自分の吐息が縦に揺れ、溢れきった涙は横に流れる。私は廊下を駆け抜けながら、綾崎くんが放った言葉を反芻した。
——“宮城透子”じゃないんだろ。
いつから、一体、いつから気づいていたの。私が“透子”の皮を被った別人だと、いつから気づいてた……?
「ハァッ——……」
別人に成り代わっても傍にいたいと願っていた彼から、私は出来る限り遠くへ逃げたかった。逃げる寸前、「おいっ!」と手首を捕まれたけど、それも一心不乱に振り払った。
アンレコードから追い出されてしまったら、同じ時間を過ごした綾崎くんとはもう会えない。綾崎くんや、羽純や、心優の記憶から消え去ってしまう。新しいセカイで見つけた新しい私の居場所は、最初から無いことにされてしまうのだから。
「そんなの嫌……私は戻りたくなんて——、」
出掛かった言葉は、寸前で塞き止められる。またしても、中途半端な千怜の影が聳えて邪魔をしているのだろうか。
同時に走っていた足を緩めると、階段横のスペースに居る女子生徒たちから視線を注がれる。私の顔を一瞥して、ひそひそと何か話していた。
……関わらないでおこう。現代で、佳子たちから注がれた視線と似た雰囲気を感じた私は、涙を拭って彼女たちから遠ざかろうと後退する。
「宮城さん」と、その中の一人に声を掛けられたのは、踵を返した直後だった。
「ちょっと話さない?」
こちらの警戒心を煽らないためか、声色は優しく、しかし笑みはとても不自然だ。
「……話……?」
私は同じように笑みを返す。見上げれば、二階へ続く階段の裏側が灰色を落としている。まるで、白黒ハッキリしない私の心のようだった。
「久しぶりだよね、こうやって話すの」
「そういえば、昨日のアレ、大丈夫だったの?」
「それ。つーか、まだ怪我してんじゃん」
呆けていると、女子三人が交互に口を割っていく。はじめは暗がりでよく分からなかったけれど、三人とも同じ水色のパーカーを着ていた。私たちとは違うクラスなのだろうけど、“2ー3” と胸元に書かれているのを見る限り同学年だ。
そう推測しながら、ワンレンボブの女子に指された頬を自分の手でそっと擦る。小さな火傷痕を覆ったガーゼの感触が、どこか懐かしい。
怪我をしていたことなんて、もうすっかり忘れていた。忘れていたのに、思い出すと傷口がジンジンと痛みを呼び起こす。
——もし、綾崎くんに見抜かれることがなかったら。私はいつか、遠山千怜であるということを忘れてしまったのだろうか。
「ねえ、宮城さん?聞いてんの?」
瞬間、大きな瞳が覗き込む。私は愛想笑いを浮かべながら「ごめん。怪我は大丈夫だよ」と答えた。覗き込んだ女子生徒は毛先を綺麗に巻いていて、揺れる度に漂うバニラの香りが鼻孔を突いた。
「ふうん。まぁ、軽傷だって言われてたもんねぇ」
腕を組みながら私を映すその瞳は、爪先からゆっくり持ち上がるように動く。視線が交わったとき、真ん中に立つその彼女は佳子を彷彿とさせた。背丈も風貌も口調も、彼女たちはよく似ている。
……さて、ここで一旦説明が欲しいところだけど、肝心の案内猫は——、
『猫使いが荒いなお前は……まあ、仕方ないから教えてやる』
例によって足元で横たわる三毛猫に視線を下ろす。一言多い性質にも大分慣れ、私は心の中でも悪態を述べることなく続きを待った。
『真ん中の女生徒はカモタ リカという名で、トウコが一年のときに同じクラスだったやつで、そこまで親しい仲ではないな。悪いが、他の女生徒についてはデータがない』
十分よ、ありがとう。と、彼女たちへ視線を戻す。
アンレコードでの処世術が染みついてきたのか、周りと接する内に透子の人となりも分かってきたのか、彼女たちと話すことに不安はあまりない。カモタ リカの表情からは百田佳子がくっきりと浮かぶのに、自分でも驚くくらいに落ち着いていた。
——“宮城透子”じゃないんだろ。
いつから、一体、いつから気づいていたの。私が“透子”の皮を被った別人だと、いつから気づいてた……?
