きっと、上手く笑えていない。私は音のない世界のなかで、しばらく心音だけを鼓膜に響かせていた。
「もう何ふざけたこと言ってるの、透子ちゃんに失礼じゃないっ」
ねえ、今の、聴こえてた? 綾崎くんにも、羽純にも聴こえてた?
友希の母親が叱ると、彼女は「ごめんね」と眉を垂れる。ちゃんとそれに答えられたのかどうか、自分でも分からなかった。
透子としても認められなくなってしまったら、私は本当に消えてしまう——……そんな焦燥が心の奥に靄を灯して、視界を塞いだ。
我に返ったのは、羽純の声が“助け”を求めた瞬間だった。
何やら、うちのクラスとは違うパーカーの女子生徒たちと押し問答を繰り返しており、羽純は何度も首を振っている。
「無理無理、無理ですって!トーコ助けてっ!」
「え……え、と、」
恐る恐る友希を一瞥すると、彼女はすでに“ミチルくん”とのお喋りに夢中で、こちらを気にかける様子はない。彼女の飴があまり減っていないところを見るに、起こされるまで長い時間は経っていなかったのだろうけど、一体この短時間に何があったというのか。
私は屈めていた腰を伸ばして、羽純の手首を掴む女子と周りの取り巻きを覗き込む。上履きの色が赤いので、おそらく上級生だ。
「あの、あなたたちは一体——」
「おー、これはこれは、宮城さん」
羽純の細い手首を掴むスレンダーな上級生が、ショートヘアを横に揺らす。名前を呼ばれ、私は思わず肩を弾いた。
「あのね宮城さん。これは制裁なの」
「え……制裁?」
「そ、制裁」
切れ長の瞳がさらに細められるのと同時に、羽純の抵抗が細くなる。彼女のお姉さんはというと、妹のピンチ(仮)を意にも介さず「さ、友希。劇観ましょ」と娘の手を引いて横を通り過ぎていた。
さすがは永島家。と一時脱線した思考を取り戻して、私は羽純の肩を擦った。
「あの、制裁ってなんのことですか?」
そんなに痛めつけなくてもいいじゃない。そう睨みを利かせれば、彼女の目はさらに細まる。
「矢澤がバスケ部の展示をサボったから、約束通り制裁を加えるまでの事よ」
「……え? サボり?」
「そっ。今日の午前中にね、うちの部の同人誌販売員を頼んでたのに、永島がちゃっかりバックレたのよ~」
「ちょ、オリ先輩!それは劇のシフトと被るから無理だって言って——」
「なーに言ってんの。五分くらいなら行けると思う、って永島が自分で言ったのよ~」
マズイ。と言いたげな羽純の心情を読み取って、思い出す。その約束の『五分』は、もしかすると心優の説得に費やして消えてしまったのではないだろうか。
私はオリ先輩とやらの怖い目元を見つめて、異議を唱えようと唇を割った。
「あの、実はクラスで緊急事態がありまして、」
「ダメー。ダメだよ。それが言い訳でも本当でも、約束は約束」
細められた瞳は、私を見ているのかさえ分からない。周りの先輩方も同じように笑って囲むので、思わず肩を竦めた。
……どうしよう。八方塞がりだ。
「ちなみに、制裁ってなんですか」
割って入ったのは、濃い影と安心感をもたらす低い音階。友希のお相手を終えた綾崎くんが隣に立って、先輩たちを見下ろしていた。
「あれー。君、たまに男バスの助っ人に来てる子だよねぇ?」
「はい。綾崎です」
「経験者?ポジションは?」
「中学まで。シューティングガードです」
「ほ~、奇遇ね。私も同じよ」
うそ。綾崎くんってバスケもやってたの?なにそれ、そんなの絶対に似合うし格好いいじゃん——。
不謹慎にも雑念が生まれ、思わず頭を振る。バスケの話に脱線したオリ先輩と綾崎くんを交互に見据えると、二人とも背が高いせいか首が少し痛くなった。