ひなたも何も言わなかった。お互いに何も口には出せないまま、時間だけが過ぎ去っていく。
ひなたが本当の事を話しているのは、僕には痛いほどわかった。最初はいつもの質の悪い冗談だったのだろうが、続けた告白は嘘ではない。
ひなたはもう泣かなかった。ただどこか遠い目を僕に向けているだけで。
ここにいる事が苦しくて、でも離れる事も出来なくて、僕はただうつむいている事しか出来なかった。
「友希くん」
不意にひなたが僕の名を呼ぶ。
慌てて顔をあげると、ひなたは寂しげな瞳のまま、僕の方をじっと見つめていた。
ひなたが何を思っているのかはわからない。だけど彼女はベッドに腰掛けたまま、少しだけ首をうつむかせた。
「ごめんね。せっかく会いにきてくれたのに、変な話して。でも、聞いて欲しかったの。だからお母さんには言わないでって、そう伝えたんだ」
ひなたはそういうと立ち上がり、僕のすぐ目の前まで歩み寄る。
心臓が痛いほどに鳴り響く。この音が聞こえてしまうんじゃないかと思って、僕は息を飲み込む。
「友希くんに出会えて良かった。楽しかった。私、変だと良くいわれるけど、でもなんだかんだいいながらも、友希くんはいちども馬鹿にしないでつき合ってくれたから」
ひなたの表情は少しだけ柔らかく緩んだような気がする。だけどそれもほんのわずかなことで、またすぐに沈んだ様子を浮かべていた。
「でも。私、もうホントに普通じゃなくなっちゃった。耳が聞こえないって事が、こんなに怖い事なんて思わなかった。私、もう一歩も外に出られないの。人の声も、街のざわめきも、風の歌も、何も聞こえない。聞こえなくなっちゃった。私、おかしくなっちゃった」
ひなたは両手でその顔を抑え込んで、そのまま一気に崩れたように泣き始めていた。
ひなたの嗚咽が部屋の中に響き渡る。
それは僕の心臓の鼓動をさらに激しくかき鳴らして、僕はこのままでいる事に耐えきれなくなった。
だから、僕は。
だから僕は、思わずひなたを抱きしめていた。
ひなたには言葉は通じない。声は届かない。
だから僕が想いを伝えるには、それ以外には残されていなかった。
弾けそうな心臓の音を止めたかった。突き上げてくる激情を止める事が出来なかった。
ひなたを救いたいと思った。だけど何も出来なかった。
だから僕は、ひなたを抱きしめる事しか出来なかった。
ひなたは驚いた顔を浮かべて、だけど僕を振り払おうとはしない。抱き寄せた僕へとその身を任せて体を預けていた。
腕の中に温もりを感じていた。
ひなたがこんなにも小さくて壊れそうだなんて、今までずっと知らなかった。
ただ僕の中に走った感情に突き動かされて、何も考えずに抱きしめていた。
鼻腔をくすぐる柔らかく甘い匂いに、僕は余計に鼓動が激しく変わるのを感じていた。
息が出来ない。苦しくて悲しくて。ただやるせなくて。
だけどそれでもひなたを抱きしめる事で、少しでも彼女を暖めてあげたかった。彼女の涙を止めたかった。
ひなたの手が僕の背中を寄せられていた。お互いの体温がゆっくりと伝わって、まるでそのまま溶けて混じり合うんじゃないかとすら思えた。
何も言わず。何も言えず。ただ時間だけが過ぎていった。
どれだけの時間が過ぎたかもわからなくなった時に、ひなたは目をつむって微かにその顔を上向きに変える。
ひなたが求めているものに僕は応えたいと思う。言葉もないままに、僕はひなたへと少しずつ近づけていく。
ひなたの吐息を感じられる。
僕は息が出来ない。
ほんの少しだけ互いの鼻先が触れる。それから柔らかな唇と吐息が重なっていた。
ただついぱむようにしてほんの少し触れただけ。
それだけでも僕の胸は破裂しそうになるけれど、ひなたは何事も無かったかのように、そのままじっと目をつむっていた。
だから僕はもういちどひなたを求める。
こんどは吐息まで飲み込むように、強く重なる。
頭の中が真っ白に溶けていて、もう他に何も感じられなかった。
息苦しさを感じて、やっとひなたから離れる。息を吐き出すと、胸の奥が激しくうずいていた。
この時、僕は改めて思い出していた。
失った記憶の中で、確かに僕はひなたの事を好きだったと。他の誰よりも愛しく思っていたと。
いや、それは少しだけ違う。
今も僕はひなたの事が好きだ。
もうごまかすことは出来なかった。ひなたを求めていた。ひなたを必要としていた。
ひなたもたぶん僕を必要と思ってくれている。
ひなたはたくさんのものを失っていた。だから僕が取り戻してあげなければならない。
重ねた唇は、その約束の印。
僕はひなたを求めている。ひなたは僕を必要としてくれている。
だから互いに支え合おうと、重ねた印。
取り戻した記憶と時間。その事で頭の中は埋め尽くされていた。
だからこの時、僕は忘れてしまっていた。
