十二月三日の月曜日、図書館は休館日なので、私は学校の図書室で課題を終わらせた。家よりも集中できるし、さっさと帰っても退屈だから。時計が五時を示し、外が暗くなりかける時分に席を立った。
 相変わらず、気分は晴れない。旭はおざなりな返事しかくれなくて、私も納得したふりをしている。ほんの少し前まで、ほぼ毎日顔を合わせて、日が暮れても一緒に話をしていたのに。
 バス停に向かう道すがら、前を通り過ぎる図書館をちらっと見た。ベンチのあるスペースは、今日はがらんとしている。
 そこにぽつんと、見慣れた後ろ姿があった。ブレザーの制服姿の足元には、一匹の猫がいる。彼は表に出された返却ボックスに本を入れていた。
 大声で名前を呼んで、私は駆け寄った。
 振り向いた彼は、驚いた表情で目を見張った。梓、とその口が私の名前を呟く。
「来てるなら、言ってくれたらよかったのに」
 ほんの十日ほど顔を合わせなかっただけなのに、随分久々な気がする。学校帰りの様子を見て、安心する私の顔が自然とほころぶ。街灯に照らされる彼の顔を見上げて、再会に喜びつつも、私は首を傾げた。
「旭、その顔どうしたの」
 彼の左頬には青黒い痣ができていた。
「どこかで転んだりした?」
 心配になって尋ねると、彼は痣を隠すように手を当てて、「違う」と言った。「言いたくない」とも言った。
「どうして。誰かと喧嘩でもしたの」
「……そうやな、梓には言わんといかんな」
 きょとんとする私に、彼は思いもよらない台詞を口にした。
「俺、もう図書館には行かれへん」
「……どういうこと?」
「そのままや。やから、読み終わってないけど、本返しに来たんや」
「どうして。なんで?」旭が図書館に来なくなる。青天の霹靂に、私の頭は真っ白になる。「それって、忙しいから? 一体何が忙しいの。何かあったの」
 取り乱す私から外した視線を、彼は遠くに向ける。何かを見ているのではなく、ただ景色を映すだけの瞳で考えた後、「時間あるか」と再び私を見た。
 私が頷くと彼は歩き出した。その足元にちょこちょことぷちが並んで、私は頑なな彼の背中に続く。五時三十分は既に日の入りを超えた時刻で、十二月の夜が町には満ちていた。交差点を渡って、彼はわかば公園に入った。
 遠くでまだ遊ぶ子どもたちの声が聞こえる。彼がグラウンドの隅にあるベンチに腰掛けたから、私も隣に腰を下ろした。私たちの間に、当然の顔をしてぷちが入り込む。足を崩してもたれかかるぷちの毛皮を、旭が優しく撫でてあげる。
 ただ待っている私に、彼はやっと口を開いた。
「叔母さんが、出て行ったんや」
「……一緒に暮らしてる叔母さん?」
「不倫しとったんやと。そんで、男の元に行ってしもた」
 静かな声に、私は彼の家庭がとんでもない状況下にあることを知る。
「あいつ……従兄弟が死んでから、叔母さんもパートを始めたんやけど、そこで会うた男やと。ほんで、叔父さんに頼むから別れてくれって、手紙と離婚届置いて帰らんなった」
 ひどい。私は知らず知らずのうちに呟いていた。旭は一度、深く頷く。
「そんなことが出来る人やと思わんかったのにな……やっぱり、俺の母親とは姉妹やったんやと思った。家族を裏切るんやから」
 ゆっくり、ゆっくりと指先でぷちを撫でる。
「叔父さんはもう、見てられん……。けど、弁護士雇うてまでどうにかする気にもなれんらしい。心が離れたら、いくら家族や言うても、終わりや」
 とんでもない告白に、私は絶句する。だけどそれより、強く不安に思うことがある。
「じゃあ、旭は今、叔父さんと二人きりなの……?」
 夏のあの日、彼に暴言を吐いて当然な顔をしていた旭の叔父。あんな人と二人きりで同じ屋根の下で生活するなんて、考えただけでぞっとする。
「……しゃあない。他に行き場なんてないからな」
「もしかして、その顔も」
「全部、俺のせいなんや。この世の悪いことは、なんもかも」
 妻を失った腹いせに、叔父さんは旭に手を上げた。止める人がいなくなれば、歯止めは効かないのだろう。
「叔母さんがおらんなったんも、あいつが死んだんも。会社でのごたごたも、信号が赤なんも、今日の昼飯がまずかったんも、全部俺のせいなんや」
 それでも、彼はじっと耐えているに違いない。何を言われても、例え殴られても、彼は決して反撃せず、黙ってされるがままなのだろう。その身も心も、確実に傷ついているのに。
「そんで、学校も辞めろて言われた。代わりに働けってことや。次の終業式が最後やな」