「ハァッ——……」
別人に成り代わっても傍にいたいと願っていた彼から、私は出来る限り遠くへ逃げたかった。逃げる寸前、「おいっ!」と手首を捕まれたけど、それも一心不乱に振り払った。
アンレコードから追い出されてしまったら、同じ時間を過ごした綾崎くんとはもう会えない。綾崎くんや、羽純や、心優の記憶から消え去ってしまう。新しいセカイで見つけた新しい私の居場所は、最初から無いことにされてしまうのだから。
「そんなの嫌……私は戻りたくなんて——、」
出掛かった言葉は、寸前で塞き止められる。またしても、中途半端な千怜の影が聳えて邪魔をしているのだろうか。
同時に走っていた足を緩めると、階段横のスペースに居る女子生徒たちから視線を注がれる。私の顔を一瞥して、ひそひそと何か話していた。
……関わらないでおこう。現代で、佳子たちから注がれた視線と似た雰囲気を感じた私は、涙を拭って彼女たちから遠ざかろうと後退する。
「宮城さん」と、その中の一人に声を掛けられたのは、踵を返した直後だった。
「ちょっと話さない?」
こちらの警戒心を煽らないためか、声色は優しく、しかし笑みはとても不自然だ。
「……話……?」
私は同じように笑みを返す。見上げれば、二階へ続く階段の裏側が灰色を落としている。まるで、白黒ハッキリしない私の心のようだった。
「久しぶりだよね、こうやって話すの」
「そういえば、昨日のアレ、大丈夫だったの?」
「それ。つーか、まだ怪我してんじゃん」
呆けていると、女子三人が交互に口を割っていく。はじめは暗がりでよく分からなかったけれど、三人とも同じ水色のパーカーを着ていた。私たちとは違うクラスなのだろうけど、“2ー3” と胸元に書かれているのを見る限り同学年だ。
そう推測しながら、ワンレンボブの女子に指された頬を自分の手でそっと擦る。小さな火傷痕を覆ったガーゼの感触が、どこか懐かしい。
怪我をしていたことなんて、もうすっかり忘れていた。忘れていたのに、思い出すと傷口がジンジンと痛みを呼び起こす。
——もし、綾崎くんに見抜かれることがなかったら。私はいつか、遠山千怜であるということを忘れてしまったのだろうか。
「ねえ、宮城さん?聞いてんの?」
瞬間、大きな瞳が覗き込む。私は愛想笑いを浮かべながら「ごめん。怪我は大丈夫だよ」と答えた。覗き込んだ女子生徒は毛先を綺麗に巻いていて、揺れる度に漂うバニラの香りが鼻孔を突いた。
「ふうん。まぁ、軽傷だって言われてたもんねぇ」
腕を組みながら私を映すその瞳は、爪先からゆっくり持ち上がるように動く。視線が交わったとき、真ん中に立つその彼女は佳子を彷彿とさせた。背丈も風貌も口調も、彼女たちはよく似ている。
……さて、ここで一旦説明が欲しいところだけど、肝心の案内猫は——、
『猫使いが荒いなお前は……まあ、仕方ないから教えてやる』
例によって足元で横たわる三毛猫に視線を下ろす。一言多い性質にも大分慣れ、私は心の中でも悪態を述べることなく続きを待った。
『真ん中の女生徒はカモタ リカという名で、トウコが一年のときに同じクラスだったやつで、そこまで親しい仲ではないな。悪いが、他の女生徒についてはデータがない』
十分よ、ありがとう。と、彼女たちへ視線を戻す。
アンレコードでの処世術が染みついてきたのか、周りと接する内に透子の人となりも分かってきたのか、彼女たちと話すことに不安はあまりない。カモタ リカの表情からは百田佳子がくっきりと浮かぶのに、自分でも驚くくらいに落ち着いていた。