出雲さんがコンロのスイッチを押して電源を切る。辛うじて聞こえていた物音もなくなり、部屋はしんと静まり返った。
 旭は目を見開いて絶句し、私も出雲さんが口にしたばかりの台詞に驚愕する。
「……なんで?」
 嘘だ、とは彼は言わなかった。けれど、その一言には様々な意味が込められていた。なんで先生が、なんでそんなことを、なんで自分を。確実に彼は混乱していた。
「扱いやすかったからだよ。おまけに変な力まで持っている。これを使わない手はないだろう」
 人を安心させるための微笑みが、今は恐ろしくも感じられた。
 だけど次第に私の中で、恐怖より怒りの感情が勝る。以前、この人は旭の力をすごいと言っていた、笑って褒めていた。なのに、本心ではそんなことを思っていただなんて。
「先生は、いつも褒めてくれてたやん……すごいって、羨ましいって」
「すごいとは思うけどね、羨ましくはないよ、気味の悪い。最初にずぶ濡れのきみを見た時から、不気味だと思っていた。ただ、その力が本物のようだから、利用させてもらってたんだ」
 長い指がシンクの壁面を軽く叩く、まるで俳優のような仕草。だけどその言葉は演技ではない。
「じゃあ、その、訓練っていうのは」
 やっと口を開いた私を見て、彼は苦笑した。おかしなことを、とその顔は語っていた。
「訓練なんて、出来るわけないじゃないか。客を信じさせるために使っていただけだよ。この場所この時間に天気が変わるって嘯いてね。天気予報にもない雨雲に、誰もが本物かもしれないって思うわけさ」
 彼に施していた訓練は、全て旭の為ではなく自分の為のものだった。
「あなたは、最初からそのつもりで……」
「ああ、他に理由なんてない。幸い、こいつはひどく傷ついているからね。そういう人間は少し優しくすればすぐに懐く。今まで貰えなかった餌をちらつかせれば、あっさり食いつくんだ」
 信頼できる大人。安心できる優しさ。自分を認めてくれる居場所。
 そんなものを、旭も無意識に望んでいたに違いない。その傷ついた心の隙間につけ入って、この人は思うままに彼を、彼の力を利用していたんだ。
「……言うてくれたら」旭は喉から掠れた声を零す。「最初からそう言うてくれたら、それでも俺は、協力したのに……」
「協力? きみに頭を下げて頼めってこと?」
 大袈裟にため息をつく彼は、もう旭の名前を呼ばなかった。名前を呼ぶ親しささえも、ただのポーズだったのだ。
「あのね、あくまで俺が上にいる必要があるんだよ。それにガキに協力してもらうなんて、俺のプライドが許さない。二人三脚だなんて鬱陶しい真似をするつもりはないよ、種を明かされるリスクもあるからね」
「じゃあ、先生がストーカーにあってたっていうのも、嘘……」
「美澄さんに言います!」答えを訊く必要もない。「上総美澄は、私の兄の奥さんです」
 初めて、出雲さんは驚いた顔をした。それはすぐに納得のものに変わる。
「なるほど、だからきみがいろいろと口を挟んで、気付いちゃったわけか」
「美澄さんが来なかったら、それに私たちがこのことを外にバラしたら、まずいんじゃないですか!」
 出雲司は、とんでもなく悪い人だった。表に向ける清廉な顔とは裏腹に、子どもを利用してお客さんを騙すのが本当の顔。それを私たちが外部に流せば、きっと立場は危うくなるに違いない。
 だけど彼は「好きにしたらいいよ」と肩を竦めた。私たちの前を横切って、テーブル前の椅子に腰かける。
「もう十分に名前は売れたし、スポンサーもついている。この場所ももうすぐ引き払う。高校生のつまらない噂が流れても、客が少し遠のいても大したダメージはない。だから実際、いつ暴露しようか考えていたんだ。思った以上に鈍くてね、全然気付く素振りがないから好都合だったよ」
 後半は旭のことを指していた。散々使い果たして、彼のことはもう用済みになってしまったのだ。
「役には立ったけどね、こうも懐かれると鬱陶しいもんだよ。先生先生って、小学生じゃあるまいし」
「旭は、本当にあなたを信頼していたんですよ!」私は一歩前に出る。「いつだってあなたの名前を口にして、頼りにしていたのに……!」
「きみも物好きだね、そいつにそこまで肩入れするなんて」
「前、私に言ったじゃないですか! 旭をよろしくって」
 少し考えるそぶりを見せて、彼はふふっと笑った。可笑しさが堪えられない、という顔をしていた。
「あんなの、社交辞令だよ。ああ言っとけば、俺を疑うことはないだろうと踏んでね。それに、最終的には七瀬さんが気付かせてしまったんだ。そのことを理解してる?」
 思わずはっとして、口を閉ざしてしまう。
「余計なことを言わなけりゃ、そいつはまだ俺のことを信じて夢を見られていただろうね。自分も必要とされているだなんて、傲慢な夢を。その方がずっと幸せだったはずなのに」
「でも、それじゃあいつまでも、あなたは旭を騙していたんでしょ」
「騙すなんて人聞きの悪い」背もたれに背を押し付けて足を組む。「言っただろ、夢を見せてあげてるんだ。だからそれを覚ます可能性を持つ存在、つまりきみこそ害悪だったわけだ。そいつに味方をするのは俺だけでいいってのに、どんなにしても離れようとしないんだから」
「まさか……」
 私と旭を離れさせようとした誰か。サトウと名乗ったあの人を使っていた真犯人。
「しぶといね、本当に。何が良いのかわからないけど」
 旭が慕う先生は、旭を孤独に導く人だった。彼の目を覚ましてしまう存在を、排除しようとしていた。自分は出雲司にとって大事な人で、必要とされる存在であるという夢の中に、閉じ込め続けていた。
 こんな仕打ち、あんまりだ!
