「ねっ、一緒に歌おうよ」
記憶の中の少女がつぶやいていた。
暖かなブラウンのベレー帽から、肩でふわり波打つ髪を覗かせていた。冬物のジャケットの下に、帽子と同系色のスカート。
大きな丸い瞳が僕をじっと見つめている。少しあどけなさを残した表情が、可愛らしく揺れていた。
彼女は誰だっただろう。僕は彼女の姿を思いだした。なのに彼女の事を何も覚えてはいない。彼女の名前も、年齢も、性格も。今の僕にわかるのは彼女が美優ではない別の少女だということだけ。
「ゆうやけこやけのあかとんぼ~」
「って、歌うのは童謡な訳?」
僕は呆れたように大きく溜息をもらす。しかし少女は気にした様子もなく、ただくすくすと小さな笑みをこぼしながら、伸ばした人差し指を僕へと向ける。
「別に何でもいいんだけど、一緒に歌うなら友希くんが知ってる歌にしようと思って」
「僕は歌わないから」
「えー。歌おうよ。歌った方が楽しいよ」
少女はにこやかな笑みを浮かべたまま、両手を大きく広げて胸を逸らす。
海風が彼女をなでていく。この時期は昼間と言っても風が冷たい。
それでも彼女は空気をいっぱい吸い込んで、嬉しそうにと白い息を吐き出す。冬場にはき出した息が白くなることを、まるで珍しいものをみるかのように嬉しそうに確かめていた。
さすがにこの時期の海浜公園にはほとんど人がこない。街中と違って、空の下で歌うには誰にも迷惑をかけない場所ではあるかもしれない。だからなのか彼女はこの場所を好んで訪れていた。
「相変わらず君は変わっているよね」
「そうかなぁ。普通だけど。でも、私が変だとしたら、それにつき合ってここにいる君もたいがい変だよね」
少女はんーっと声をこぼしながらも眉を寄せるが、それも一瞬のこと。すぐにまた笑顔に戻って、僕からほんの少しだけ距離をとって立つ。
「それなら、私一人で歌うよ。だから友希くんはそこで聴いていてね」
もういちど人差し指を僕へと向けて、それからまるで指揮者のようにその指を振るい始める。
僕は舗装された道にあるベンチに座って、いつものように彼女が歌い出すのを待っていた。
「あの空のように儚いけれど、僕はその手を重ねていた。あの空のようにうつろうけれど、僕は君を探していた」
今度は聴いた事の無い歌を少女は歌う。いや考えてみるとどこかで耳にしたメロディだ。
確か人気のドラマの主題歌だっただろうか。ドラマの事はよくは知らない。美優がこのドラマにでている女優が好きで、いつも話題に出していた事は思いだしたけれど。
でも柔らかなメロディはとても心地よくて、僕はいつの間にか目を閉じていた。
彼女の歌声は僕の心を癒やすかのようで、寒空の中にいるというのに何か暖かなものを感じさせていた。
ただその心地よさに身をゆだねていたら、彼女の歌が終わりを告げていた。少しだけ余韻に浸ったあとに目を開くと、すぐ目の前に少女の顔があった。文字通り目と鼻の先に残るように。
「あ、友希くん。おはよ」
「って。わっ。近いよっ」
のぞき込まれた顔に、慌てて身体を逸らす。あまりにも予想外のことに驚きを隠せずに、僕は思わずベンチから転がり落ちそうになる。
心臓がばくばくと強い音を立てていた。このまま破裂してしまいそうだと思う。
「だって歌い終わっても反応がなかったし。なんだか寝てるみたいだったから、ついでにキスしちゃおうかな、なんて思ったんだけど」
「君は誰か寝てたらキスするのかよっ」
いたずらに告げる少女の言葉に、慌てていたせいかいつもより乱暴な口調で答える。
しかしその瞬間、彼女の顔がみるみるうちに崩れていく。
「ひどい。ほんの出来心なのに、そんな風にいわなくっても」
少女は僕の言葉に傷ついたとばかりに、顔を伏せて目をこすり始める。少しだけ泣き声もこぼしながら、彼女はうつむいたまま震えていた。
けれど僕は目を細めて溜息をつきながら告げる。
「それ、嘘泣きだろ」
「あ、ばれた。もー、友希くんには何で通用しないんだろ。おかしいなぁ。大抵の男の子はこれで『俺がわるかったから』とかって言ってくれるのに」
けろっとした顔を見せて、すぐに顔を上げて笑顔に戻る。何事も無かったかのように、僕の鼻先に伸ばした指先を当てる。嘘泣きがバレた事は全く気にしていないようだ。
