桜浜高校最寄りの駅から電車に乗って、旭の言った通り十五分後にはホームに降りた。私の行動範囲は決して広くなく、見覚えのない街できょろきょろしてしまう。そんな私とは反対に、旭はすたすた歩いていく。
住宅街というよりは、オフィスビルの並ぶ街。スーツを着た人たちが、ビルやコンビニを出たり入ったりしている。
旭に続いて、そこを一本逸れた路地に入った。準備中の居酒屋、お洒落な喫茶店、入ってみたい古本屋。それらの前を通り過ぎて、あるマンションの前で彼は立ち止まった。見上げて数えると、七階建てだった。
「ここに住んでるの」
「住んでるっちゅうか、事務所やな。先生の仕事場や」
「仕事中なのに、行っても大丈夫なの」
「むしろ俺は先生の家を知らん。予め言っとるし、大丈夫や」
急に緊張してきて、私は軽く制服の裾を伸ばす。旭がいるとはいえ、顔も名前も知らない大人に会って、どんな話をしたらいいんだろう。ついて来たはいいものの、少し不安になる。
そんな私の心配をよそに、旭は玄関脇の壁に設置された機械に触れる。慣れた手つきでボタンを押すと、ほどなくして機械の上部にあるランプが白く光った。
「俺、旭です」
初めて聞く敬語を旭が口にすると、「ああ」と若い男性の声が返ってきた。
「いいよ、上がって」
「今日は連れがおるんやけど、かまへんかな」
「連れって、珍しいね。友だち?」
「まあ、そんなもん」
「わかった。連れて来なさい」
部屋の中から操作したらしく、玄関の自動ドアが開いた。機械の白いランプが消える。
「マンションだよね」
中に入りながら私は尋ねる。「事務所にも出来るとこなんやと」旭はエレベーターホールでボタンを押した。すぐにエレベーターのドアが開く。
「俺はよう知らへんけど、まあ危ない事務所はないらしいから、安心しいや」
「そんな心配はしてないけど……」
ほどなくして私たちは、五階の廊下に辿り着いた。全く尻込みしない旭の後に続いて、一番奥のドアの前に立つ。「ほんとにいいの?」躊躇いながら訊いてみる。
「ええって言ってたやん。帰るか?」
私が首を振って否定すると、旭はチャイムを押した。少しして、開錠の音の後にドアが開いた。「こんちは」と言って上がる彼の後ろに隠れるようにして、私もそっと中に入った。「いらっしゃい」と声が聞こえる。
「鍵かけてくれ」旭に言われて、俯きがちの私は慌ててドアの鍵をかける。先生っていう人は奥に戻ってしまったけど、一応、お邪魔しますって挨拶をして、旭にならって靴を脱いだ。廊下には二足分スリッパが用意されていたから、それに履き替えた。
廊下は電気が点いていなくて暗い。右と左に一つずつドアがあって、奥にすりガラスのはまったドアがある。ドキドキしながら、私は旭に続いてその部屋に入った。
中は十二畳ぐらいの広い空間だった。テーブルと、それを挟んだ両側に椅子が二つずつ。壁際には本棚と隅には名前の知らない観葉植物。奥にはベランダがあって、窓からビルの並ぶ街並みが見える。
部屋の片側には、おざなりのキッチンがあった。小さな冷蔵庫と、作り付けの棚、シンク、一口のIHコンロ。一人の男の人が、そこからお盆を運んでくる。大地くんより背が高い、細身の若い男性。
「旭が他人を連れてくるなんて珍しいね。いや、初めてか」
テーブルにお盆を置いて、人数分のカップを並べてくれる。だけど私は、そのカップの中身が紅茶だろうがコーヒーだろうが、目に留めることさえできなかった。
私は、この人を知っている。
「まあ、なんちゅうか成り行きで」
「その成り行きが、一番興味あるな」
今流行りの中性的な顔立ち。一度見ただけの顔と名前が、まざまざと思い出される。
「い……出雲、さん?」
彼を凝視しながら振り絞った。
「知っとんか?」旭が驚いた顔をする。ということは、この人は出雲司で間違いない。
「私の友だちが、雑誌で見てて。それを私も学校で見せてもらって……」
「それはありがたいね。覚えていてくれて光栄だよ」
出雲司は、あの雑誌で見たのと同じ表情で笑いかけた。まさか、結々の言っていた有名人が、旭の先生だったなんて。
「あっ、私、あの、七瀬梓です。桜浜高校の……」
緊張がピークに達して、私はつっかえながら自己紹介をする。「そんな緊張せんでも」旭が呆れてしまうぐらいには、固まって。
「七瀬さんだね。どうぞ、座って」
