「泣き虫だな、意外と」
「そ、んなこと……ないはずなんだけどなぁ……ごめん、」

 パーカーの袖で拭おうとすると、同じ色を纏った彼の腕が伸びる。

「無理して引っ込めなくていいから」

 そうして手首を掴まれて拭うのを止められた瞬間、彼のことをまた好きになる。天然タラシというのは、きっとこの人のことだ。

「人間、ずっと泣けるようには出来てねぇだろうし」
「ふふっ……なにその理屈」
「理屈じゃなくて、真理だろ」

 真面目な顔で言うので、私は頬を緩める。適当なことを言っているようで、実は核心を突くようなところは、十年後の彼に通じている気がした。
 十年後……綾崎先生に全部打ち明けたら、驚くかな。信じてくれるかな。十年前のあなたに恋をして、とても離れがたいです——なんて。

「綾崎くん……あのね——」
「いいよ」
「え?」
「今は、まだ言わなくていい」

 えんじ色の裾が伸びてきて、私の頬を優しく擦る。涙を吸った彼のパーカーに視線を落とすと、今度は強引にその裾で視界を塞がれた。

「えっ、な、なに?!」
「ライブのリハ、これからだから」
「……え?」

 真っ暗になった視界へ、緊張感を灯した彼の吐息が割り込む。なにも見えないはずなのに、綾崎くんの熱がすぐ傍にあると分かって心臓は大槌を叩く。

「そのあと、四時からのライブ……お前に聴いてほしい」

 ——“伝えたい奴に伝わればいい”
 同時に、綾崎くんが放っていた言葉が脳内で再生される。

「……私で、いいの?」
「ああ。矢澤か誰か、誘ってもいいし」

 これは照れ隠しなのだろうか。もしかして、視界を塞いだのも……?
 脱線した思考を取り戻しながら、私は縦に大きく頷く。しかし、彼はまだ視界を解放しないまま、息を整えて続けた。

「あともう一つ、頼みがある」
「頼み——?」

 ✦

 リハーサルに向かった綾崎くんを見送った後、私は一人中庭の花壇に座り、空を泳ぐ鳥たちを見上げていた。

『そろそろ冷える頃であろう、中に入ったらどうだ』

 一人ではなかった。正確には一人と一匹。私にしか視えないらしい、ふてぶてしさ満載の三毛猫が隣で身を丸めている。

「中に入りたいのはあんたでしょ。入ってればいいじゃない」
『案内役だと言っただろう。簡単に傍を離れるわけにはいかないんでな』
「肝心なときには居ないくせに」
『何を言う。職務は全うしているぞ』

 俗的な単語を放つ猫の背を見下ろすと、そのオレンジ色の瞳とかち合う。学祭を後にする保護者や他校の生徒たちの声が、乾いた風に運ばれる。いよいよ学祭も終盤か、と思い伏せながら、しかし彼らの気配に意識を寄せることは出来なかった。無論、ざらめが放った台詞のせいだ。

『——戻る方法は一つ。アンレコードのなかで、そしてお前自身の前で誰かに“トオヤマ チサト”の名を呼ばせることだ』

 どうしてこの三毛猫は、こうも突然、大事なことを気まぐれに言ってくるのだろう。

 私は再び空を仰ぎ、器用に泳ぐ鳥の群集を眺めた。
 きっと、あの鳥たちにも一羽一羽違う意思があって、自分を一所懸命に生きている。他の鳥を羨んだり無い物ねだりをしながら、自分の翼で空を泳いでいる。——特別な何かが与えられていなくても、平凡でも、自分の翼で懸命に泳ぐ姿が、私の瞳には眩しく映った。

「どうして、今教えてくれる気になったの」

 視界から消えていく鳥たちを見送り、ざらめに訊ねる。

『気が向いたからな』
「……そう」
『タイムリミットは、お前が透子の体に入ってから二十八時間が経過するまで——つまり午後七時四十二分までだ』
「……だから、そういう大事なことをなんで先に言わないのよ。あんまり時間無いじゃない」
『お前には、もう必要ないと思っていたからな』

 主軸(もと)のセカイに戻る方法は——。
 呑気に続けたざらめは、暖をとるためか私の腿にすり寄る。その姿は、綾崎くんに貰ったマスコットの三毛猫とよく似ていた。

「タイムリミットを過ぎたらどうなるの?」
『アンレコードで、透子のまま過ごすことになるな』
「なるほどねー。確かに、それも悪くないわ」
『まあ、好きにしろ。ワタシはどちらでも構わん』

 ふぁ、と口を縦に広げたざらめから欠伸が移る。
 透子として生きていくのも確かに捨てがたいけれど、もし戻ったらこの猫の悪態から解放されるのか。……案外、迷いどころかもしれない。
 そんな冗談を浮かべながら、立ち上がってスカートを払う。

「さ、行くよ」
『急に立ち上がるなっ、寒いではないか』

 やけに馴染んでしまった奇想天外な三毛猫を連れて、私は再びオレンジ色に染まった校舎へ足を踏み入れた。