「そんな……」
「俺、頑張ったつもりやったんやけどなあ。誰にも文句言われんよう、西ノ浦に入って、友だちもろくにおらへんけど、それなりにええ順位取って、頑張ってたんやけどなあ」
 旭が優秀なことは、日ごろ勉強を教えてもらっている私はよく知っている。それも県下一の高校に編入したことを考えると、積み上げてきた努力は並のものではないはずだ。そうやって、これまで家族に壊された未来を少しずつ直して組み立てて、自分の力で明るくしようと毎日頑張っていたのに。
「俺は、前世でそうとう悪いことをしたんやな」
 笑いながら、彼は言った。
 あらゆるものに裏切られた彼は、ぼろぼろの心で笑っていた。
「やから、もう図書館に行ってる余裕なんかない。悪かったな、せめて痣が消えてから梓には会って話そうと思てたんや。けど、逆に心配させてしもたんやな」
 いつの間にか手が止まっていたから、ぷちが鳴いて催促する。彼の腿に頭をこすりつけて甘えている。旭が愛おしげにその喉をくすぐると、ごろごろと幸せな音を鳴らす。
「梓、ほんまにごめんな」
 彼がこれから言おうとする台詞が、わかってしまう。だから私は、いやいやと首を振った。
「裏切りたくなかった。でも、もういつ会えるかわからん。俺に執着させて、梓の時間を無駄にしたくない」
 胸の奥が震える。いやだ、聞きたくない。そう思うのに、私の両手は固まって、ろくに耳さえ塞げない。
 ゆっくりと、彼はその台詞を口にした。
「俺と、別れてくれ」
「やだ!」
 叫んで、私は立ち上がった。
「やだやだやだ。いやだ!」
 ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「待つよ、いつまでだって待つ! 会えなくたって私はずっと待つから、会いに行くから! だから……だから……!」
 嗚咽がこみ上げて、言葉が上手に出てこない。必死に両腕で涙を拭い、濡れた視界にいる彼を懸命に見つめる。後から後から、涙は込み上げて流れていく。
「私は、旭がいなくなるのが、一番嫌なの」
「そんでも、会えんなるんや」
「会えなくなるのと、別れるのとは違うよ。旭が私に会いたいって思ってくれるなら、その意味は全然違うよ。私は会いたい。会えなくても、旭とこれからも一緒にいたい、ずっとずっと待ってるから!」
 とても立っていられなくなって、私は旭の隣に力なく腰を落とした。別れてしまえば、もう他人だ。こんなに大事な人なのに……!
 鳴き声が聞こえて、私の膝に温かいものが乗った。しゃくり上げながらぷちを抱き上げて、慰めてくれる顔に頬を寄せる。柔らかな毛皮が、冷えた私の身体を温めてくれる。もう二度と、旭やぷちと一緒に笑い合うことができない。たわいの無い話をするだけでいいのに、言葉を交わすことさえかなわない。私たちが結んできた繋がりは、一緒に歩んできた道は、そんな冷たい未来に向かっていたのか……。
 少し落ち着いてぷちを脇に下ろすと、私の目尻を指先が辿った。涙を拭う旭の困り顔を、私はじっと見つめる。
「……約束、覚えてる?」
 十二月になったら、二人で行こうと約束した。
「流星群、一緒に観に行こうって」
「ああ」彼は頷く。「覚えとる」
 琴野島で、ふたご座流星群を観る。
 初めて言葉を交わして間もない頃、一緒に図鑑を眺めたことを思い出す。私の話を真剣に聞いてくれる旭の表情。驚いたり、喜んだりする声。この公園で、並んで見上げた金星の輝き。いつまでも星を見つめていた彼の瞳。様々なことが思い出されて、全ては煌めく星となり、私の心で輝いていたことを知る。私の中には、私の大好きな星空がある。全ての星を結んだ星座は、かけがえのない存在になる。
「あの約束も、もう叶わないの」
 問いかけると、私の大事な人は、両腕を伸ばして私を抱きしめた。心臓の震え、呼吸の音、流れる血の温もりまでもが感じられる。
「行こう」
 愛しい声に、すがるように抱き返す。心にはびこる悲しみを少しでも引き受けられるように、強く強く抱きしめる。
 私の頬に熱い雫が触れた。見上げようとすると、彼がそっと私の頭を抑える。視線を動かしたけど、彼はそれから逃れるように顔を上げて空を見た。
「……雨、降らんかな」
 雨乞いの言葉に、私は彼が雨に濡れる理由を知った。辛い涙も苦しい嗚咽も潤む瞳も、全て隠してくれる雨。「雨はええよな。全部隠してくれる」。かつて聞いた彼の台詞を、私は思い出していた。