひなたはあまり答えてはくれなかったから、会話らしい会話も出来てはいなかった。
不意に僕の携帯電話がメロディをならす。おそらく何かメッセージが届いたのだろう。
どこかで聴いた柔らかいメロディ。それが僕の耳を揺らしていく。
ひなたには聞こえなかっただろう。僕にだけ聞こえたメロディ。気がつくと涙をこぼしていた。
どうして僕は泣いているのか、僕自身にもわからなかった。何が悲しいのか、何が辛いのか、僕にはわからなかったけれど、ただ涙が溢れて仕方なかった。
「友希くん。どうしたの。どうして泣いてるの?」
ひなたは驚いた様子で、おろおろと僕の方を見つめていた。
ひなたが設定したメロディ。それは僕とひなたを結んでいた。でもいまは僕にしか届かない。その事が僕の悲しさを生んだのかもしれない。だけどこの時ははっきりとした理由なんてわからなくて、ただ何もわからずに涙をこぼし続けた。
僕の中に生まれた悲しさは、それがさらに僕を責め立てた。辛いのは僕じゃないのに。本当に辛いのはひなただというのに、僕はひなたとの想い出を甦らせては、涙をこぼしていた。
「スマホ?」
ひなたはランプが点滅しているのに気がついたのだろう。僕のスマホへと視線を送っていた。
僕は軽くうなづいて、スマホが奏でるメロディを止める。そしてそのまま電源を落として、もういちどポケットの中にしまい込んだ。
今はこのメロディがただ僕を責め立てて、この音をきいているだけで悲しさを増していたから。
「そっか。私は友達からのメッセージが辛くて、だからライムもアカウント消しちゃった。スマホもほとんど壊れていたから解約しちゃったよ」
ひなたは寂しそうに笑うと、少し外を見上げる。だけどそれも一瞬のことで、すぐにまた微笑んで、それから僕の肩を優しく抱き寄せる。
「もう、友希くん。なかないで。ほら笑って」
ひなたの声はとても穏やかで、その声を聴いていると、流していた涙も少しずつおさまり始めていた。
僕は何をしているのだろう。ひなたを励ますつもりでここにいるというのに、逆に慰められていた。自分の情けなさに再び涙がこぼれそうになる。
だけどこれ以上情けないところは見せられない。何とかこらえると、それからひなたの手をとった。
ありがとう。
てのひらの上を指先でなぞって、それからもう少しだけ付け足していた。
すきだ。
まだ伝えていなかった言葉。声には出せなかったし、ノートには書けなかった。だけどこうしてなら伝えられた。
ひなたは書いた文字がわかったのか、それともわからなかったのか。ただ笑顔のままで僕を見守るように見つめていた。
もとより答えをもらおうとは思ってはいない。気持ちが伝わったかどうかも今は気にならなかった。
ただ失っていた記憶を思い出して、僕の心の中に満ちていたから。事故が起きなければ、きっと伝えていたはずの気持ち。ただ僕はそれを思い出して、思わずひなたへと伝えずにはいられなかった。
ただ僕はひなたを元気づけたい。その為の意志表明のようなものだから、ひなたが僕の事をどう思っていたとしても、許される限り僕はひなたの側にいようと思う。
ひなたは急に立ち上がると、机の引き出しを開ける。そこから何かを取り出して、僕の掌の中に差し出していた。
手の中にあったのは、小さな猫のキーホルダー。かなり薄汚れていて、あちこちがこすれて傷ついていた。
このキーホルダーには見覚えがある。どこで見たはずだ。
失われている記憶の中で、確かに見た。しかし思い出せない。もうのど元まで浮かんでいるのに、最後の一つが出てこなかった。
「覚えてないかな」
「ごめん……」
ひなたの言葉に僕はうつむいてつぶやく。
もっともひなたには聞こえないだろうけど、僕は言わずにはいられなかった。
ひなたのノートを再び借りる。
『僕はひなたと出会ってから三月六日までの記憶を失っていたんだ』
覗き込んでいたひなたが、驚いて声を漏らす。完全に想定外の言葉だったのだろう。僕の顔とノートを交互に見つめる。
僕は事故の後に、一時的に三十六日間の記憶を無くしてしまったこと。その中でひなたのことも忘れてしまっていたこと。
しかし携帯電話のメロディをきいて、ひなたのことを思い出したこと。メッセージも携帯もつながらなくて、だからひなたを探し歩いたこと。
そしてこの家を見つけたこと。
一つずつゆっくりと。
その間、ひなたは何もいわなかった。ただ僕が書き終えるのをずっと待っていた。
そして全てを説明し終わったあと、ひなたは「そっか」とうなづいて、それからどこか困ったようなためらうような顔を見せて立ち上がる。
部屋の中をいったりきたりして落ち着かない様子だったけれど、少しして意を決したかのように、僕の目の前に立つ。
「友希くん。よく聴いていてね」
ひなたは少し思い詰めたような顔をしながら、それでも何か意を決したようにうなづくと、それから大きく息を吸い込んでは吐き出していた。
胸の前で両手をぐっと握りしめて、それからもういちど大きく深呼吸する。
ひなたが童謡の犬のおまわりさんを歌い始めていた。
いつもと、いや記憶の中のひなたと同じように。
再び出会ってからは、あれだけ好きだった歌を一度も歌わなかった。それまではひなたの歌を聴かない日は無かったというのに、ひなたは歌を歌わなかった。
それはきっと夢がくじけていたからだろう。
でも本当はまだひなたは歌を失った訳じゃない。聞こえなくても話せるのだから、歌はまだひなたのものだ。
それでもひなたは歌わなかった。歌えなかったのだろう。
もしも歌おうとして歌えなかったとき、全てを無くしてしまうから。ひなたはきっとそれを恐れていたんだ。
だけどいま、ひなたは大きな声で歌い始めていた。
たぶん恐れていただろう。たぶん迷っていただろう。
だけどいま歌い始めていた。恐らくは、僕の為に。
ひなたは迷子になった仔猫のことを歌いながら、猫のキーホルダーを僕へと向けた。
それからもう一つ、犬のキーホルダーを取り出してくる。猫のキーホルダーと同じデザインの対になったキーホルダー。
その瞬間、僕の記憶が再び甦ってくる。
ひなたと話したかつての記憶が。