たぶん彼女も本気で僕の同情を買おうとしていた訳ではないだろうし、そもそも僕をからかおうとしていただけなのだろう。
「いいかげん君の事は分かってきたからね。出会ってからまだ一月だけど、ほとんど毎日のように会ってる訳だし」
僕はもういちどため息を漏らす。彼女と知り合ってからため息の数が増えたとは思う。
でもそういいつつも、僕はこの時間が嫌いじゃなかった。むしろ僕はそれを望んでいたのだと思う。彼女とのこんなやりとりが、いつも楽しくて僕はここにいるのだから。
「なんだか友希くんには、いろいろ見透かされちゃってるね。お姉さん、寂しいな」
「こんな時ばかり年上ぶらないでくれる? 一つしか変わらないし。それに君の方が、いつも子供みたいだろ」
「あ、ひどーい。どーせ私は子供っぽいですよ。でも子供みたいだからこそ、ずっと夢を追いかけていられるんだから」
「歌のお姉さんだっけ?」
「うん。私、歌好きだし。子供も好きだから。私の歌で子供達が元気になってくれたらいいなって。そう思ってる」
彼女は空を見つめていた。暮れていく空が僕達を包んでいた。
海風がまた彼女を揺らして、長い髪の毛がふわりと舞い上がる。
大して歳も変わらないのに、自分のやりたい事をはっきりと見つけている彼女が、僕には何よりまぶしく感じられた。茜色の空と相まって、彼女の顔をまともに捕らえられない。
僕は何をすればいいのか、何をしたいのかすらもわからない。だけど夢を目指している彼女と過ごすこの時間は、何かを自分でも見つけられそうな気がするし、そんな彼女を応援してあげたいとも思う。
だから僕はこの時間が他の何よりも大切に感じていた。
ほとんど毎日のように僕は彼女のそばにいる事を選んだ。
このままずっと一緒にいたい。そう強く願う。彼女が僕の事をどう感じているかはわからないけれど、僕はただそう願った。
僕の胸の中が強く波打っていることを彼女は知らない。
だからこんなことを言えるのだろう。
「それから。誰にでもキスする訳じゃないよ」
彼女は僕につぶやくように告げて背を向ける。
その頬が少しだけ赤らめてみえたのは、僕の目の錯覚だっただろうか。
僕の思う気持ちと、彼女が思う気持ちが重なっていたらいいと思う。
だから僕はその背中をじっと見つめていた。
「友希、友希ったら」
僕の名を呼ぶ声に、突然に現実に引き戻される。
目の前には美優の姿が見えた。心配そうに僕をじっとみつめている。
「ごめん。ちょっと考え事していた」
僕はそう言って、軽く目を伏せる。
だけど僕の心臓は激しく鼓動していた。ばくばくと痛みすら覚えるほどに強く激しく揺れるから、その音が美優にまで聞こえているんじゃないかとすら思えた。
いま見た風景が僕の頭の中からどうしても離れない。息をすることすらも忘れて、思い返す。
「それなら、いいんだけど。じゃあ、そろそろいこ」
美優の声に時計へと視線を向ける。いつの間にかドラマの放送も終わっていた。
何とか息を吐き出して、ゆっくりと立ち上がる。なるべく自然な様子で、何もなかったようにしなくちゃと思う。
ほんの少し前まで抱いていた浮かれ気分は、今はもう完全に消え去っていた。
思いだした記憶は僕の心を激しく揺らして、ハンマーで殴りつけられたかのような衝撃を僕の頭にたたき込んでいた。
どうして忘れていたのだろう。
どうして忘れたままでいられなかった。
いまこの瞬間に思い出すことは無いのに。
美優とつきあい始めたばかりで、短い時間だけれども初めてのデートで。これから楽しい事をたくさん体験しようと思っていたのに。
僕は思い出してしまった。
名前も覚えていない。忘れてしまっているから。どうやって出会ったのかも、いつ出会ったのかも。
きっと忘れてしまった三十六日間の中に、彼女の記憶は全て埋まっているのだろう。
それでも僕は思い出してしまった。
僕は、あの子のことが好きだったんだ。
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引用元
赤とんぼ 作詞:三木露風 1935年4月19日没 1985年著作権切れ
