「……じゃあ、私は」
『ん』
「私は“チサト”じゃないって、あんた言ったよね。……あれはどうゆうこと」
もしかして本来の私は——遠山千怜は消えてしまったのだろうか。主軸のセカイから、ついに“要らないもの”として捨てられてしまったのだろうか。
切ったばかりだった前下がりのボブを恋しく思いながら、胸元に垂れる長い髪を掬い上げる。すると、ざらめは先ほど落とした布地の小物を再び咥え、私に差し出した。
『見てみろ』
受け取って裏返すとそれは小さな手鏡で、恐る恐る顔の前へと持ち上げる。
——艶のある長い黒髪に、くっきりとした二重のライン。小さな鼻と桜色の清楚な唇。頬に貼られたガーゼを加味しても、クラスに居れば「マドンナ」と持て囃されそうな別嬪がそこには居た。
「私は、こんな美人じゃない」
『その私というのは、チサトのことを言っているのか』
「そうよ。だって私は千怜だもん」
『トオヤマ チサトであることにあれほど揺らいでいたのに、女の浮き沈みはやはり分からんな』
呆れたようにベッドに横たわるざらめを、私はこっそり睨んだ。揺らいでいた事実を見透かしていたなんて、やっぱりこの猫はファンタジーがすぎる。だって普通の猫は、肘をついて横になったりしない。テレビの前でバラエティー番組を眺めているときの父親そっくりだ。
「十年前で、私が私じゃなくて……で、いまの私は一体誰なの?」
口に出すだけで十二分にファンタジーすぎる。放った台詞に頭を痛めながら、寛ぐざらめを見下ろした。
『ミヤギ トウコ』
「……ミヤギ、なに?」
『お前はいま、トウコになっている。いや……正確には、死ぬはずだったトウコの中にお前が入り、延命している状況だな』
“死ぬ”。そのフレーズに背筋がゾクリと凍る。十年前、そして火事——やっぱり。
整理しながら辿り着きかけていた推測をなぞったざらめの言葉に、私は大きく息を吐く。同時に過ったのは、二〇一三年の青風祭前日に起こった事故について話す綾崎先生の表情だった。
「……つまり私は、タイムリープをしてミヤギトウコに成り変わってるってこと?」
『厳密に言うと違う』
起き上がってこちらを見上げるざらめは、おちょぼ口を滑らかに動かした。
『Unrecorded World——仲間内では“アンレコード”と呼ばれている。それがこのセカイの通称だ』
記録されないセカイ。復唱しても実態は掴めず、再び割られるざらめの口を眺めた。
『出血大サービスだからな。分かりやすく教えてやろう』
この嘲笑すらなければ、もっと素直に受け入れられるんだけど。私は理性を被って「……お願い」と殊勝に唱えた。
『タイムリープの場合は主軸のセカイと繋がるだろう。今で言うと、お前がトウコとして延命した時点で十年後の未来は変わる。これがタイムリープ。——しかし、アンレコードの場合は主軸のセカイとは繋がらない』
「……つまり、パラレルワールドってこと?」
『それも違う。パラレルは主軸と並行して存在するセカイだ。パラレルの軸には、その軸のトオヤマ チサトが存在していることになる。まあ、ワタシの管轄内ではないけどな』
「待って……よく分からなくなってきた」
『ふん。仕方ない。分かりやすく簡潔に言ってやる』
さっきからそう言っていたけど、今までのは一体なんだったんだ。絡まった思考回路で余裕のない私は、額を押さえてその生意気で愛らしい瞳を見据えた。