「ねえ、旭」
 図書館の専門書コーナーで本を選ぶ彼に、私は声をかけた。私にはあまり興味のない「化学の道標」をぱらぱらめくりながら、彼は「なに?」と返事をする。
「出雲さんって、相談に来た人にお守りを配ったりするの」
「お守り?」
「私の親戚が相談に行ってね、お守りを貰ったんだって」
 はたと手を止めて考えて、思い当たるふしがあったのか、「ああ」と頷いた。
「見たことはあるなあ。けど、客に配っとるかは知らん。相談事とか客のこととかは、仕事やし俺には教えてくれへん。……どしたん」
「その人がね、ストーカー被害に遇ってたの。それで出雲さんに相談して、お守りを貰ったら収まったんだって。だから、関係があるのかなって思って」
 全ては既に解決した。私は軽い世間話程度のつもりだったけど、彼の表情は次第に難しいものになっていく。手の中の本をぱたんと閉じて、棚に戻した。
「親戚ってのは女か」
 彼の剣幕の理由がわからない。唐突な台詞に私はぎこちなく頷く。
「上総って女か」
「……なんで」思わず、上ずった声が出てしまう。「なんで、知ってるの」
「俺かて聞きたいわ」
 苦い顔で、彼は私を見据える。
「なに被害者ぶっとんや。そいつ、先生のストーカーやで」
「ちょ、ちょっと待って、どういうこと」
 全く話が理解できない。美澄さんが出雲さんのストーカー? 一体旭は何を言ってるの?
「どういうも何も、そのままや。まさか梓の親戚やとは思わんかったけどな」
「なに言ってるの旭。美澄さんがそんなことするわけないじゃん」
「ほんまやから言うとんや。そいつ、こないだ先生のとこに来たらしいな。そっから、先生を尾けたりしとんやて」
 旭は何かを勘違いしている。だけど、一体何をどうやって?
「やから俺が、その女を調べとったんや」
「ってことは……旭が、美澄さんのストーカーだったの」
「もともと悪いのはそいつやで」
 美澄さんが出雲さんをストーキングしていて、出雲さんを慕う旭が彼女を尾行して調査していた。そういうことらしいけど、私はまず前提から信じられない。美澄さんはそんな人じゃないし、理由だって見当たらない。
「ひょっとして、この前、私が夜出歩いたかって訊いたのは」
「驚いたわ、梓が隣歩いとんやからな。どういう関係か不思議やったけど、そうか親戚か、腑に落ちたわ」
 一人で勝手に納得している旭。
「被害がなくなったからもうええて言われて、俺もやめたんや」
 唖然としてしまった私だけど、慌てて「違うよ」と訴える。
「美澄さんはずっと怖がってたんだよ、ストーキングなんてするわけないじゃん」
 だけど、私が美澄さんを信じているように、旭も出雲さんを信頼している。彼女がストーカーなんだと言って譲らない。
 それでも私は、美澄さんが清廉潔白であると信じている。
 その時、一つの考えが私の頭に浮かんだ。
「もしかして……出雲さんは、旭をストーカーにしたかったんじゃないかな」
「どういう意味や」
「お守りの効果を信じさせる必要があって、実際、お守りを渡してから被害はなくなった。それは、旭にもういいって言ったから」
 旭は、出雲さんの元を訪れるお客さんのことをよく知らない。美澄さんがお守りを手渡されていたことも、当然知る由もない。
 段々と私の考えを理解する彼の顔が引きつっていく。
「会社の同僚さんに紹介できるか、美澄さんは様子見に行ったんだって。だから出雲さんは、自分のストーカーだって旭に尾行させて、身に覚えのない彼女が相談してくるのを待って、お守りを渡して、旭には解決したって説明する。そうしたら、彼女は出雲さんを信頼して今度はお客さんを連れて行く……」
「そんなわけあるか!」
 旭が大声を出した。彼の後方にいる人が驚いて振り返るのを見て、私は自分の唇に人差し指を立てる。彼は何とか怒りを抑えようと、必死に口を引き結ぶ。だけど感情はすっかり昂っていて、握った手は微かに震えていた。
「つまり、先生が俺を利用したって言うんか」
「そんな言い方は、したくないけど」
「相手が梓でも、流石に許せへん」懸命に彼は声を殺す。「そんなん、先生がするわけない」
「私だって旭を信じたいけど、美澄さんのことも信じてる。だから……」
「あり得んて言うとるやろ。変なこと言わんでくれ。俺はあの女が悪いって聞いとるんや」
 何を言っても否定されて、次第に私もムキになってしまう。
「けど、旭の言い分が私には信じられないよ」
「ほんなら今から訊きに行くで」
 旭は鞄を置いてある自習室に向かって歩き出し、私は慌ててその後を追う。
「今からって、出雲さんのところ?」
「そうや」
「でも、もし旭を騙してたら、ほんとのことなんて言わないよ」
「そんでもボロは出る。何より、梓も直接話したら納得できるやろ」
 それにしても急すぎる。だけど、文句の出かけた口を私は噤んだ。彼の必死な横顔に、それ以上何も言うことができなかった。