僕には、美優という彼女がいる事を。
ひなたが本当の事を話しているのは、僕には痛いほどわかった。最初はいつもの質の悪い冗談だったのだろうが、続けた告白は嘘ではない。
ひなたはもう泣かなかった。ただどこか遠い目を僕に向けているだけで。
ここにいる事が苦しくて、でも離れる事も出来なくて、僕はただうつむいている事しか出来なかった。
「友希くん」
不意にひなたが僕の名を呼ぶ。
慌てて顔をあげると、ひなたは寂しげな瞳のまま、僕の方をじっと見つめていた。
ひなたが何を思っているのかはわからない。だけど彼女はベッドに腰掛けたまま、少しだけ首をうつむかせた。
「ごめんね。せっかく会いにきてくれたのに、変な話して。でも、聞いて欲しかったの。だからお母さんには言わないでって、そう伝えたんだ」
ひなたはそういうと立ち上がり、僕のすぐ目の前まで歩み寄る。
心臓が痛いほどに鳴り響く。この音が聞こえてしまうんじゃないかと思って、僕は息を飲み込む。
「友希くんに出会えて良かった。楽しかった。私、変だと良くいわれるけど、でもなんだかんだいいながらも、友希くんはいちども馬鹿にしないでつき合ってくれたから」
ひなたの表情は少しだけ柔らかく緩んだような気がする。だけどそれもほんのわずかなことで、またすぐに沈んだ様子を浮かべていた。
「でも。私、もうホントに普通じゃなくなっちゃった。耳が聞こえないって事が、こんなに怖い事なんて思わなかった。私、もう一歩も外に出られないの。人の声も、街のざわめきも、風の歌も、何も聞こえない。聞こえなくなっちゃった。私、おかしくなっちゃった」
ひなたは両手でその顔を抑え込んで、そのまま一気に崩れたように泣き始めていた。
ひなたの嗚咽が部屋の中に響き渡る。
それは僕の心臓の鼓動をさらに激しくかき鳴らして、僕はこのままでいる事に耐えきれなくなった。
だから、僕は。
だから僕は、思わずひなたを抱きしめていた。
ひなたには言葉は通じない。声は届かない。
だから僕が想いを伝えるには、それ以外には残されていなかった。
弾けそうな心臓の音を止めたかった。突き上げてくる激情を止める事が出来なかった。
ひなたを救いたいと思った。だけど何も出来なかった。
だから僕は、ひなたを抱きしめる事しか出来なかった。
ひなたは驚いた顔を浮かべて、だけど僕を振り払おうとはしない。抱き寄せた僕へとその身を任せて体を預けていた。
腕の中に温もりを感じていた。
ひなたがこんなにも小さくて壊れそうだなんて、今までずっと知らなかった。
ただ僕の中に走った感情に突き動かされて、何も考えずに抱きしめていた。
鼻腔をくすぐる柔らかく甘い匂いに、僕は余計に鼓動が激しく変わるのを感じていた。
息が出来ない。苦しくて悲しくて。ただやるせなくて。
だけどそれでもひなたを抱きしめる事で、少しでも彼女を暖めてあげたかった。彼女の涙を止めたかった。
ひなたの手が僕の背中を寄せられていた。お互いの体温がゆっくりと伝わって、まるでそのまま溶けて混じり合うんじゃないかとすら思えた。
何も言わず。何も言えず。ただ時間だけが過ぎていった。
どれだけの時間が過ぎたかもわからなくなった時に、ひなたは目をつむって微かにその顔を上向きに変える。
ひなたが求めているものに僕は応えたいと思う。言葉もないままに、僕はひなたへと少しずつ近づけていく。
ひなたの吐息を感じられる。
僕は息が出来ない。
ほんの少しだけ互いの鼻先が触れる。それから柔らかな唇と吐息が重なっていた。
ただついぱむようにしてほんの少し触れただけ。
それだけでも僕の胸は破裂しそうになるけれど、ひなたは何事も無かったかのように、そのままじっと目をつむっていた。
だから僕はもういちどひなたを求める。
こんどは吐息まで飲み込むように、強く重なる。
頭の中が真っ白に溶けていて、もう他に何も感じられなかった。
息苦しさを感じて、やっとひなたから離れる。息を吐き出すと、胸の奥が激しくうずいていた。
この時、僕は改めて思い出していた。
失った記憶の中で、確かに僕はひなたの事を好きだったと。他の誰よりも愛しく思っていたと。
いや、それは少しだけ違う。
今も僕はひなたの事が好きだ。
もうごまかすことは出来なかった。ひなたを求めていた。ひなたを必要としていた。
ひなたもたぶん僕を必要と思ってくれている。
ひなたはたくさんのものを失っていた。だから僕が取り戻してあげなければならない。
重ねた唇は、その約束の印。
僕はひなたを求めている。ひなたは僕を必要としてくれている。
だから互いに支え合おうと、重ねた印。
取り戻した記憶と時間。その事で頭の中は埋め尽くされていた。
だからこの時、僕は忘れてしまっていた。
僕には、美優という彼女がいる事を。