記憶の中の少女がつぶやいていた。
暖かなブラウンのベレー帽から、肩でふわり波打つ髪を覗かせていた。冬物のジャケットの下に、帽子と同系色のスカート。
大きな丸い瞳が僕をじっと見つめている。少しあどけなさを残した表情が、可愛らしく揺れていた。
彼女は誰だっただろう。僕は彼女の姿を思いだした。なのに彼女の事を何も覚えてはいない。彼女の名前も、年齢も、性格も。今の僕にわかるのは彼女が美優ではない別の少女だということだけ。
「ゆうやけこやけのあかとんぼ~」
「って、歌うのは童謡な訳?」
僕は呆れたように大きく溜息をもらす。しかし少女は気にした様子もなく、ただくすくすと小さな笑みをこぼしながら、伸ばした人差し指を僕へと向ける。
「別に何でもいいんだけど、一緒に歌うなら友希くんが知ってる歌にしようと思って」
「僕は歌わないから」
「えー。歌おうよ。歌った方が楽しいよ」
少女はにこやかな笑みを浮かべたまま、両手を大きく広げて胸を逸らす。
海風が彼女をなでていく。この時期は昼間と言っても風が冷たい。
それでも彼女は空気をいっぱい吸い込んで、嬉しそうにと白い息を吐き出す。冬場にはき出した息が白くなることを、まるで珍しいものをみるかのように嬉しそうに確かめていた。
さすがにこの時期の海浜公園にはほとんど人がこない。街中と違って、空の下で歌うには誰にも迷惑をかけない場所ではあるかもしれない。だからなのか彼女はこの場所を好んで訪れていた。
「相変わらず君は変わっているよね」
「そうかなぁ。普通だけど。でも、私が変だとしたら、それにつき合ってここにいる君もたいがい変だよね」
少女はんーっと声をこぼしながらも眉を寄せるが、それも一瞬のこと。すぐにまた笑顔に戻って、僕からほんの少しだけ距離をとって立つ。
「それなら、私一人で歌うよ。だから友希くんはそこで聴いていてね」
もういちど人差し指を僕へと向けて、それからまるで指揮者のようにその指を振るい始める。
僕は舗装された道にあるベンチに座って、いつものように彼女が歌い出すのを待っていた。
「あの空のように儚いけれど、僕はその手を重ねていた。あの空のようにうつろうけれど、僕は君を探していた」
今度は聴いた事の無い歌を少女は歌う。いや考えてみるとどこかで耳にしたメロディだ。
確か人気のドラマの主題歌だっただろうか。ドラマの事はよくは知らない。美優がこのドラマにでている女優が好きで、いつも話題に出していた事は思いだしたけれど。
でも柔らかなメロディはとても心地よくて、僕はいつの間にか目を閉じていた。
彼女の歌声は僕の心を癒やすかのようで、寒空の中にいるというのに何か暖かなものを感じさせていた。
ただその心地よさに身をゆだねていたら、彼女の歌が終わりを告げていた。少しだけ余韻に浸ったあとに目を開くと、すぐ目の前に少女の顔があった。文字通り目と鼻の先に残るように。
「あ、友希くん。おはよ」
「って。わっ。近いよっ」
のぞき込まれた顔に、慌てて身体を逸らす。あまりにも予想外のことに驚きを隠せずに、僕は思わずベンチから転がり落ちそうになる。
心臓がばくばくと強い音を立てていた。このまま破裂してしまいそうだと思う。
「だって歌い終わっても反応がなかったし。なんだか寝てるみたいだったから、ついでにキスしちゃおうかな、なんて思ったんだけど」
「君は誰か寝てたらキスするのかよっ」
いたずらに告げる少女の言葉に、慌てていたせいかいつもより乱暴な口調で答える。
しかしその瞬間、彼女の顔がみるみるうちに崩れていく。
「ひどい。ほんの出来心なのに、そんな風にいわなくっても」
少女は僕の言葉に傷ついたとばかりに、顔を伏せて目をこすり始める。少しだけ泣き声もこぼしながら、彼女はうつむいたまま震えていた。
けれど僕は目を細めて溜息をつきながら告げる。
「それ、嘘泣きだろ」
「あ、ばれた。もー、友希くんには何で通用しないんだろ。おかしいなぁ。大抵の男の子はこれで『俺がわるかったから』とかって言ってくれるのに」
けろっとした顔を見せて、すぐに顔を上げて笑顔に戻る。何事も無かったかのように、僕の鼻先に伸ばした指先を当てる。嘘泣きがバレた事は全く気にしていないようだ。
