「何ここ、深……じゃなくて、ざらめ!ほらおいで」

 足を踏み入れた棺は、他の大道具とはまるで作りが違う。外装は赤茶色に塗られ重厚で、洋の作り。ざらめが飛び込んでしまうのも分かるくらい内側の手触りも良く、底は男性でも易々入れるほどの余裕がある。
 こんな質の良いもの、一体誰が用意したのだろう。もしかしたら、流行りのネット通販で安く入手できたのかもしれない。

「ねえ、逃げないでね。逃げないでね」

 思考は回り道をしながら、しかし確実にざらめの元へ手を寄せる。中の心地良さが気に入ったのか、先ほど動き回っていたのが嘘のように大人しい。——いける。
 私は手を伸ばし、フサフサとしたその毛並みに触れた。が、

「にゃあ~」
「ぐぇっ、」

 ざらめは私を橋か何かだと思っているのだろうか。肩と背中の順に再び通行(・・)を許した私は、手触りの良い布地にうつ伏せになる。
 体運びは軽くても、体重は見た目通りねあんた。と、心の内で悪態をついた瞬間だった。

 ギィッ——……。

「へ?」

 うつ伏せになった私の背後で軋むような音がする。恐る恐る振り返ると「にゃあ~」という呑気な鳴き声とともに、赤みがかった天井が降ってくる。
 人並みの反射神経と決して回転の速くない頭では、何が起こっているかなんて到底理解できない。せめて頭が当たらないように、棺に仰向けになって寝そべるのが精一杯だった。

「え、ちょ……っ」

 バタンッ——。
 視界が暗闇に覆われたその瞬間、無情に響き渡るその音で、私はようやく閉じ込められたことに気がついた。降ってきていたのは天井ではなく、棺の蓋だったのだ。——しかも、

「うそ……開かない?!」

 内側から両腕と腹筋を使って押し上げるが、いくら力を入れてもビクともしない。間違いなく蓋を下ろした犯人はざらめに違いないだろうけど、もしあのデブ猫が上に乗っていたとして、持ち上げられないなんてことあるの?
 何度も内側からの脱出を試みているうちに暗闇にも目が慣れていく。しかし、それに比例するように焦りが汗となってこめかみを渡る。

「そうだ、スマホ……っ」

 私は制服のポケットに手を滑らせる。直後、鞄のなかに入れたままだということを思い出して、大きく息を吐いた。もしかしたら酸素不足になってしまうかも、と過って、途中で息を止めた。
 瞬間、ポケットに潜った手が知らない感触を脳に伝わせる。取り出して仰向けの瞳に翳せば、その緻密な型が露になった。

「これ……綾崎先生の、」

 昨日、面談のときに先生が落とした“イルカ”が入ったままになっていた。渡せる状況でもなかったし、拾ったことすら今まで忘れてしまっていた。

「返さなきゃ……」

 ついでに、昨日のお礼も伝えられたら——、そう思い馳せながら、イルカを握りしめた瞬間だった。

 “ Destination is The Unrecorded World. ”

 閉じられた棺の蓋に、コンピューターで打ち込んだような書体の英字が浮かび上がる。

「は……なに、これ——」

 “ Lights up after a few seconds. ”
 “ Attention please. ”

 左から右へ流れていく英字を辿る。英語の成績は決して悪い方ではなかったが、羅列される文字を文字として認識することしか出来ず、私は硬直した。
 いったい、何が起こってるの……?悪戯?もしかして、永島さんが仕込んだ悪戯なんじゃ……いや、それかあれでしょう。劇に使う演出なんでしょう? じゃないと、こんなの可笑しいって——。

 キィーン——!!
 まともな逡巡すら出来ずに唇を震わせる最中、硬く澄んだ音が脳を穿つ。聴覚ではなく直接脳を刺すような感覚に、私はきつく目を閉じた。

『トオヤマ チサト。しばし寝ておれ。でなければ悪酔いするぞ』

 すると、嗄れた男の声が響く。それと同時に閉じられた目蓋の向こうで白い光が放たれているのが分かる。
 なにこれ、夢……? もしそうなら、永島さんとここで会えたことも夢なの……? ああ、なんだかそれは凄く嫌だな——。
 私は夢か現かも分からないまま、うっすらと目蓋を持ち上げる。けれども、あまりにも眩しい光に気圧されてすぐに目を細めた。

『コレッ!寝ておれと言っただろう阿呆!』

 再び嗄れた声。なぜか憤っているその一文が子守唄だったわけはないはずなのに、私は重たい目蓋を閉じて深い眠りに落ちていた。