おいチサト!目を覚ませ!さもないと焼け焦げるぞ——!
猛烈な眠気に目蓋を下ろしたまま、脳髄へ差し込まれる声を感知する。全身は温泉に浸っているような温かさに包まれ、とても心地が良い。脳に描かれる映像には湯気がふわふわと流れていて、しかしやたらと煩い、嗄れた声が私の名前を呼んでくる。
チサト——!
そうよね。私は遠山千怜で、確かに綾崎先生や永島友希にはなれないもの。
『い~いかげん、起きろ阿呆!』
ペチぺチぺチッ、ペチンッ——。
湯気の向こうから小さな石鹸が何度も投げつけられて、何度も頬に直撃する。誰よこんなことするの、と眉を寄せれば、今度は鼻の頭にクリティカルヒットした。
「ッた……!」
ゴンッ——!
クリティカルヒットの直後、私は暗闇のなかで自分の頭を押さえる。いま鈍い音が鳴ったのは、きっと何かに頭を叩きつけたせいだ。証拠にたん瘤が出来ているであろうそのテッペンはジクジク痛むし、石鹸をぶつけられていた鼻先も骨に響いてとても痛い。
とゆうか、どこなの此処……。私は温泉にいたはずだったのに、何故か仰向けのまま暗闇に閉じ込められている。四方を掌で触って確かめると、カイロのように暖かい温度の壁が私を覆っているようだった。
「夢……?」
『ふざけるな。夢などではない』
湯タンポを乗せたように温かく、重みのある腹の下。低く嗄れた声が、不機嫌そうに私を踏みつける。徐々に視界が馴染んでいくと、そこに象られた一匹の存在に私はあんぐり口を開けた。
「は……? ね、こ……?」
『三毛猫だ』
「あ……夢ね」
『だから夢ではないと何度言わせる。この阿呆』
阿呆、阿呆——。何度かそう罵られた記憶が、存外優秀な海馬によって運ばれる。温泉は夢だとして、しかしこれは夢じゃない?……なんの冗談よ。だって猫が人間の言葉を話すなんて、
「ありえない!」
『事情は後で説明する。兎に角いまはここから脱出しろ。さもないと焼け焦げるぞ』
「は、はぁ?!」
何言ってるの、とゆうか、なんで猫の口の動きと声が連動しているのよ……。
への字の口が器用に、緻密に動かされているのを見据えながら手をついて後ずさる。しかし窮屈なだけあって、数センチも下がれない。結局私は、制服の上を這い上がってくる節度のない大きな三毛猫(仮)と対峙するしかなかった。
なによこれ……絶対誰かが仕掛けたドッキリでしょう。そういえばさっきも、変な英文が蓋の内側に流れてきて——、
「そうだっ、助けを呼ばないと。きっと永島さんか誰かの悪戯だろうけど、」
『まったく!いつまで現実逃避しているつもりだ!いいから此処を脱出しろ!ワタシも一緒に焼け死ぬ!』
「は、はぁぁ!?」
無理よ!急になに言ってんのよ!現実逃避もなにも、こんなの現実なわけないでしょう……!?
私は寸前で、脳裏に羅列された言葉を呑み込む。もし歯向かって、またこの三毛猫がへの字の唇を割ったらどうしよう。そう塞き止めただけで、理性が歯止めを掛けたわけではない。だから彼から目を逸らすように天井へ手を添える。
夢か現か、どちらかと言えば前者であると信じたい気持ちはあるのに、私はここが“棺”の中であることを確信していた。この三毛猫の性別が“雄”であることも同時に疑わなかった。なぜなら、その三毛猫に閉じ込められた記憶が鮮明に残っているからだ。
「んん゛~~っ、んおぉ~~っ!」