「笑いすぎだよ。ただ数学の話しただけなのに……」
「悪い悪い。火事のとき、棺を蹴っ飛ばして脱出した、って話も今さら思い出して」
「なっ……話したときは怒ってたくせに!」
「怒ってないだろ別に」
「怒ってたよ。心配してくれたのは分かるけど、怖かったんだから」

 言いながら口を窄めると、綾崎くんは目を柔和に細めて笑みを深める。

「そういえば。最初に会ったときも棺に入ってたよな、宮城」

 そして流された視線に、今度は別の意味で鼓動を乱した私は、目を逸らして曖昧に頷いた。
 最初に会ったとき——そんなの、知る由もない。急いで案内役を探すけれど、一体どこをほっつき歩いているのか先ほどから姿が見当たらない。……猫だから、という理由で気まぐれが許されているのだとしたら、本格的に犬派へ転じようと思う。

「なんか物音すると思って見たら人が出てくるし。アレは本気で腰抜かすかと思った」
「ご、ごめん……」

 私の知らない過去を思い出すようにして、宙を泳ぐ彼の視線。それを辿れば辿るほど、胸が切なく締め付けられた。
 ここに居るのは、今綾崎くんの隣に居るのは千怜ではなく透子なのだとハッキリ知らされるようで、腹の底が重く沈む。……いいえ、それでも、今の私にとっては彼の傍に居られる時間が楽しくて大切なの——。
 私はオールで水流に逆らうように、沈んだ気持ちを浮上させた。

「綾崎くんも、意外と(・・・)クラスメート思いだよね」

 しかし必死だったせいか、図らずとも挑発めいた言葉になる。彼が「捻くれている」と分析した千怜(なかみ)の性質は、存外的を射ているらしい。
 彼は少し眉を寄せながら、再びこちらに視線を落とした。

「どこがだよ」
「褒めてるんだから、怒らないでね」
「怒ってない」
「ふぅん。じゃあ照れてるんだ」

 ハァ、と吐かれる細い息に籠る照れ隠しに笑みを溢す。首を覆いながら私を横目で見据える彼は、あまり解せない様子だ。

「……別に、思いやりなんてないけど」
「心優のことも、羽純のこともさ。こんなに協力的な人が何を言ってるの?」

 心優の気持ちに向き合えたのも、羽純を救おうと勇気を振り絞れたのも、全部綾崎くんが背中を押してくれたからだ。
 笑みにそう含めて覗き込むと、彼は速度を緩めて立ち止まる。人通りの少ない廊下で反響する足音の残像が、心臓へ深く刻まれる。気づけば、窓から覗き込む日差しは少しずつ茜色へ傾いて、私たちの影を濃く映し出していた。

「協力的に見えんのは、たまたま宮城と一緒にいるからだろ」
「……うん。でも、一緒に居てくれたのは綾崎くんだよ」

 言いながら影から視線を持ち上げると、綾崎くんの頬が綺麗に着色されている。夕日に溶け込んだ紅潮が、なんだかとても愛おしい。

「今回の件だって、これが最善策かどうかなんて分かんねぇし……」
「最善策?」
「そんな暗号叩きつけられるより、シンプルに矢澤を逃がす方が得策だったかも、って話」

 私が折りたたんだ暗号を指しながら、綾崎くんは後悔を目に浮かべる。その瞳を見上げながら、私は「大丈夫」と言った彼の言葉を思い返した。

「でも、綾崎くんは最善策だと思ったんだよね?」
「ああ……矢澤はバスケ部で弄られキャラっつーか、イブキ先輩には特に遊ばれてた。本人が嫌がってるようには見えなかったけど、楽しんでるようにも見えなかった。男バスに助っ人参戦してるだけの俺にも分かるくらいな」
「イブキ先輩って、」
「イブキ カオリ。オリ先輩」

 コードネームというやつだろうか。先輩のフルネームを脳裏に書き留めながら、私は続きを待った。