敬遠していたはずの数学準備室の扉が、今はなぜか煌めいて見える。友人が教えてくれた朗報を浮かべながら、私はその扉に手を翳す。たった二日会っていないだけなのに、触れた指先から伝う緊張が吐息を震わせた。
コンコンコンッ——。小さなノックが準備室へ吸い込まれていく。
「はーい」
まだ少し鼻声で、気怠げに伸びたその返事に心音が荒いだ。
「失礼します」
「ん……珍しいな。どうした?」
扉を開くと、参考書に埋もれた机の向こうで先生が目を丸くする。慣れない数学準備室の香りと、会えない間、何度も夢に描いた先生の表情がなんだかアンバランスで、私は思わず笑みを溢した。
狭い部屋を見渡せば、天井ギリギリまで伸びた本棚が両壁に佇んでいて。足を進めても進めても参考書だらけのラインナップに、頭が少しキンとした。
「先生、いつもこんなところにいるから体調崩すんですよ」
「なんだよ。説教垂れに来たのかー」
「風邪、治りましたか?」
「治りましたよ。お陰さまで」
ふっ、と笑みを落としながら、先生は立ち上がる。その後、本棚から迷いなく一冊抜き出して「これとか、お勧めだぞ」と唐突に差し出した。
「『よく解る、関数の手引き』……?」
「前のテスト、遠山は三角関数が悪かったろ。それ解いてみて、わかんないとこは聞きに来な」
ほい。と突き出された問題集を条件反射で受けとる。見た目よりもずっしりと重たくて、私は苦笑を落とした。
「あ、ありがとう、ございます……」
「いいよ。で、どうした?」
「え?」
「俺にも用があって来たんだろ」
参考書から持ち上げた視界に、先生の笑みが映る。てっきり数学に意識が向けられていると思っていたので、私は目を丸くする。
……そういえば、『生徒の数学準備室への立ち入りは、授業関連の相談に限る』と書かれた貼り紙が部屋の前にされていたっけ。
「あの……いいんですか。私、これから話すこと、授業と関係ありません」
今さら怖じ気づいて肩を竦めると、先生は短い息を吐く。
「いいよ。……アレは、俺の仕事の邪魔する生徒が増えたから貼っただけ。今回も一応、道理は通したし」
「邪魔じゃないの?」
「邪魔じゃねぇよ」
クシャッ、と頭を撫でられる。少し骨ばった手の感触も、降りてくる熱も懐かしく感じて、私はキュッと口を結んだ。そうでもしなければ、感情が溢れだしてしまいそうだったから。
「で、どうした」
覗き込む、レンズの奥の黒い瞳。私は分厚い問題集を握りしめて、そっと唇を割った。
「落とし物、届けに来たの」
「落とし物?誰の?」
「……先生の、落とし物」
胸ポケットに沈んだ、イルカの形を指先が拾い上げる。かつて、透子の携帯電話にぶら下がっていたストラップのイルカが、先生の瞳に映し出された。
差し出すと、彼の大きな掌に乗せられたイルカは、照明をキラキラと反射する。アンレコードで見たときよりも目立つ傷跡が、現代と繋がっていないことを証明しているようで、私の目には痛かった。
「……なんでお前が、」
「面談のとき、先生が落としてったの。……渡すの遅れちゃって、ごめんなさい」
頭を垂れようとする前に、先生は「いいよ、そんなん」と朗らかに微笑む。すると、ポケットから取り出した何かの鍵を翳して、眉を下げた。
その鍵にぶら下がった紐だけのストラップが、悲しげに揺れていた。
「切れたのか、こっから」
「……うん、たぶん。家の鍵?」
「いや。この準備室の鍵。……元々、これは俺のものじゃないからな」
コンコンコンッ——。小さなノックが準備室へ吸い込まれていく。
「はーい」
まだ少し鼻声で、気怠げに伸びたその返事に心音が荒いだ。
「失礼します」
「ん……珍しいな。どうした?」
扉を開くと、参考書に埋もれた机の向こうで先生が目を丸くする。慣れない数学準備室の香りと、会えない間、何度も夢に描いた先生の表情がなんだかアンバランスで、私は思わず笑みを溢した。
狭い部屋を見渡せば、天井ギリギリまで伸びた本棚が両壁に佇んでいて。足を進めても進めても参考書だらけのラインナップに、頭が少しキンとした。
「先生、いつもこんなところにいるから体調崩すんですよ」
「なんだよ。説教垂れに来たのかー」
「風邪、治りましたか?」
「治りましたよ。お陰さまで」
ふっ、と笑みを落としながら、先生は立ち上がる。その後、本棚から迷いなく一冊抜き出して「これとか、お勧めだぞ」と唐突に差し出した。
「『よく解る、関数の手引き』……?」
「前のテスト、遠山は三角関数が悪かったろ。それ解いてみて、わかんないとこは聞きに来な」
ほい。と突き出された問題集を条件反射で受けとる。見た目よりもずっしりと重たくて、私は苦笑を落とした。
「あ、ありがとう、ございます……」
「いいよ。で、どうした?」
「え?」
「俺にも用があって来たんだろ」
参考書から持ち上げた視界に、先生の笑みが映る。てっきり数学に意識が向けられていると思っていたので、私は目を丸くする。
……そういえば、『生徒の数学準備室への立ち入りは、授業関連の相談に限る』と書かれた貼り紙が部屋の前にされていたっけ。
「あの……いいんですか。私、これから話すこと、授業と関係ありません」
今さら怖じ気づいて肩を竦めると、先生は短い息を吐く。
「いいよ。……アレは、俺の仕事の邪魔する生徒が増えたから貼っただけ。今回も一応、道理は通したし」
「邪魔じゃないの?」
「邪魔じゃねぇよ」
クシャッ、と頭を撫でられる。少し骨ばった手の感触も、降りてくる熱も懐かしく感じて、私はキュッと口を結んだ。そうでもしなければ、感情が溢れだしてしまいそうだったから。
「で、どうした」
覗き込む、レンズの奥の黒い瞳。私は分厚い問題集を握りしめて、そっと唇を割った。
「落とし物、届けに来たの」
「落とし物?誰の?」
「……先生の、落とし物」
胸ポケットに沈んだ、イルカの形を指先が拾い上げる。かつて、透子の携帯電話にぶら下がっていたストラップのイルカが、先生の瞳に映し出された。
差し出すと、彼の大きな掌に乗せられたイルカは、照明をキラキラと反射する。アンレコードで見たときよりも目立つ傷跡が、現代と繋がっていないことを証明しているようで、私の目には痛かった。
「……なんでお前が、」
「面談のとき、先生が落としてったの。……渡すの遅れちゃって、ごめんなさい」
頭を垂れようとする前に、先生は「いいよ、そんなん」と朗らかに微笑む。すると、ポケットから取り出した何かの鍵を翳して、眉を下げた。
その鍵にぶら下がった紐だけのストラップが、悲しげに揺れていた。
「切れたのか、こっから」
「……うん、たぶん。家の鍵?」
「いや。この準備室の鍵。……元々、これは俺のものじゃないからな」