この時から僕の時間は違うものに変わっていた。
 約束をした訳でもないのに、一緒に過ごす事が多くなった。

 最初は祐人が芸をしているのを一緒にみていた。しかしやがて祐人がいなくても、あるいは祐人がいる場所から少し離れた場所で僕達は逢瀬を重ねるようになっていた。

 最初は祐人の練習の邪魔をしないようにだったが、そうでない時も二人で話す事が多くなってきていた。
 僕とひなたはどんどん距離が近づいていた。今日もひなたは僕の隣にいる。
 祐人が練習をしている場所から離れてはいないけれど、声が届くほどでもない距離で過ごしていた。
 日が暮れ始めて空が茜色に染まる。祐人も帰宅の準備を進めていたようで、遠くで手を振っていて別れを告げていた。

「夕暮れは世界で一番綺麗な瞬間だよね。この時間が好きかな」

 ひなたは沈んでいく夕日を見つめながら、その影の中で告げる。
 波音でリズムをとりながら、ひなたはゆっくりと歌い始めていた。僕の携帯の着信音に設定したドラマの歌だ。
 僕はそばでひなたの歌を聴いていた。
 初めて会った時からもそうだったけれど、ひなたは歌が好きだった。ひなたはいつも歌っていた。僕は静かにその歌を聴く。いつの間にか僕はひなたの歌をきいている時間が、僕にとって一番好きな瞬間になっていたかもしれない。
 不意に強い風が吹いていた。
 さぁっと流れる風が、いたずらに彼女のベレー帽を連れていく。
 僕は慌てて帽子をキャッチして彼女の方へと振り返る。
 ひなたの長い髪が潮風で流れていく。彼女の髪が目の前に広がって、それ以外には何も見えない。
 僕のちっぽけな世界をひなたが満たしていた。
 ひなたはゆっくりと微笑んで、ありがと、と小さな声で告げる。

「私、歌のお姉さんになりたいんだ」

 唐突にひなたは自分の夢を告げていた。
 初めてきいた彼女の夢。でもいつも歌っていた彼女らしいと思う。
 夕日に照らされた彼女はまるで影のようで姿が見えない。だけど僕にはまぶしく感じていた。
 僕はまだ何も見つけていない。何をしたいという未来も、いま何をすべきかの現在も。ただ日々にながされるまま生きてきただけだ。
 ひなたがいつも歌うのもその夢を叶えたいからなのだろう。はっきりとした夢を目指して努力を重ねる彼女はここにいるのだけど、遠い場所にいるようにも思えた。
 だけどそれでも彼女を応援していきたいと願う。
 そして彼女と一緒なら、自分の未来も見つけられるんじゃないかとから感じていた。
 ひなたと一緒にいたいと思った。

「そうだね。ひなには似合っているよ」
「でしょ。こんどね。小さいけれど歌の大会があるんだ。隣街までいかないとだけど、良かったら応援して」

 言いながらひなたは僕へと手を差し出してきた。
 一瞬ひなたも同じように感じてくれているのだろうかと思ったけれど、すぐに帽子を受け取ろうとしているのだと気がついて息を吐き出す。

「いつ?」

 ベレー帽を渡しながら、僕はひなたに訊ねる。
 ひなたはにこやかに微笑みながら、僕をじっと見つめていた。

「三月六日」

 ひなたの声に僕はうなづく。

「もちろんいくよ」

 僕は決意を新たにしていた。
 大会が終わったら、いま僕が抱いている気持ちをはっきりと伝えようと。






「友希さん」

 不意に声が聞こえて、僕は現実に意識を戻して振り返る。
 聖がいつの間にか側に立っていた。
 祐人の話はいつの間にか終わっていたようで、近くで中国コマの手入れをしている。

「聖、こんなところで珍しいね。何か僕に用だった?」

 海浜公園は学校から少し離れていて、聖の家はこちら側ではなかったはずだ。だから聖をここでみかけるのは珍しい事だ。

「いえ。たまたま通りかかったら友希さんがいたので声をかけてみただけです」

 聖は淡々と告げる。
 聖や美優はいま僕が思い出した記憶の事を知っていたのだろうか。ここで祐人やひなたと親しくしていたこと。特にひなたとのことは。
 全ての記憶を取り戻した訳ではないけれど、失った記憶の中で僕は毎日のようにこの辺りでひなたと話していた。その中に聖や美優といた記憶はない。単純に思い出していないだけかもしれないけれど、僕はひなたとずっと一緒にいた。
 それなのに聖や美優が知らないという事がありうるだろうか。ほとんど毎日のように会っていれば、聖はともかく美優は気がつくだろうし、僕自身も話していてもおかしくない。
 でももし聖や美優の二人が祐人やひなたの事を知っていたのだとすれば、どうして記憶を失った僕に話さなかったのだろうか。秘密にする理由なんてないはずなのに、どうして話してくれなかったのだろう。
 僕が空を飛んだ理由と何か関係があるのだろうか。それとも本当に二人ともひなたの事を知らなかったのだろうか。
 聖に訊いてみるべきだろうか。何となく訊いてはいけないような気もする。だけど明確な理由なんてなくて、冷静に考えればやっぱり訊ねてみるべきだと思う。
 なぜか震える胸を抑えながら、僕はゆっくりと聖へと問いかける。

「なぁ、聖。お前は知っていたのか」
「何をです?」

 飄々とした顔のまま、特に変わった様子もなく聖は聞き返してくる。

「ひなのこと。事故に遭う前に、僕が、ここでいつも会っていた女の子のことだよ」

 僕の問いに聖は少しの間、考えるような様子を見せていた。でもそれは本当に短い間だけで、すぐに首をふるって僕へと視線を合わせた。

「いいえ。知りません」

 聖は本当に知らなかったのだろうか。軽く息を吐き出して、それから少しだけ眉を寄せる。

「でも忘れていた事を思い出したんですね」

 どこか沈んだ声で答える。その声があまりにもいつもの聖と違いすぎて、僕は何か違和感を覚えずにはいられなかった。
 ひょうきんな彼らしくない、何か憂いを覚えるような声に僕は何か戸惑いを隠せない。
 しかし聖は何も気に留めていないようで、ゆっくりと言葉を続けていく。

「忘れたままでいればよかったのに」
「え?」

 あまりにも想定外の言葉には、僕は間の抜けた声を漏らしていた。
 聖の声はどこか冷たくて、僕の胸がもういちど震える。

「友希さん。それなら俺、もういちど――」

 聖は何か思い詰めたような顔を向けて、それからすぐに首を振るう。それから大きくため息をもらしていた。

「いいえ。なんでもありません。さようなら」

 聖は別れの挨拶を告げて、僕が答えるよりも早く歩き始めていた。
 あまりにもしなやかに流れた時間に、僕はどうしていいのかわからなかった。
 ただ立ち去っていく聖の背を呆然と眺めている事しか出来なかった。
 それだけの事が僕に出来る精一杯の出来事だった。