夢うつつの中で、声を聞いた。眠っているのか起きているのかわからない意識の中、確かに彼の声が私に言った。
「元気でな」
はっとして目を覚ます。
起き上がりかけて、気分の悪さに再度枕に頭を落とす。布団をかぶっているのに身体は寒気を帯びていて、咳が喉から溢れる。頭がくらくらして、まわる天井をしばらく見上げていた。
民宿の部屋だった。電気は消えているけど、廊下の灯りが差し込んでいて十分に明るい。激しい雨が平屋の屋根と窓を叩く音、そして風にどこかの戸が揺れる音が聞こえる。
別の部屋で話す人たちの声や物音をぼんやりと聞いていた。悪天候のせいで、午前のフェリーが運航中止になったらしい。それは災難だけど、乗り遅れなくてほっとする。
あれから、私はどうやって戻ってきたんだっけ。
薄暗い天井を眺めながら、温かな体温を思い出した。そうだ、私は、旭に負ぶってもらった。帰り道でめまいがして歩けなくなって、途中から彼が背負ってくれたんだ。
あの長い道のりを、人一人背負って歩いたんだ、彼も疲れているはず。
そう思って見渡して、どこにもその姿がないのに気が付いた。旭がいない。少し出ているのだろうか。
ぼうっとしながら、まどろみの中で聞いた彼の声を思い出す。
弾かれるように私は身を起こした。布団を押しのけてふらつきながら立ち上がり、ひどい風邪をひいた身体で廊下に出る。よろめきつつも玄関口に出て、民宿のおじさんが受付にいるのを見つけた。
「おじさん、旭は……」驚いた顔をするおじさんに、慌てて言い直す。「私と来た男の子、どこですか」
「ああ……きみを負ぶって帰った子だね」
私の剣幕に戸惑いつつ、出入口の扉を指さした。
「ついさっき、外に出て行ったよ。雨を止ませるとか言ってたなあ。そういえば、この大雨なのに、傘を持ってなかった気がするけど……」
最後まで聞き終わらないうちに、私は裸足で駆け出した。引き留めようとする声を無視して表に出る。
外は豪雨だった。船が出ないのも納得できる、ひどい天気だった。
道の向こうは、激しい雨にけぶって白みがかっている。それでも、遠ざかっていく影が見えた。
迷わず私は走り出す。そして、大声で名前を呼ぶ。影が立ち止まって振り返る。霧のおかげでその顔は見えない。
「旭……」
だけど私にはわかっている。影の名前を必死に叫んだ。
世界一の雨男。彼は自分をそう称しているし、私もその通りだと思う。
だから、彼は雨を止ませることはできない。彼は雨を降らせて、彼のいる場所に雨は降る。雨男の彼が雨を止ませるというのは、つまりはそういうこと。
「いかないで」
掠れた声を振り絞った。後から後から涙が溢れてくる。身体はすっかり冷えているのに、涙はこんなにも熱く頬を焼く。
雨を止ませるためには、彼はいなくなるしかない。
「いかないで……!」
身体がぐらついて、私はその場にくずおれた。遠い影が私を心配そうに見つめて、上げた片手を大きく振った。さよなら。まるでそう言っているみたいだった。
いかないで。何度も何度も私は叫ぶ。誰かの手が私の肩に触れた。心配して追いかけてくれた人がいるらしい。それを見て安心したのか、彼は手を振るのをやめた。
「あさひ!」
雨の中に、旭の背中は消えていった。
「元気でな」
はっとして目を覚ます。
起き上がりかけて、気分の悪さに再度枕に頭を落とす。布団をかぶっているのに身体は寒気を帯びていて、咳が喉から溢れる。頭がくらくらして、まわる天井をしばらく見上げていた。
民宿の部屋だった。電気は消えているけど、廊下の灯りが差し込んでいて十分に明るい。激しい雨が平屋の屋根と窓を叩く音、そして風にどこかの戸が揺れる音が聞こえる。
別の部屋で話す人たちの声や物音をぼんやりと聞いていた。悪天候のせいで、午前のフェリーが運航中止になったらしい。それは災難だけど、乗り遅れなくてほっとする。
あれから、私はどうやって戻ってきたんだっけ。
薄暗い天井を眺めながら、温かな体温を思い出した。そうだ、私は、旭に負ぶってもらった。帰り道でめまいがして歩けなくなって、途中から彼が背負ってくれたんだ。
あの長い道のりを、人一人背負って歩いたんだ、彼も疲れているはず。
そう思って見渡して、どこにもその姿がないのに気が付いた。旭がいない。少し出ているのだろうか。
ぼうっとしながら、まどろみの中で聞いた彼の声を思い出す。
弾かれるように私は身を起こした。布団を押しのけてふらつきながら立ち上がり、ひどい風邪をひいた身体で廊下に出る。よろめきつつも玄関口に出て、民宿のおじさんが受付にいるのを見つけた。
「おじさん、旭は……」驚いた顔をするおじさんに、慌てて言い直す。「私と来た男の子、どこですか」
「ああ……きみを負ぶって帰った子だね」
私の剣幕に戸惑いつつ、出入口の扉を指さした。
「ついさっき、外に出て行ったよ。雨を止ませるとか言ってたなあ。そういえば、この大雨なのに、傘を持ってなかった気がするけど……」
最後まで聞き終わらないうちに、私は裸足で駆け出した。引き留めようとする声を無視して表に出る。
外は豪雨だった。船が出ないのも納得できる、ひどい天気だった。
道の向こうは、激しい雨にけぶって白みがかっている。それでも、遠ざかっていく影が見えた。
迷わず私は走り出す。そして、大声で名前を呼ぶ。影が立ち止まって振り返る。霧のおかげでその顔は見えない。
「旭……」
だけど私にはわかっている。影の名前を必死に叫んだ。
世界一の雨男。彼は自分をそう称しているし、私もその通りだと思う。
だから、彼は雨を止ませることはできない。彼は雨を降らせて、彼のいる場所に雨は降る。雨男の彼が雨を止ませるというのは、つまりはそういうこと。
「いかないで」
掠れた声を振り絞った。後から後から涙が溢れてくる。身体はすっかり冷えているのに、涙はこんなにも熱く頬を焼く。
雨を止ませるためには、彼はいなくなるしかない。
「いかないで……!」
身体がぐらついて、私はその場にくずおれた。遠い影が私を心配そうに見つめて、上げた片手を大きく振った。さよなら。まるでそう言っているみたいだった。
いかないで。何度も何度も私は叫ぶ。誰かの手が私の肩に触れた。心配して追いかけてくれた人がいるらしい。それを見て安心したのか、彼は手を振るのをやめた。
「あさひ!」
雨の中に、旭の背中は消えていった。