私は途中で言葉を呑み、固まった。教室までの道順は覚えている。それなのに、道標を失ったような感覚が体の管を締め付ける。立ち止まった私を避けながら注がれ、迷惑だと唸る周りの視線が、管に鋭い矢を刺した。排他的なその空気に、私は今さら気づかされた。

 もし劇薬があるのなら?——……そうじゃない。私はすでに劇薬を飲んで、本来の自分自身でいる意味を見失い掛けている。このセカイで、宮城透子として生きていくことを受け入れようとしている。
 きっと、鼠から戻れなくなってしまったレイニーだって——。
 
「宮城!」
「……え?」

 名前を呼ばれるのと同時に、冷えきった手首が温かい体温に包まれる。視線を持ち上げると、そこには眉を寄せた綾崎くんが「危ねぇだろ」と吐いて、人混みから私を引き寄せた。

「ご、ごめんなさい……っ」
「いや、……俺もごめん」

 肩を竦めると、手首を掴む彼の握力がほんの少し緩められる。しかし角の引っ込んだ表情が想像以上に近くて、触れられたところから熱が迸った。

「話の途中でいなくなられたらビビる」
「え……?」
「それに、この人集りのど真ん中で止まってたら危ないから。さっきからぼうっとしてるし」
「ごめん、なさい……」

 軽く頭を垂れると、綾崎くんは大きく息を吐いて背を向ける。

「もういいから、行くぞ」
「え、あの……手、」

 グイッ、と掴まれたままの手首を引かれて、目を丸くする。彼は反対の手を首筋に充てて言った。

「また離れられたら困るから、このまま。……嫌なら、パーカーのフードでも掴んどいて」

 ……嫌じゃない。だって、私を見つけてくれた手はこんなにも温かい。

「ううん。このままがいい」
「……じゃあ行くぞ」

 そう言うと、彼は先程よりもゆったりとしたペースで廊下を抜けていく。手首を掴んでいるのに、時折振り返りながら私を確認する仕草に胸が絞られる。歩幅の小さな私を気遣ってくれているのか、その不器用な配慮が嬉しかった。周りから注がれる視線など、ひとつも気にならなくなっていた。

「宮城。自分の書いた脚本覚えてるか」

 喧騒のなか、教室へ向かう背中が優しく問いかける。

「ううん……たぶん、少し忘れてる」

 どうしてか、今は繕う気分にはなれなくて正直に答えたけれど、彼が不審に思う素振りはない。それどころか、「だと思ったよ」と笑みを漏らした。

「忘れてなければ、劇薬を飲みたい、なんてお前が言うわけないもんな」
「……え?」
「さっき。そう言おうとしてたんだろ」

 階段を数段下りた先の踊り場で、綺麗な横顔がこちらを見据える。半端に途切れた台詞の続きを、彼はしっかり補填していた。
 続く階段を一段ずつ下りながら、私は小さく頷いた。

「だって、劇薬を飲めば——」
「『魔法が使えなくても、レイニーはレイニーだ』ってやつ。アレ、俺けっこう好きだけどな」

 宮城が書いた、あの台詞——。
 そう続ける優しい声。手首を掴んだ彼の掌から再び、熱が走る。

「理想の自分になれなくたって、たぶん、他の誰かと違うだけで誰かの特別になれんだよ」
「特別に……」
「だから、タカナシにもお前にも——劇薬なんて必要ない」

 瞬間、流し読みしていた少年・サンの台詞に光が及ぶ。照れ臭いのか、一向にこちらへ視線を向けてくれない彼の横顔に胸が高鳴る。
 怖くて途中で閉じてしまった脚本には、一体どんな結末が待っているのだろうか。私はレイニーとサンが迎える未来を、このとき初めて見てみたいと思った。それに——、

「綾崎くんは、私にはなれない。それだけで十分違う個性だもんね」
「……なんだよ急に。当たり前だろ」