「まぁ、もう先輩も卒業だしな。あそこで揉めて最後に後味悪くさせるより、希望通り盛況させたうえで俺らが一等を獲る方がいいと思ったんだよ」
滑らかに放たれる作戦の裏事情に、思わず感服する。「すごいね」と溢れた言葉は社交辞令でもなんでもなく、真っ新な本心だった。
「私も……私も、その方がいいと思う」
「甘いな」
「え?」
「まだ、それ解くまではわかんねぇだろ」
ふっ、と彼から溢れる笑みに謙遜はない。少し緩まった頬に、気付けば私の頬も吊られている。
「任せて!絶対解くから」
握りしめた拳を正面に翳せば、綾崎くんはさらに表情を綻ばせる。見惚れていれば、同時に少し骨張った掌の感触が頭の上に伝って、私は思わず硬直した。
「おう、頼むわ」
うん。と声になったかどうかなんて判らない。撫でられた頭から下りてくる熱の糸が、私の心臓を括りつけて、苦しいくらいに締め付ける。
ああ……もうこんなの——完全に好きだ。
レイニーを観賞しながら、ピントを合わせた自分の気持ち。素直に芽を出した恋心は、彼の周りにキラキラと光を及ぼす。宝物のように眩いその瞳に自分を映すだけで、なんだか涙が溢れそうになった。
溢れる寸前で塞き止めたのは、静かな廊下に扉の音が豪快に響き渡ったからだ。ガラッ——!と、勢いよく割り込んだ破裂するような音に、私たちは肩を上下させた。
……もし割り込まれなければ、涙も気持ちも溢れ出していたかもしれない。
「やっぱり……!俺の救世主~!!」
しかし、好きな人の体温の余韻に浸る間もなく、新たな波乱がやってくる。扉を開けたのもきっとこの人なんだろうな、と見当をつけながら前を見据える。
綾崎くんは危険を察知したのか、飛び付こうとしてくる相手を躱して迷惑そうに彼を睨んだ。
「助けてくれよミチぃ……!」
躱された彼はすぐさま体勢を立て直して、祈りのポーズで綾崎くんを見上げる。同じクラスパーカーを纏う後ろ姿には、見覚えがあった。たしか、綾崎くんと同じバンドメンバーのクガヤマくんだ。
「なんだよ、気持ち悪いな」
「だって、お前の声が聴こえたからさぁ、もしかしてと思って!」
「……行くぞ、宮城」
「頼むよ、一生のお願い、マジで助けてくださいお願いします」
無視を決め込もうとしていた綾崎くんは、腕に縋りつくクガヤマくんに嘆息をお見舞いしながら「まず状況を説明しろ」と彼を剥がした。
「ありがとう……ありがとうミチ……ごめんね、トーコちゃん」
「ううん、私は全然」
「いいから早く説明しろ」
私が手に持っている暗号を気に掛けながら、綾崎くんは先を急かす。クガヤマくんは縦に大きく頷くと、先ほど自ら開いた扉の方を指差した。
「俺、オオイシ先生につかまってさ……さっきから、ずっとあそこに缶詰めなんだよ」
「オオイシ先生?」
「なんか、やばい教師たちが結託して、変なイベントやってんだよ……!」
小声で話しているのは、教室にいるオオイシ先生を恐れてのことだろうか。十年後にはいない先生なので私には分からなかったけど、綾崎くんは「オオイシ先生か……」と苦笑を浮かべていた。
ちなみに“変なイベント”というのは『茜鳴祭オリジナル・教科別テスト』を解いて、点数に応じた特典が受けられるというものだった。教科の選択は可能、しかし問題の難易度は高いらしく、三十分前に解き始めたクガヤマくんは未だ一問も解けていないとのこと。
「解けないなら、諦めて空欄で提出しろよ」
「だから、それが出来ないんだってばぁ……!」
クガヤマくんは震える声で訴える。すると、彼が気に掛けていた扉の方から、体格の良い大人がぬっと顔を出した。ギンギンに見開かれたその眼力に、クガヤマくんと私は思わず肩を竦めた。……この人がオオイシ先生だろうか。
「おいクガヤマぁ、なに道草食ってんだ。休憩は三分だって言っただろう。それかなんだ、逃げようなんて考えてんじゃねぇだろうな」
ヤンキーだ。ヤンキー教師だ。
口の悪さから、綾崎先生を心の中でそう呼んでしまったことはあるけれど、彼は全くこのレベルには及ばない。ドスの効いた声に背筋がゾクリと撫でられ、私は十年後の先生に謝りながら固まった。これは紛れもなく“本物”だ。
「に、逃げないっすよ!つか先生、救済措置使います!こいつ、こいつが俺の助っ人!」
クガヤマくんは焦った口調で放ちながら、綾崎くんを指差してオオイシ先生にそう答える。差された張本人は「は?」と眉間の皺を深くしていた。