綾崎充から切り抜かれた“ミチ”というあだ名は、担任教師の風貌からは想像できないほど可愛らしい。私はミチ先生を見上げ、縦に大きく頷いた。
「クガヤマ、お前変なこと言ってねぇだろうな」
チャラ男の名前はクガヤマというらしく、彼は「冤罪だよ、ねぇトーコちゃん」と私の影に隠れる。オープニングを終え、狭い出入り口に群がる生徒たちの視線を気に掛けながら、私は綾崎先生を見上げた。
「あの、クガヤマくんにはライブに誘われて……それ以上は何も、」
「そうだよ!ミチのためにも誘おうって——んがッ」
素早く距離を詰めた綾崎先生が、クガヤマくんの口を勢いよく塞ぐ。直後、下ろされた黒光りするその瞳に心臓が跳ねた。
「ごめん宮城。こいつ連れてくわ」
「あ……うん、全然大丈夫だけど、」
「クガヤマもそうだけど、他の奴に話し掛けられても無視していいから」
「え?」
他の奴? 首を傾げて見上げると、先生は軽く息を吐いて言った。
「とりあえず、後でな」
——そうよ。そうよ。そうだった。
開会からおよそ一時間が経過した現在、約束の十一時まであと五分。クラスの出し物である劇の準備を一通り終え、私はハスミの肩をそっと叩いた。
「ごめんっ、私時間が——」
「わーかってるって~デートでしょ?」
「っ、午後イチには戻るから!」
「いいっていいって。トーコは十分仕事したんだし、楽しんでおいで!」
「う、ありがとう……!でも戻るから!」
クラスパーカーに着替えた背を強く押され、「こっちは任せろ!」と言わんばかりのハスミに大きく手を振る。待ち合わせの中庭へ向かいながら、私は思う。
やっぱり、宮城透子という人間は特別なんだ、と。
『良かったな。トウコが当日任される仕事を担っていなくて』
今立ち止まるわけには行かないの、だから話すなら付いてきて。
長い廊下を駆け抜ける途中、目の前に鎮座する三毛猫へ念を送ると、彼はロッカーと窓のサッシを伝って私の肩に乗っかった。
「ちょっと……っ、重たいんだけど、」
『ワタシは燃費が悪いんだ』
「……ほんとに、後にしてくれる?なに、急用?」
『案内役だからな。お前から目を離すわけにはいかないんだ』
なによ今さら。クガヤマくんに絡まれたときは助けてくれなかったくせに。
『お前は演じる側にならなくて良かったのか?』
口を尖らせても、ざらめは容赦なく突いてくる。階段を駆け下りながら、演し物のことを言っているのだとすぐに分かった。ざらめの言う通り、トウコは脚本を担当していたため、当日の役目はほとんどない。
「願ったりかなったりよ」
『そうか。でも、あのクラスに馴染んでみたいという気持ちにはならなかったか?』
「それは——……」
不覚にもペースが緩む。
せっかくなら、現代では出来ないことをやってみたらどうだ——。勝手に意訳した言葉が脳裏に巡る。しかし馴染んだら最後、きっと私には片道切符を使う選択肢しか残されない。未来のことを今決めてしまうのは、とても怖かった。
「いいのよ、全然……『レイニー』はもう完成してるんだし」
でも、透子が書いた脚本『レイニー』を、私は未だ最後まで読めていない——読むことができなかった。
『そうかい。まあ、逢い引きでもして満喫するんだな』
「逢い引きって……」
『主軸のセカイでは存在しなかった世界線だしな。トウコが延命しなければ、この時代の学園祭は中止になっていたのだから』
「……うん。ここは、現実には無かった透子の未来」
『ああ。つまり、ワタシにもこの先のことは読めない。ゆえに、あまり頼りすぎるなよ。小娘』