三十六日間の忘れ物

 聖が去っていった後も、僕は祐人の芸をみていた。
 ひなたといる時も同じように祐人の芸を見ていたなとも思う。
 やがて日も沈みはじめ、空が茜色に染まる。
 それでも僕はただ側に座り込んで、彼の芸を見ていた。
 いや本当は見てはいなかったのかもしれない。頭の中が混乱していて、漠然と目の前を見つめていただけだ。
 三月六日。ひなたが大会に出るはずだった日だ。けど僕はその大会にひなたが出たのかどうかは覚えていない。
 その日、僕は事故に合った。
 いまだに事故の事は思い出せない。何があったのか。どんな事故だったのか。両親も聖も美優も何も話してはくれなかった。聖や美優は本当に知らないのかもしれないし、両親だって何も知らないのかもしれない。
 僕の中にある記憶は、空を飛んだ記憶。
 空を飛ぶなんて、人間に出来るはずはない。だからこの記憶はどこか高い場所から飛び降りたのだろう。
 そのあとに海に沈んで、息ができなくて、ただ苦しさを覚えた記憶も残っている。
 それから推論される理由。
 ――僕は、死のうとした?
 でもそれもおかしな話だ。僕には自殺するような理由は何一つないはずだった。特に悩みがあった訳でも、いじめにあっていた訳でもない。死を選ぶ理由がない。
 それとも忘れてしまった記憶の中に、それに繋がる何かがあったのだろうか。
 思い出せない。思い出したくないような気もする。もし僕が死を選ばなくてはいけないほどの辛い想いをしたなら、思い出さないでいる方が幸せなのかもしれない。
 ただそれでも僕の中で膨らんでいく感情があった。その感情を抑えられずに、僕は思わずつぶやいていた。
「ひなたに、会いたい」
 震えた声でつぶやく。彼女に会えば何かがわかる気がしていた。何かを見つけられるかもしれない。でも本当はそんなことよりも、ただ彼女の笑顔を見たかった。
 僕の漏らした声に、祐人は練習の手をとめて、それからはっきりとした声で答える。
「そんなに会いたいなら、会いにいけばいいじゃないか」
 祐人の声は当然の事を告げるかのようだった。
 確かにどうして僕は悩んでいるのかわからない。ここで考えていたとしても、何も進むわけではない。
 ただ彼女の手かがりは、特にない。覚えているのは名前と、つながらない電話番号とメールアドレスだけだ。ライムのアカウントはすでに削除されていたから、連絡をとる方法は何もない。
 どうやって会えばいいのだろうと思い悩む僕に、しかし祐人はゆっくりと告げる。
「本当に会いたいなら、探したらいい。君はあの子の名前を覚えているんだろ。なら探しようだってあるはずだ。僕達が住んでるこの町はそんなに大きな町じゃない」
 祐人はそばに置いてある人形を拾い上げる。
『そうだぞ。諦めるなんていうのはいつだって出来る。しかしそれは終わりと言う事なのだよ。そこからは何も始まらない』
 祐人の腹話術の人形が話し始めていた。
 だけどなんだか本当に人形が話しているかのようなその声は、同世代の男の子でなくて、本当に温かい大人から励ましの声のようにも思えた。
「……そうだね」
 僕は静かにうなずくと、拳をぎゅっと握りしめた。
 明日で学校は終わり夏休みになる。時間はいくらでもあった。
 ひなたの名字は綾瀬なんていう、ちょっと珍しい名字だ。この町にそう何軒もはいないだろう。最悪しらみつぶしに探せば、いつかは見つけられるはず。
 ひなたに会いたかった。どこかに置いてきてしまった忘れ物を見つけたかった。
 明日からの時間は、ひなたを探そう。
 僕は心の中で決めていた。
 この時、僕は考えてもいなかった。ひなたを探す事が、ひとつの事を終わりに近づけているだなんてことは。