出雲さんに促されて、私はテーブルについた。隣に旭が座って、その向かいに出雲さん。入れてくれたのはコーヒーではなく紅茶だった。用意してくれたスティックシュガーの中身を勧められるままカップに入れて、スプーンで混ぜて、おずおず一口飲んで、やっと人心地ついた。
「話はよく聞いてるよ。旭を構ってくれてありがとう」
「俺はペットやないんやけど」
出雲さんの柔和な笑顔とは反対に、旭は不満顔をする。旭が私の話をしているのが少し嬉しくて、どんな話をしているのか少し不安になる。
「あの、出雲さんは、旭の……占いの先生なんですか」
出雲司が占い師だとは知っていたけど、旭が占いをするなんて初耳だ。でも、「俺はせえへんよ」と旭は否定した。
「先生なんて言えるものじゃないけど。旭が、雨を呼ぶことが出来るのは知ってるかな」
出雲さんの言葉に、私は頷く。
「信じられなかったけど……でも、今は、本当だと思ってます」
「私も最初は半信半疑だったけどね。だからこそ、旭の力はすごい。このままにしておくのはもったいないからね、もっと自由に雨を操れるようになれたらと思って、出来ることをさせてもらっている。少なくとも、止ませるようになれたらいいね」
「そう簡単にはいかへんのよなあ。降らせることは出来るんやけど」
「だからって傘ぐらいささないと、いつかひどい風邪をひいて後悔するよ」
旭が傘をささないでしょっちゅうずぶ濡れになることは、周知の事実らしい。私も五月に見かけた旭の姿を思い出して、思わず笑ってしまう。
「動物と話せるなんていうのも羨ましいよね」
出雲さんが微笑んで、私も頷いた。旭がぷちと話している光景は、すっかり私には馴染んでいた。私もぷちと話してみたい。
「ようわからんやつもおるけど」苦笑する旭。「向こうも俺のこと、そう思てるんやろな」
「私も、訓練したら猫と話せるようになるかな……?」
「さあ。どうやろ」旭が出雲さんを見る。
「それはちょっと難しいかもしれないね」
カップの紅茶を一口飲んで、彼は苦笑した。
「旭の能力は、恐らく素質的なものだよ。生まれつき、そういった他の人とは違うものが備わっていたんだ」
出雲さんは旭の力を信じていて、だからこそ旭も出雲さんを頼ることができる。そんな信頼関係が垣間見えて、旭が彼を先生と慕う理由が理解できた。雨に濡れる彼を気味が悪いと言わず、風邪をひくと心配するんだから。
「もしかして、遺伝したってこと?」
「わからへん。違うと思うけど」
「聞いてみたらいいのに」
「無理や」
カップを手にする旭にきっぱり却下される。そんなに両親と仲が悪いんだろうか。
「遺伝でもなんでも、こんな力を持つ人間は他に会ったことがない」
私が旭に問いかける前に、出雲さんが言った。物腰は柔らかいけど、問い詰めてはいけない空気を流石の私も察する。
「だから、七瀬さんみたいに理解してくれる人がいて、安心したよ」
理解してくれる人。その言葉に、何だか恥ずかしくなってしまう。今日はこんな気持ちばっかりだ。
「よく図書館で会うって聞いてるよ。読書が好きなのかな」
「えっと、はい」
「読書もやけど、宇宙が好きなんよな」
「ちょっと……」
「話したったらええやん。なんやっけ。おおぐま座の話とか、おもろかったよ。くまが投げ飛ばされて星座になったってやつ」
大きなくまが森の大王に空に投げられて星座になった。確かに私はその話を旭に聞かせていたけど、こうして他人に紹介するほど楽しんでくれていたとは思わなかった。
私と居る時は聞き役に回ることが多い旭が、今日はよく喋る。それだけ、ここは彼にとって安心できる場所みたい。
出雲さんも「どんな話かな」って言ってくれるから、私も促されるままに話をした。
いつの間にか一時間が過ぎて、私たちは帰ることにした。本当に旭に用事はなく、ただ先生と話すためだけに、ここまで来ているようだった。
玄関で先に靴を履き替えた旭が、外に出る。私もスリッパを脱いでローファーにつま先を通した時、右肩を軽く叩かれた。
「器用に見えて、実は不器用なやつだから」出雲さんが私に囁く。「これからも、旭をよろしく」
咄嗟のことで声が詰まってしまう。私が旭をよろしくって、一体どういう関係に見えているんだろう。
でも、この人は旭を心配しているんだ。その気持ちに気が付いて、私は振り返りつつ「はい」って頷いた。
「なんかあったん?」
