理路整然と述べる彼に、クラスメートたちは口籠る。私が「出来ない」と答えようとした理由よりも、論理的で説得力がある。将来、数学の先生になるだけあって、QEDへの導き方はお手のものだ。
口パクで「ありがとう」と伝えると、綾崎くんはフイッと目を逸らす。私は心配する羽純を横に、クラスメートたちに向けて自らも唇を割った。
「ごめんなさい。綾崎くんの言う通り、私に代役は難しいと思ってる。……だって、今ここでレイニーになれるのは心優しかいないから」
手元にある台本を開きながら、私の知らない軌跡を辿る。透子の綺麗な字で『レイニー(心優)』と書かれたいくつもの注意書きが視界を占める。それは羽純の台本を見ても同じ。
小鳥遊 心優は、透子や羽純、他の演者や裏方のクラスメートたちと拘りをぶつけ合って、レイニーの像を作り上げてきたに違いない。
——たとえ理想のレイニーになれなくても、心優にしか演じられないレイニーがいる。
私は心優に触れるように、施錠された扉へ手を添えた。
「心優。私、透子だよ」
「……」
「私も皆も、心優のこと待ってるから」
「っ、そんな気休め要らないわよ!」
呼吸の荒さと激しい振動を含んだ声が、籠りながらも弾けて届く。
「あんたたちの声は、さっきから全部聴こえてた。あんたたちが言うように、透子ちゃんがやった方が手っ取り早いし……絶対に、うまく行くわよ」
「心優……」
「私はたぶん、自分に期待しすぎていたの。……たかが祭りの演し物だって分かってる。それでも私はもう……舞台で固まって、何も、何も出来ない私を晒したくないの」
徐々に窄められていく言葉を聞き入れながら、同時に私の胸も絞られていく。
“影が薄い” “何の特徴もない” “矛盾ばかりで半端な自分”。そんな像しか描けない本来の私を晒け出すことが怖くて、繕い続けた遠山千怜が、扉の向こうにいるようだ——。
私は透子の綺麗な爪で、掌に深く跡をつける。そして、その握りしめた拳を胸元に置きながら、静かに呼吸を整えた。
「私はレイニーになれるかもしれない。……でも、心優にはなれないんだよ」
「……え?」
「心優が皆と努力して過ごした時間を飛び越えて、レイニーになることはできないの。心優が好きだって思ったレイニーへの気持ちも、私には投影できないの」
“好き”を詰め込んだ宝箱の鍵は、自分自身でしか作り出せないの。
「あのね、心優。レイニーにも私たちにも、上手に魔法が使える“劇薬”は要らないんだよ」
理想の自分になれなくたって、私はあなたと違うだけで特別——そうだったよね、綾崎くん。
心の内に秘めて振り返ると、私にその言葉をくれた彼は咳払いをして目を逸らす。照れ隠しのなかにも仕草は色々あるようで、また新しい発見をした私はこっそり笑みを溢した。
「うんうんっ、トーコの言う通り!劇薬なんて飲まなくたって、心優はたっくさん努力してきたんだから!」
私が含んだ思いとは少し異なるけれど、羽純も一緒に扉へ手を添えてくれる。すると周りで眺めていたクラスメートも便乗して、「そうだよ心優!」「俺らはタカナシのレイニーが見たいんだから!」と唱え出す。
それから扉の錠が外されるまで、そう時間は掛からなかった。
「心優——!」
「うわぁぁんっ、待ってたよ心優~!」
扉が開くのと同時に心優の体に飛び付いたのは、もちろん私と羽純の二人。もう逃がさない、と言った意味も込めて細い体をきつく締め上げたので、彼女は
「いぃったぁいぃ……」
と、細い声で呻いていた。
「もうっ、本当に心優がいなかったらアタシ……うぅぅ、良がっだぁぁ……」
と、いまにも鼻水を垂らしそうだった羽純は豪快に鼻を啜る。
「ごめんなさい……、私にも上手く演じられる魔法があったらいいのにとか、そんなことばっかり考えて卑屈になってて……」
「もうバカァ……!目に視える魔法がなくたって、アタシたちは心優のこと見てるんだからね?!」
「うん、ごめんなさい。透子ちゃんが言ってくれたこと、すごく刺さった。ありがとうね」
「え、ねえ、アタシの言葉は?!」
心優の登場に高揚を隠せないのか、泣き笑いを繰り返す羽純。そのテンションに戸惑いながらも、どこかスッキリとした表情の心優。私はそんな二人の肩を撫でながら頷き、そして開いた扉の奥に視線を送る。
—— “そもそもさ、目に視える個性って必要なの?”
先ほど羽純が放っていた台詞によく似ているからだろうか。今日から十年後の同じ教室のなかで、現代に残してきた未練の一つが私の心を強く揺らす。
あのとき、永島友希の言っていた言葉の意味が、今さら分かったような気がした。