たぶん彼女も本気で僕の同情を買おうとしていた訳ではないだろうし、そもそも僕をからかおうとしていただけなのだろう。
「いいかげん君の事は分かってきたからね。出会ってからまだ一月だけど、ほとんど毎日のように会ってる訳だし」
僕はもういちどため息を漏らす。彼女と知り合ってからため息の数が増えたとは思う。
でもそういいつつも、僕はこの時間が嫌いじゃなかった。むしろ僕はそれを望んでいたのだと思う。彼女とのこんなやりとりが、いつも楽しくて僕はここにいるのだから。
「なんだか友希くんには、いろいろ見透かされちゃってるね。お姉さん、寂しいな」
「こんな時ばかり年上ぶらないでくれる? 一つしか変わらないし。それに君の方が、いつも子供みたいだろ」
「あ、ひどーい。どーせ私は子供っぽいですよ。でも子供みたいだからこそ、ずっと夢を追いかけていられるんだから」
「歌のお姉さんだっけ?」
「うん。私、歌好きだし。子供も好きだから。私の歌で子供達が元気になってくれたらいいなって。そう思ってる」
彼女は空を見つめていた。暮れていく空が僕達を包んでいた。
海風がまた彼女を揺らして、長い髪の毛がふわりと舞い上がる。
大して歳も変わらないのに、自分のやりたい事をはっきりと見つけている彼女が、僕には何よりまぶしく感じられた。茜色の空と相まって、彼女の顔をまともに捕らえられない。
僕は何をすればいいのか、何をしたいのかすらもわからない。だけど夢を目指している彼女と過ごすこの時間は、何かを自分でも見つけられそうな気がするし、そんな彼女を応援してあげたいとも思う。
だから僕はこの時間が他の何よりも大切に感じていた。
ほとんど毎日のように僕は彼女のそばにいる事を選んだ。
このままずっと一緒にいたい。そう強く願う。彼女が僕の事をどう感じているかはわからないけれど、僕はただそう願った。
僕の胸の中が強く波打っていることを彼女は知らない。
だからこんなことを言えるのだろう。
「それから。誰にでもキスする訳じゃないよ」
彼女は僕につぶやくように告げて背を向ける。
その頬が少しだけ赤らめてみえたのは、僕の目の錯覚だっただろうか。
僕の思う気持ちと、彼女が思う気持ちが重なっていたらいいと思う。
だから僕はその背中をじっと見つめていた。
「友希、友希ったら」
僕の名を呼ぶ声に、突然に現実に引き戻される。
目の前には美優の姿が見えた。心配そうに僕をじっとみつめている。
「ごめん。ちょっと考え事していた」
僕はそう言って、軽く目を伏せる。
だけど僕の心臓は激しく鼓動していた。ばくばくと痛みすら覚えるほどに強く激しく揺れるから、その音が美優にまで聞こえているんじゃないかとすら思えた。
いま見た風景が僕の頭の中からどうしても離れない。息をすることすらも忘れて、思い返す。
「それなら、いいんだけど。じゃあ、そろそろいこ」
美優の声に時計へと視線を向ける。いつの間にかドラマの放送も終わっていた。
何とか息を吐き出して、ゆっくりと立ち上がる。なるべく自然な様子で、何もなかったようにしなくちゃと思う。
ほんの少し前まで抱いていた浮かれ気分は、今はもう完全に消え去っていた。
思いだした記憶は僕の心を激しく揺らして、ハンマーで殴りつけられたかのような衝撃を僕の頭にたたき込んでいた。
どうして忘れていたのだろう。
どうして忘れたままでいられなかった。
いまこの瞬間に思い出すことは無いのに。
美優とつきあい始めたばかりで、短い時間だけれども初めてのデートで。これから楽しい事をたくさん体験しようと思っていたのに。
僕は思い出してしまった。
名前も覚えていない。忘れてしまっているから。どうやって出会ったのかも、いつ出会ったのかも。
きっと忘れてしまった三十六日間の中に、彼女の記憶は全て埋まっているのだろう。
それでも僕は思い出してしまった。
僕は、あの子のことが好きだったんだ。
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引用元
赤とんぼ 作詞:三木露風 1935年4月19日没 1985年著作権切れ