知ってるよ。透子のものだって、私は知ってる——。
 言えもしない言葉を脳裏に並べる。掌の上に視線を落としながら、なにかを、思い出を巡らせているような彼の瞳から私は目を逸らす。そのなかに、透子として生きていた私がいないことも、私は知っていた。

「実はさ、このストラップ……持ち主の親友に託されたんだよ」
「え……?」
「持ち主は高校時代に火事で亡くなって、このストラップだけが綺麗に残ってた。……見つかった後、彼女の親友が『綾崎が持っててよ』って」

 責任重大だろ——。そう笑う先生の目元が切なくて、胸が強く締め付けられる。“彼女の親友”が咽び泣きながら彼に託す姿が浮かんで、鼻の奥がツンと痛む。
 私は広げられたままの彼の掌を、両手で上から握りしめた。私の知らない青春に身を焦がした、彼と彼女たちの思い出をしっかり閉じ込めるように、強く握った。

「遠山……?」
「じゃあ、絶対失くしちゃダメじゃん。落としちゃダメじゃん。……絶対、忘れないでね。その彼女のこと」

 宮城透子——彼女本人とは一度も会ったことはないけれど、私たちは確かに同じ想いで結び付いていた。私がこんなことを言うのは烏滸がましいかもしれないけれど、貴方は、彼の心にずっと残っていてほしい。
 そう願いを込めた手の甲に、ぽたりと涙が落ちる。睫毛に弾けたその雫は、先生の掌にもじわりと滲む。
 私は手を剥がして、急いでそれを拭った。

「遠山、」
「ご、ごめんなさいっ……あの、別に深い意味は、」

  —— “泣き虫だな、意外と”

 なんでこんなときに——。高校時代の綾崎くんの声で再生された言葉が、こんなときに染み渡る。
 ……あのときは否定したけど、綾崎くんの言う通りだったよ。なんて、いま認めても仕方がないのに。真っ直ぐ、誠実な瞳でこちらを覗き込む先生は、泣き虫な私のことなんて知らないのに。

「あ……もう、昼休み終わります、よね……。行きますね、ごめんなさい……っ」
「遠山——……!」

 扉の方へ向かいながら、スカートのポケットからハンカチを取り出す。しばらくアイロンをかけ忘れていたそのハンカチは所々シワが目立っていて、私も十分ガサツじゃん、と涙を拭った。
 拭うことに必死で、私は気づくことができなかった。

「遠山、お前なにか落として——」

 ハンカチを取り出した拍子、同じポケットから滑り落ちた、彼からの唯一の贈り物。猫が好きか、と訊いた彼の照れ臭そうな表情が、そのマスコットと一緒に蘇る。

「それは……、」

 床から拾い上げる先生を振り返り、同じ目線になってしゃがむ。
 だって、そのマスコットを手にしてから、先生はなかなか浮上して来ない。「綾崎先生」と名前を呼んでも、丸まった形の三毛猫を見据えたまま動かない。
 私は湿ったハンカチを握りしめたまま、黒いビー玉を覗き込む。固まってしまった先生は、内側でなにかを逡巡しているように見えた。

 キーンコーン——……。
 チャイムが鳴り響く。彼の顔が持ち上がったそのとき、絡まった視線に息が止まりそうになる。薄い唇がゆっくりと割られて、私は脈をドクンと沈めた。

「千怜——……」

 ………………え?

 綾崎先生の唇がそう紡いだあと、熱を帯びた視線に固まる。お守りのように握っていた問題集がパサリと落ちて、瞬間、聞き覚えのある鳴き声が「にゃあ」と横から呑気に響いた。
 視線をやって、隅に丸まった三毛猫に記憶を呼び起こされる。

「なによ……本当に、もう……いつも大事なこと、言わないんだから——」

 止まっていた涙が、再び蛇口を捻ったように溢れ出す。すっかり湿ったハンカチにもう吸い込む力は残っていなくて、拾い損なった雫ははらはらと床に落ちる。

「千怜……遠山が、」
「うん……っ、千怜だよ……私が、千怜だよ」

 瞬間、先生の指が伸びてそれを掬い上げるから、私は余計に頬を濡らした。ずっと触れたかったその掌に、自分の掌を重ねてそっと微笑む。先生は少し困ったように眉を下げて、「やっぱり泣き虫だな」と笑みを溢した。


 —— “アンレコードから持ち出した物に触れると、その人物はアンレコードの記憶を一時、呼び起こす”


 現代へ戻る前、眠りに就く寸前の脳髄へ響いていた嗄れた声。辿った私は、再び態度の大きな三毛猫へ視線を流す。
 ……大事なことをあんなギリギリに言うなんて、本当に怠慢よ。

「にゃあ~」

 全く悪気の無さそうなその猫は『意識の薄いお前が悪い』と、また屁理屈を垂れているような気がした。


『茜色のフィクション』了