「あー、楽しかった。ね、楽しかったよね?」

 歌の時間は終わったようで、彼女は僕へと満足げに口角を上げる。
 僕は何も言わずに顔を背ける。強制的に歌わされたようなものだったので、無言の抗議の意味もあった。

 ただ正直、途中から楽しいと感じていたのも否定できない。だけどそれを認めてしまうのはしてやられたような気がして、何となくしゃくに思うので答えないようにする。
 しかし彼女は僕の沈黙を肯定と受け取ったのだろう。いやあるいはそもそも最初から答えなんて気にしていなかったのかもしれない。笑顔のまま大きく背を伸ばす。

「んーっ。二人ともありがとね。あ、そういえば」

 少女のふわりとして、とごまでも朗らかで。いつの間にか彼女の表情を追いかけている自分に気がついていた。周りにはいないタイプの女の子に、気がつくと目を奪われていたと思う。
 彼女は何かを思い出したかのように口元にのばした指をあてる。

「訊いてなかったけど、二人とも名前はなんていうの?」
「って、ちょっと待って!? 君ら二人は知り合いじゃなかったの?」

 思わず声を張り上げていた。
 二人ははっきりと息が合っていたし、傍目にも仲がよさそうに見えた。てっきり友人同士、もしかしたら恋人同士なのかもしれないとすら思っていた。
 だけど名前を訊くという事は、そうではないのだろう。
 しかし二人は顔を合わせると、きょとんとした表情を浮かべていた。

「ううん、さっき会ったばかり」
「だな。君がくる少し前から、俺の芸を見てただけだから」

 二人とも不思議なものを見るかのように僕を見つめていた。
 こめかみの辺りに痛みを感じる。二人はたぶん誰とでもすぐに仲良くなれる性格で似たもの同士なのだろう。

「誰とでも仲良くなれるのが私の特技だもん」

 少女は誇らしげに告げると、指先を立てて軽く振るう。
 誰とでも仲良くなれるというより、誰といてもマイペースの間違いじゃないだろうかと僕は思う。
 ただ意外とそんなマイペースな彼女といる時間を心地よく感じていたのも否定は出来なかった。

「それで、名前は?」

 彼女の大きな笑みに引き込まれそうになる。天真爛漫という言葉が彼女には似合うのだろうなと思う。

「俺は水城祐人(みずきゆうと)。祐人でいいよ」

 祐人が先に答えていた。自然に二人の顔が僕の方へ向き直る。仕方なく僕もその後に続いて答える。

「僕は倉本友希(くらもとともき)だよ」
「うん。祐人くんに、友希くんね」

 僕は名前で呼んでいいとは答えなかったのだけど、彼女はもう勝手に名前で呼んでいた。嫌な訳では無かったけれど、彼女のマイペースぶりに苦笑を浮かべる。

「で、君は?」

 彼女に向けて訊ねる。流れできいたのもあるけれど、少し少女のことを知りたいとも思い始めていた。

「私はね、ひなた。綾瀬(あやせ)ひなただよ。呼ぶときはひなちゃん」

 彼女は本当に嬉しそうな声で、呼び方まで決められて答えていた。
 本当にマイペースだなと心の中で思うものの、それがもうむしろ心地よくすら感じている。

「綾瀬さんか」

 だからこそ意地悪に彼女の名字で呼んでみる。しかしすぐに彼女は眉を寄せて、口元を膨らせていた。

「ちっがーう。ひなた。もしくはひなちゃん。そんな他人行儀な呼び方はダメ」

 他人行儀も何もいま知り合ったばかりだけど、と思うけれど、それを口には出す事は出来なかった。
 たぶんそう告げたなら、彼女はとても悲しむだろう。出会ったばかりの彼女だけど、なぜかそれははっきりと感じていた。そして彼女の悲しむだろう言葉を吐きたくないとも思う。

「わかった。ひなた」

 僕が彼女の、ひなたの名前を呼ぶ。ただそれだけのことなのに、彼女は本当に花咲くような笑みを浮かべて、その顔を緩ませていた。

「うんっ。友希くん。それでいいよっ」

 元気良く答えると、彼女はぴんと伸ばした人差し指ををまるで指揮棒のように軽く振るう。少し前にもやっていた気がするけれど、たぶん彼女の癖なのだろう。
 だけど見ていると楽しくなってきて、僕もたぶんいつの間にか笑顔を浮かべていた。
 そしてそんな僕とひなたを祐人は見守るように見つめていた。

「君ら二人、見てて面白いよ。けっこう気も合ってるみたいだし。仲良くなれそうだな」

 祐人は半ばからかうような口調で告げる。
 だけどひなたはそれに気がついていないのか、それとも気にしていないのか、また嬉しそうな表情を浮かべていた。

「え、そうかな。うん、でも友希くんとは仲良くなれそう。一緒に歌ってくれたし」

 僕をじっと見つめて、何かに満足したのか、うん、と声に出してうなづく。

「じゃ、今日から私と友希くんはお友達ね」

 はっきりと友達宣言をしてきていた。まぁこれだけ話したのだから、もう友達でいいとは思う。ただ何と答えて良いかは迷いを隠せない。何となく彼女のペースに巻き込まれたままでいるのか悔しいような気もしていた。
 何も答えない僕に、ひなたはきょとんとした顔で首をかしげて、それから口元に笑みを浮かべてからかうような口調で告げる。

「おやー、友希くんは何か不満なのかな? あ、わかった。友達じゃなくて彼女にしたかったんだ?」

 突拍子もない事を言い出していたけれど、たぶん前と同じで僕の反応を見ていたのだろう。慌てて違うと答える様子を期待しているのだ。
 でもこんな問答は美優との会話で慣れているし、こうしてペースに載せられたままでいるのも面白くはない。だからむしろ逆に彼女をからかってみるのもいいかもしれない。

「そうだよ。だから彼女になってくれる?」

 やや意地の悪い声で聞き返してみる。
 ひなたはまるで一時停止したかのように動きが固まって、その頬を真っ赤に染めて、そのまま真下へと俯いてしまう。
 だいたい予想した通りの反応だった。口でこんな事を言う割には、案外この手の会話に慣れていないのだろうことは僕にもわかる。
 変な奴だなと思う。でも嫌いにはなれなかった。無邪気というか、子供っぽいというか。不思議な雰囲気に、もう僕はどこか取り込まれていたのかもしれない。
 ひなたは恥ずかしそうに赤く染めた顔のままうつむいていたけれど、不意に僕の方へと顔を上げる。

「ばかぁ」

 ひなたは小さな声でつぶやくようにつげる。
 なぜか胸が痛んだ。