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「透子~!お待たせ!」

 暗幕を張った視聴覚室の前で、羽純の呼び掛けに手を振り返す。オリ先輩の一件で萎んでいた彼女のポニーテールは、すっかり活気を取り戻していた。

「羽純、ありがとうね」
「ううん。実はアタシも聴いてみたかったんだよね~!あ、心優は足が限界だから休憩したいって、今回は見送り」
「そっか……主演女優さまさまだね」

 全力でレイニーを演じていた心優の顔を、脳裏に浮かべる。
 彼女を説得したとき、思わず自分の心境を重ねてしまったけれど、心優の立ち直りの早さは脱帽ものだ。きっとクラスメートたちと積み上げてきた過程と、拘り抜いたレイニーへの愛情が彼女の支柱になっていたのだろう。

「もうね、大盛況。最後の公演なんてスタンディングオベーションが起こっちゃって——」

 先に視聴覚室の扉を潜りながら興奮気味に話す羽純は、中途半端に台詞を切る。首を傾げて彼女の後に続くと、私も同じように息を呑んだ。

「うわ、雰囲気やばぁ……てか、綾崎ってギター弾くんだっけ?」
「……うん。もう弾いてるね、テストかな……」

 部屋の最後部に身を潜めながら、ステージに登ったバンドメンバーたちを見据える。
 暗幕で自然光を遮断されたその部屋には、ステージに向けられた丸いライトだけが光を灯していて、彼らの手元や楽器の細部までもを妖艶に映し出す。綾崎くんの手元ではギターがキュッ、と鳴き、次には優しく弦を弾く音が心臓を貫いた。
 ライブの開始前なので、最終チェックを施しているところなのだろうが——……いまでも十二分に眩しすぎる。

「ね、もっと前行こうよ!」
「えっ、」

 いっぱいいっぱいな私などお構いなしに、羽純は強引に観客をすり抜ける。腕を掴まれているので、私はもちろん強制連行だ。

「ほい来たー!けっこう前でしょコレ!」
「一番前だね、はじっこだけど」

 さすがは羽純と言うべきか。「ちょっと通して~」「ごめんね、背が低いので前行かせて」の乱用でステージ横のスペースを勝ち取り、したり顔を披露した。
 いいのかな……こんなに前に来ちゃって。バンドメンバーの顔面偏差値が高いせいか、ギャラリーは女子が圧倒的に多いので余計に気が引ける。すでに「クガ~!」と反対側から黄色い声も聴こえてくる。
 呼ばれた久我山くんはベースで華麗にスラップしながら、歓声に応えていた。

「うわ、チャラいなぁ~久我山」
「大人気だけどね」

 羽純の感想に同意しながらも、彼に寄せられる歓声に納得する。おかげでライブ直前のボルテージは、最高潮に達している。
 そして、私の視界はピントを絞ったかのように一点だけを映し出した。

「マイクチェック、チェックワンツー……」

 センターで、スタンドマイクに寄せられた薄い唇が、滑らかにフレーズを刻む。視線を落としたときに見える二重幅も、ギターの弦を押さえる長い指も、パーカーに少し隠れる襟足も、全てが胸を締め付ける。

「……かっこいい……」

 そう溢れるのは必然だった。でもまさか、その瞬間に視線が流されるなんて思ってもみなくて、

「——?!」

 白い照明を呑み込んだ黒い瞳が、私の瞳をも簡単に呑み込んで、思わず声にならない声を鳴らした。極めつけには彼の片頬に優しい笑みが乗せられて、私はすでに卒倒寸前だ。

「ね、綾崎いま見たよね?!トーコの方見たよね?!」

 周りのファンたちを気遣ってか、少し声を潜めた羽純の吐息が傍で響く。しかしあまり潜めた意味がないほどの興奮が、私の肩を揺する掌から伝わっていた。

「見た……かな……」
「見たって!ぜっったい、笑ってたし」
「うん……たしかに、笑ってた、かも」
「も~~!今日一日でどんだけ進展してんの?!てか、後でちゃんと聴かせてよね!」

 “後で”。一層活気づいた彼女のポニーテールを見つめながら、頭の中にその言葉が取り残される。暗幕の掛かった窓の方、サッシに窮屈そうに横たわるざらめを見据えて、私はタイムリミットの話を思い出していた。