日はすっかり落ちて、校内から漏れた蛍光灯の光がほんのり私たちの影を映し出す。何も言わない彼を前に立ち上がると、学ランが後ろに軽く靡いた。

「ごめんって、何がだよ」

 低い声が二人の影に落ちる。

「……私は、本当の私に戻りたいから。戻るって決めたから」

 喉から絞り出した声が、震えたまま溶けていく。

「綾崎くんの、綾崎くんのとなりに……もっと傍に居たかった。透子のままでもいいから、ずっと一緒に居られたらって思ってたんだよ」
「っ、じゃあ何で——」
「だって、私は透子じゃない」

 こんなことまで言うつもりじゃなかった。頭のなかで何度も、何度も整えたはずなのに、紡がれる言葉も溢れそうになる涙も全部、予定外だ。

「綾崎くんが今日、一緒に居て楽しいって言ってくれた私のことを、もう見失いたくない」

 溜めていた熱い泉は溢れた瞬間、冷たい雫となって頬を伝う。一度流れればそれは堰を切ったように溢れ出して、視界には校内の光が粒のように浮かんだ。
 暗闇に包まれたのは、その直後。

「……分かったから、あんま泣くな」

 肩から学ランが滑り落ちて、代わりに柔らかい体温が私を包み込む。瞬きをして雫を溢せば、綾崎くんの瞳が頭上から覗いたので、私は体を硬直させた。

「お前に泣かれると、調子狂う」
「だ、だって、」
「……あんま、慣れてないんだよ。こういうの」

 少し強引に、彼の腕が私の体を締め付ける。目の前から聴こえてくる鼓動が心地よくて、私は思わず目を閉じた。

「慣れてない、って……本当?」
「なんで嘘つくんだよ」
「だって……綾崎くん、モテるから」
「モテねぇよ」
「嘘つき」

 夜の匂いと綾崎くんの匂いが混ざって、でも次の一瞬で彼の匂い一色になる。より強く抱き締められたからだと気づいて、私は負けないようにその背中に手を回した。

「こんなことしたら、先生に怒られちゃうかな」
「さぁな……ロクな教師になってるか知らねぇけど」
「ロクでもなくはないよ」
「なんだそれ」
「ふふっ。あのね、私、先生にも綾崎くんと同じようなこと言われたんだ」

 ゆっくりと剥がされる体温。隙間に縫い込む冷気が、私たちの頬を撫でる。

「私には何もない、個性がないって打ち明けたら『遠山(おまえ)はどうしたって目の前の俺にはなれない。それだけで個性だ』——って」

 風に攫われて横に流れた涙を、彼の指が優しく掬う。

「まあ、同一人物だしな」

 と、頬に乗せられた笑みに、つられて笑う。黒い縁の眼鏡を掛けた担任教師を重ねて、笑った。

「戻っても私、きっと先生のこと好きなままだ」
「え?」
「——私、綾崎くんのことが好きです」

 いまはまだ透子の声でしか届けることは出来ないけれど、いつか私の声で、ちゃんと届けられるかな。
 瞳に込めて見上げると、綾崎くんはただ優しく頷いて「知ってる」と放つ。あまりに可愛げの無い反応なので、私は、

「音楽も好き。歌を歌うのも好き。『レイニー』も好き。パンケーキも好き。茜色に染まるこの廊下も好き。暗号を解くのも好きになったし、……あと、猫もわりと好き」

 と矢継ぎ早に続けた。

「多いな」
「いままで、ずっと仕舞い込んでたから」
「え?」
「繕うのはやめて、素直に好きなものを好きだって言うことにしたの。……綾崎くんに、一番に伝えたかったの」

 劣等感と書いたラベルを剥がして宝箱に詰め込んだ宝物が、瞬く間に世界を彩る。

「他の誰に理解してもらえなくても、私は綾崎くんに伝わればそれで——、」