どうやら備品の群がるエリアを脱したらしく、煙の濃度が薄くなったことに安堵した私は、足を緩めて駆け寄るシルエットを見据える。
 本当に救けに来てくれる人がいるなんて。しかも学ランを着ているようなので、男子生徒だ。

『来たな』
「……え?」

 足元に体を寄せる三毛猫は、立ち止まって自分の手をぺろりと舐める。その瞳はこちらを振り向き、口に袖を当てたままの私を貫いた。

『説明不足だったが、お前はチサトではない』
「……は?」
『先にそれだけ教えてやる。ワタシは親切だからな』

 小さなへの字の口が器用に紡いだ言葉は、何一つとして意味を持たずに脳をすり抜ける。単語自体の意味は理解できても、連なる言葉が為す意味は到底理解できるようなものではなかったからだ。

 ——お前(わたし)は、チサトではない……?

「何突っ立ってんだよ!早く行くぞ!」
「へ?」

 猫の台詞を反芻していると、どこかで聞いたことのある声が怒号を唱えて鼓膜を揺らす。同時に捕まれた手首から視線を持ち上げると、そこには煙を被った男子生徒がやたらと強い目力で私を睨んでいた。

「もしかして足動かせないのか?」
「え……いや、」
「分かった。しっかり掴まっとけよ」

 一瞬だった。視界から彼が消えたかと思えば、次の一瞬で自分の体が浮いている。膝の裏に回り込んだ腕の感触にドキリとしながら、私はその肩を言われた通り掴んでみる。すると、その背中越しから「ヨシ」と低い波長が伝ってきたので、またドキリとした。

「他に生徒は?」
「い……いない、と、思う」
「そっか。なら良かった」

 人一人を抱えているとは思えないほどの速さで、彼は煙を抜けていく。そのスピードが緩められたとき、“外”に出た私は後ろを振り返って息を呑んだ。

「体育館……」

 やっぱり(・・・・)、私が眠る前に居た多目的教室ではない。外廊下を抜けながら、徐々に遠ざかる体育館の三角屋根を見据える。よく見慣れている丸い屋根ではないけれど、見慣れた槇の葉を象った校章が入り口に掲げられていた。

 ……おかしい。

「あ、の……」
「ん、どうした」
「すみません、ここって浅羽高校ですか……?」

 背負ってくれている彼に訊けば、スピードが徐々に緩まる。気づけば私たちは校舎のなかに居て、体育館へ近づくサイレンの赤を窓から眺めていた。どうやら安全地帯まで逃げ切れたようだ。

「……記憶障害とか?」
「え?い、いや、全然そういうわけじゃあ、」
「ここは浅羽高校、校舎一階、生徒玄関前。俺は二年一組、綾崎 (みちる)——覚えてる?」
「も、もちろん!」

 半分振り向いた横顔に条件反射で頷く。あまり愛嬌のある表情ではないけれど、広い二重幅が特徴的な綺麗な横顔だ。何より爽やかな黒髪と、詰襟に掛かる控えめな襟足もポイントが高い。今どきにしては珍しい私好みの髪型に、不謹慎にも胸が高鳴った。
 もしかしたらこれは、世に言う吊り橋効果というやつを体感しているのかもしれない。と、俯瞰しながら彼の言葉を反芻する。側で窮屈そうに並べられている下駄箱は、確かによく見慣れた形をしていた。

 ——違う。そこじゃない。
 私は再び歩みを進めるその背中一点に視線を注ぐ。

「綾崎、みちる……?」
「なに?」
「え?」
「いま呼んだじゃん。名前」

 どこか頼もしさのある低い声。息を漏らしながら、少し挑発するような静かな笑み。普段はあまり目立たないけれど、バランスよく整った綺麗な顔——。
 この人が……綾崎先生なわけがない。でも、これが夢なわけがない。