「……なら、安心して送り出せるな」

 綾崎くんは瞳に熱を持たせたまま、眉を少し下げて嘆息を吐く。すると視界から一瞬消えた彼は、落としたままの学ランを拾い上げて、再び私の肩に掛けた。襟を掴んだままの手の甲から、頬に冷気が掠めていた。

「名前、もう一回聴かせて」
「……千怜」
「千怜」

 屈んで、合わせられた同じ角度の視線が交わる。初めて彼に名前を呼ばれて、私は涙をはらはら溢した。
 ずっと泣いてることは出来ないけれど、たぶん、涙に限りはないんだろうなぁ——そう思いながら、私は頬を緩ませる。すると、ガーゼの内側に染み込む涙が火傷の痕をジクリと刺して、火事場から私を(たす)けてくれた彼の背中を思い出した。

 本気で心配して怒ってくれたときの顔も、挑発するような笑みも、照れたときに見せる仕草も、甘い歌詞を紡ぐ優しい歌声も——……些細なことも、全部、全部憶えてるから。あなたが忘れてしまっても、私が全部、憶えてるよ。

「遠山千怜」
「え?」
「今度は、遠山千怜って……呼んで」

 拭っても拭いきれない涙を纏ったまま、困ったように瞬きをした綾崎くんを見上げる。

「お願い……呼んで」

 襟を掴んだ彼の手を上から握ると、やっぱり冷たくて。最後に言おうとしていた言葉よりも先に「風邪引かないで」なんて老婆心が溢れだして、私はそっと笑みを落とした。

「……遠山、千怜——」

 薄い唇が、ゆっくりと私の名前を刻む。壊さないように包み込む、その朗らかな温度に酔いしれる。
 ——そして、そのときは訪れた。

 キィン。
 耳鳴りのように、脳髄へ鋭く響く音。現代に居たときの一番新しい記憶、棺のなかで聴いた音と合致して、同時に私は頭を押さえた。

「千怜……?」

 私の手を握る温度も、眉を寄せた表情にも、次第に靄が掛かっていく。
 私は最後に三毛猫の足音を聴きながら、震える唇を開いて喉を絞った。

「……ありがとう、綾崎くん——さようなら」


 ————…………。

 “ File No.12 Chisato Toyama. ”
 “ Your choice is to Return. No refund.”
 “ Light up after a few seconds. Attention please.”

 あの言葉は、しっかり届いたのだろうか。綾崎くんにちゃんと伝わっただろうか。
 目の前が暗闇に包まれて、見覚えのある書体で並べられる無機質な英文。私には瞬時に訳す気力はなく、しかし“No refund”が意味するところは訳さずとも理解は出来た。

「……引き返すことは、出来ない」

 先ほどまで背を温めてくれていた彼の温度が、すでに懐かしい。それほどに冷たい壁が四方で私を覆っていた。

『チサト。目を閉じろ』

 やけに久しく感じられるのは、この嗄れた声も同じだ。姿は見えずとも、聞き覚えのある声に私は安堵した。

「ざらめ……」
『……お前は最後まで手間を掛けさせるな。いいから早く閉じろ、阿呆』

 来るときにもあったな、こんなこと。
 たった一日経ただけなのに、大昔のことのように感じられる。瞼を閉じた先で、白い光が放たれている様子も懐かしい。

『ちなみに二つ言い忘れておったが、お前が戻るのは現代で最後に居た時間、つまり学園祭前日だ』

 ……なによ。また言い忘れ?
 最後まで怠惰な案内役に息を吐きながら、私は窮屈に頷いた。

『それと——』

 しかし二つ目を聞く前に私は強い眠気に誘われて、重くなった瞼の下で夢を見ていた。

 綾崎くんが、私の名前を呼んで笑ってくれている。そんな幸せな夢だった。