「先生……」
 私が叫ぼうと口を開きかけた時、旭が小声で呟いた。その声は震えていなくて、ただ、寂しそうに聞こえた。
「先生にとって、今の俺は何なん……?」
 この人は旭をひどく傷つけた。だけど旭を救えるのは彼だけだ。彼の一言で、旭の心は助けられる。
「邪魔者だよ」
 だけど、彼に旭を救おうとする気持ちは微塵も存在しなかった。
「目が覚めたなら、利用する価値もない。却ってリスクにしかならないからな。二度と俺に口を利くな」
 あまりにひどい台詞に、私は絶句して何も言えない。
 彼は縋るような眼差しを向けていた。一縷の希望を見出そうとしていたに違いない。
 その光さえ潰えてしまった時、彼は黙って目を伏せた。彼の叔父さんと駅前で遭遇した、あの時に見たのとよく似た暗い瞳だ。何もかもを諦めて、ただ耐え忍ぶだけの。
 項垂れたのか、礼をしたのかわからない。微かに頭を下げた旭は、「……お世話になりました」淡々と言って、力なく背を向けた。
「旭……!」
 私の声なんて聞こえてない後ろ姿は、廊下に出ていく。靴を履いて、ドアを開けて、部屋を去っていく。
「きみも行かなくていいのかい」
 その声に、きっと振り返る。何か言ってやらないと気が済まない。彼が言わないなら、せめて私が反論して、どんなに惨いことをしたのか訴えないといけない。
 それは重要なこと。だけど、それ以上に旭が気になって仕方なくて、私は迷いを振り切って踵を返した。非情な大人より、傷ついた旭の方が何万倍も気がかりだ。私は部屋を飛び出した。

「戻ろう」
 階段を下りる旭の後ろ姿に私は呼びかけた。だけど彼は振り向きもしない。「ねえ」何度声をかけても足を止めてくれない。力ずくで……なんてわけにもいかないから、私も彼に続いてマンションを出た。
 敷地から少し歩いたところで、やっと旭は足を止めた。その隙に私は彼の前に回りこんで片腕を握る。
「いいの? こんな終わり方で」旭の暗い瞳を見つめる。「ひどすぎるよ!」
「じゃあ、どうしろっていうん」
 そう彼が呟くのに、私は上手な返事ができなかった。今更なにを言っても、あの人からは旭を傷つける言葉しか出てこない。一言謝ってと言っても、鼻で笑われるのが目に見えている。
 するりと私の手から腕を抜いて、彼は再び歩き出した。
「ごめん……」彼について歩きながら、私はその背に謝る。「ごめん、旭」
「なんで梓が謝るんや」
「私が、余計なことを言ったから……」
「梓が言わんかったら、俺はいつまでも騙されとった」
 彼の声は普段通りに聞こえる。今日は曇っとるな、そんな言葉が続きそうな声音。
 だけどそれは確かに沈んでいた。私の前で必死に平静を保っているのが明確だった。彼は懸命に、普段通りを作っていた。
「梓はなんも悪くない」
 辛くて悲しくて申し訳なくて、私は唇を噛む。あの人を疑う言葉を最初から言わなきゃよかった。騙されていた方が、旭は幸せだったかもしれない。けれどいつか夢は覚める、あの人は彼を切り捨てる。
 これでよかったのかもしれない、それでも後悔が溢れてきて、葛藤に押し潰されそう。
「……すまん、帰ってくれ」
 はっとして、足を止めた彼を見上げる。唇を引き結んで耐えている彼は、ふと力を抜いて笑みを浮かべた。悲しそうな、泣き出しそうな、見ていて辛くなる微笑みだった。
「あの、上総って人には、悪いことしたな」
 息もできなくなる辛さに、彼をめいっぱい抱きしめたい衝動に駆られる。
「今は、一人にしてほしい」
 だけど、彼の心の奥底に、私は触れられない。孤独から彼を救えない。どれほど近くに感じても、最後の一歩の距離は永遠に縮まらない。
「大丈夫だよ……」
 悲しみに、私も掠れた声で囁く。
「旭は、一人じゃないから」
 じっと私を見つめて、彼は一つ頷く。それを見届けて、私は歩き出した。彼の悲しい笑顔を思い出して、振り返ることはできなかった。