ドアを引いて旭が顔を覗かせる。「なんでもないよ」急いで返事をして、私は慌てて部屋を飛び出した。
住宅街というよりは、オフィスビルの並ぶ街。スーツを着た人たちが、ビルやコンビニを出たり入ったりしている。
旭に続いて、そこを一本逸れた路地に入った。準備中の居酒屋、お洒落な喫茶店、入ってみたい古本屋。それらの前を通り過ぎて、あるマンションの前で彼は立ち止まった。見上げて数えると、七階建てだった。
「ここに住んでるの」
「住んでるっちゅうか、事務所やな。先生の仕事場や」
「仕事中なのに、行っても大丈夫なの」
「むしろ俺は先生の家を知らん。予め言っとるし、大丈夫や」
急に緊張してきて、私は軽く制服の裾を伸ばす。旭がいるとはいえ、顔も名前も知らない大人に会って、どんな話をしたらいいんだろう。ついて来たはいいものの、少し不安になる。
そんな私の心配をよそに、旭は玄関脇の壁に設置された機械に触れる。慣れた手つきでボタンを押すと、ほどなくして機械の上部にあるランプが白く光った。
「俺、旭です」
初めて聞く敬語を旭が口にすると、「ああ」と若い男性の声が返ってきた。
「いいよ、上がって」
「今日は連れがおるんやけど、かまへんかな」
「連れって、珍しいね。友だち?」
「まあ、そんなもん」
「わかった。連れて来なさい」
部屋の中から操作したらしく、玄関の自動ドアが開いた。機械の白いランプが消える。
「マンションだよね」
中に入りながら私は尋ねる。「事務所にも出来るとこなんやと」旭はエレベーターホールでボタンを押した。すぐにエレベーターのドアが開く。
「俺はよう知らへんけど、まあ危ない事務所はないらしいから、安心しいや」
「そんな心配はしてないけど……」
ほどなくして私たちは、五階の廊下に辿り着いた。全く尻込みしない旭の後に続いて、一番奥のドアの前に立つ。「ほんとにいいの?」躊躇いながら訊いてみる。
「ええって言ってたやん。帰るか?」
私が首を振って否定すると、旭はチャイムを押した。少しして、開錠の音の後にドアが開いた。「こんちは」と言って上がる彼の後ろに隠れるようにして、私もそっと中に入った。「いらっしゃい」と声が聞こえる。
「鍵かけてくれ」旭に言われて、俯きがちの私は慌ててドアの鍵をかける。先生っていう人は奥に戻ってしまったけど、一応、お邪魔しますって挨拶をして、旭にならって靴を脱いだ。廊下には二足分スリッパが用意されていたから、それに履き替えた。
廊下は電気が点いていなくて暗い。右と左に一つずつドアがあって、奥にすりガラスのはまったドアがある。ドキドキしながら、私は旭に続いてその部屋に入った。
中は十二畳ぐらいの広い空間だった。テーブルと、それを挟んだ両側に椅子が二つずつ。壁際には本棚と隅には名前の知らない観葉植物。奥にはベランダがあって、窓からビルの並ぶ街並みが見える。
部屋の片側には、おざなりのキッチンがあった。小さな冷蔵庫と、作り付けの棚、シンク、一口のIHコンロ。一人の男の人が、そこからお盆を運んでくる。大地くんより背が高い、細身の若い男性。
「旭が他人を連れてくるなんて珍しいね。いや、初めてか」
テーブルにお盆を置いて、人数分のカップを並べてくれる。だけど私は、そのカップの中身が紅茶だろうがコーヒーだろうが、目に留めることさえできなかった。
私は、この人を知っている。
「まあ、なんちゅうか成り行きで」
「その成り行きが、一番興味あるな」
今流行りの中性的な顔立ち。一度見ただけの顔と名前が、まざまざと思い出される。
「い……出雲、さん?」
彼を凝視しながら振り絞った。
「知っとんか?」旭が驚いた顔をする。ということは、この人は出雲司で間違いない。
「私の友だちが、雑誌で見てて。それを私も学校で見せてもらって……」
「それはありがたいね。覚えていてくれて光栄だよ」
出雲司は、あの雑誌で見たのと同じ表情で笑いかけた。まさか、結々の言っていた有名人が、旭の先生だったなんて。
「あっ、私、あの、七瀬梓です。桜浜高校の……」
緊張がピークに達して、私はつっかえながら自己紹介をする。「そんな緊張せんでも」旭が呆れてしまうぐらいには、固まって。
「七瀬さんだね。どうぞ、座って」
