三十六日間の忘れ物

「あー、楽しかった。ね、楽しかったよね?」
 やっと歌の時間は終わったようで、彼女は僕へと満足げに口角を上げる。
 僕は何も言わずに少しだけ顔を背ける。なかば強制的に歌わされたようなものだったので、無言の抗議の意味もあった。
 しかし彼女は僕の沈黙を肯定と受け取ったのだろう。いやあるいはそもそも最初から答えなんて気にしていなかったのかもしれない。笑顔のまま大きく背を伸ばす。
「んーっ。二人ともありがとね。あ、そういえば」
 少女の笑顔はふわりとして、とごまでも朗らかで。いつの間にか彼女の表情を追いかけている自分に気がついていた。周りにはいないタイプの女の子に、気がつくと目を奪われていたと思う。
 彼女は何かを思い出したかのように口元にのばした指をあてる。
「訊いてなかったけど、二人とも名前はなんていうの?」
「って、ちょっと待って!? 君ら二人は知り合いじゃなかったの?」
 思わず声を張り上げていた。
 二人ははっきりと息が合っていたし、傍目にも仲がよさそうに見えた。てっきり友人同士、もしかしたら恋人同士なのかもしれないとすら思っていた。
 だけど名前を訊くという事は、そうではないのだろう。僕は目を白黒とさせて、混乱が隠せない。
 二人は顔を合わせると、きょとんとした表情を浮かべていた。
「ううん、さっき会ったばかり」
「だな。君がくる少し前から、俺の芸を見てただけだから」
 二人とも不思議なものを見るかのように僕を見つめて否定していた。
「誰とでも仲良くなれるのが私の特技だもん」
 少女は誇らしげに告げると、指先を立てて軽く振るう。
 誰とでも仲良くなれるというより、誰といてもマイペースの間違いじゃないだろうか。
 でも意外とそんなマイペースな彼女といる時間を心地よく感じていたのも否定は出来なかった。
「それで、名前は?」
 彼女の大きな笑みに引き込まれそうになる。天真爛漫という言葉が彼女には似合う。
「俺は水城(みずき)祐人。祐人でいいよ」
 祐人が先に答えていた。自然に二人の顔が僕の方へ向き直る。仕方なく僕もその後に続いて答える。
「僕は倉本(くらもと)友希だよ」
「うん。祐人くんに、友希くんね」
 僕はあえて名前で呼んでいいとは答えなかったのだけど、彼女はもう勝手に名前で呼んでいた。
「で、君は?」
 彼女に向けて訊ねる。流れできいたのもあるけれど、少女のことを知りたいとも思い始めていた。
「私はね、ひなた。綾瀬ひなただよ。呼ぶときはひなちゃん」
 彼女は本当に嬉しそうな声で、呼び方まで決められて答えていた。
 本当にマイペースだなと心の中で思うものの、それがもうむしろ心地よくすら感じている。
「綾瀬さんか」
 だからこそ少し意地悪に彼女の名字で呼んでみる。しかしすぐに彼女は眉を寄せて、口元を膨らせていた。
「ちっがーう。ひなた。もしくはひなちゃん。そんな他人行儀な呼び方はダメ」
 他人行儀な呼び方も何もいま知り合ったばかりだけど、と思うけれど、それを口には出す事は出来なかった。
「わかった。ひなた」
 僕が彼女の、ひなたの名前を呼ぶ。ただそれだけのことなのに、彼女は本当に花咲くような笑みを浮かべて、その顔を緩ませていた。
「うんっ。友希くん。それでいいよっ」
 元気良く答えると、彼女はぴんと伸ばした人差し指ををまるで指揮棒のように軽く振る。
 だけど見ていると楽しくなってきて、僕もたぶんいつの間にか笑顔を浮かべていた。
「君ら二人、見てて面白いよ。けっこう気も合ってるみたいだし。仲良くなれそうだな」
 祐人は半ばからかうような口調で告げる。
 だけどひなたはそれに気がついていないのか、それとも気にしていないのか、また嬉しそうな表情を浮かべていた。
「え、そうかな。うん、でも友希くんとは仲良くなれそう。一緒に歌ってくれたし」
 僕をじっと見つめて、何かに満足したのか、うん、と声に出してうなずく。
「じゃ、今日から私と友希くんはお友達ね」
 はっきりと友達宣言をしてきていた。まぁこれだけ話したのだから、もう友達でいいとは思う。ただ何と答えて良いかは迷いを隠せない。何となく彼女のペースに巻き込まれたままでいるのか悔しいような気もしていた。
 しかし何も答えない僕に、ひなたはきょとんとした顔で首をかしげて、それからいたずらに口元に笑みを浮かべてからかうような口調で告げる。
「おやー、友希くんは何か不満なのかな? あ、わかった。友達じゃなくて彼女にしたかったんだ?」
 突拍子もない事を言い出していたけれど、たぶん前と同じで僕の反応を見ていたのだろう。もちろんそういう訳ではないのだけれど、たぶん慌てて違うと答える様子を期待しているのだ。
 でもこんな問答は美優との会話で慣れているし、こうしてペースに載せられたままでいるのも面白くはない。だから逆に彼女をからかってみるのもいいかもしれない。
「そうだよ。だから彼女になってくれる?」
 やや意地の悪い声で聞き返してみる。
 その瞬間ひなたはまるで一時停止したかのように動きが固まっていた。頬を真っ赤に染めて、そのまま真下へとうつむいてしまう。
 だいたい予想した通りの反応だった。口でこんな事を言う割には、案外この手の会話に慣れていないのだろうことは僕にもわかる。
 変な奴だなと思う。でも嫌いにはなれなかった。無邪気というか、子供っぽいというか。不思議な雰囲気に、もうすでに取り込まれていたのかもしれない。
 隣で祐人も笑っていた。僕がわざと切り返したのがわかったのだろう。
 ひなたは恥ずかしそうに赤く染めた顔のままうつむいていたけれど、不意に僕の方へと顔を上げる。
「ばかぁ」
 ひなたは小さな声で、こぼすつようにつげた。
 なぜか胸が痛んだ。