出雲さんに促されて、私はテーブルについた。隣に旭が座って、その向かいに出雲さん。入れてくれたのはコーヒーではなく紅茶だった。用意してくれたスティックシュガーの中身を勧められるままカップに入れて、スプーンで混ぜて、おずおず一口飲んで、やっと人心地ついた。
「話はよく聞いてるよ。旭を構ってくれてありがとう」
「俺はペットやないんやけど」
出雲さんの柔和な笑顔とは反対に、旭は不満顔をする。旭が私の話をしているのが少し嬉しくて、どんな話をしているのか少し不安になる。
「あの、出雲さんは、旭の……占いの先生なんですか」
出雲司が占い師だとは知っていたけど、旭が占いをするなんて初耳だ。でも、「俺はせえへんよ」と旭は否定した。
「先生なんて言えるものじゃないけど。旭が、雨を呼ぶことが出来るのは知ってるかな」
出雲さんの言葉に、私は頷く。
「信じられなかったけど……でも、今は、本当だと思ってます」
「私も最初は半信半疑だったけどね。だからこそ、旭の力はすごい。このままにしておくのはもったいないからね、もっと自由に雨を操れるようになれたらと思って、出来ることをさせてもらっている。少なくとも、止ませるようになれたらいいね」
「そう簡単にはいかへんのよなあ。降らせることは出来るんやけど」
「だからって傘ぐらいささないと、いつかひどい風邪をひいて後悔するよ」
旭が傘をささないでしょっちゅうずぶ濡れになることは、周知の事実らしい。私も五月に見かけた旭の姿を思い出して、思わず笑ってしまう。
「動物と話せるなんていうのも羨ましいよね」
出雲さんが微笑んで、私も頷いた。旭がぷちと話している光景は、すっかり私には馴染んでいた。私もぷちと話してみたい。
「ようわからんやつもおるけど」苦笑する旭。「向こうも俺のこと、そう思てるんやろな」
「私も、訓練したら猫と話せるようになるかな……?」
「さあ。どうやろ」旭が出雲さんを見る。
「それはちょっと難しいかもしれないね」
カップの紅茶を一口飲んで、彼は苦笑した。
「旭の能力は、恐らく素質的なものだよ。生まれつき、そういった他の人とは違うものが備わっていたんだ」
出雲さんは旭の力を信じていて、だからこそ旭も出雲さんを頼ることができる。そんな信頼関係が垣間見えて、旭が彼を先生と慕う理由が理解できた。雨に濡れる彼を気味が悪いと言わず、風邪をひくと心配するんだから。
「もしかして、遺伝したってこと?」
「わからへん。違うと思うけど」
「聞いてみたらいいのに」
「無理や」
カップを手にする旭にきっぱり却下される。そんなに両親と仲が悪いんだろうか。
「遺伝でもなんでも、こんな力を持つ人間は他に会ったことがない」
私が旭に問いかける前に、出雲さんが言った。物腰は柔らかいけど、問い詰めてはいけない空気を流石の私も察する。
「だから、七瀬さんみたいに理解してくれる人がいて、安心したよ」
理解してくれる人。その言葉に、何だか恥ずかしくなってしまう。今日はこんな気持ちばっかりだ。
「よく図書館で会うって聞いてるよ。読書が好きなのかな」
「えっと、はい」
「読書もやけど、宇宙が好きなんよな」
「ちょっと……」
「話したったらええやん。なんやっけ。おおぐま座の話とか、おもろかったよ。くまが投げ飛ばされて星座になったってやつ」
大きなくまが森の大王に空に投げられて星座になった。確かに私はその話を旭に聞かせていたけど、こうして他人に紹介するほど楽しんでくれていたとは思わなかった。
私と居る時は聞き役に回ることが多い旭が、今日はよく喋る。それだけ、ここは彼にとって安心できる場所みたい。
出雲さんも「どんな話かな」って言ってくれるから、私も促されるままに話をした。
いつの間にか一時間が過ぎて、私たちは帰ることにした。本当に旭に用事はなく、ただ先生と話すためだけに、ここまで来ているようだった。
玄関で先に靴を履き替えた旭が、外に出る。私もスリッパを脱いでローファーにつま先を通した時、右肩を軽く叩かれた。
「器用に見えて、実は不器用なやつだから」出雲さんが私に囁く。「これからも、旭をよろしく」
咄嗟のことで声が詰まってしまう。私が旭をよろしくって、一体どういう関係に見えているんだろう。
でも、この人は旭を心配しているんだ。その気持ちに気が付いて、私は振り返りつつ「はい」って頷いた。
「なんかあったん?」
ドアを引いて旭が顔を覗かせる。「なんでもないよ」急いで返事をして、私は慌てて部屋を飛び出した。